はじめに・・・
「デス・リテラシー(Death Literacy)」をご存じでしょうか?
「情報リテラシー」はよく耳にしますが、「デス・リテラシー」は聞きなれない言葉ではありませんか?。
実は私、ネット配信の新聞記事で初めて知りました。
死を取り巻く様々な事柄を理解する「デス・リテラシー」という言葉があることを。
<参考>産経新聞(2026.3/27)
「終末期の介護の知識「デス・リテラシー」低スコアの日本…多死社会どう乗り越える」
上記の参考記事では、
”千葉大などの研究グループが「日本のデス・リテラシーは世界各国に比べて乏しい」と報告しました”とあり、そして「来る多死社会に備えてデス・リテラシーを高めましょう」と、デス・リテラシーの向上を勧めています。
???
「リテラシー」って、何でしたっけ?
ちょっと立ち止まり、
「リテラシー」について復習したいと思います。
「リテラシー」とは・・
「リテラシー(Literacy)」の原義は「読解記述力」平たく言えば「読み書きの能力」という意味です。
その「リテラシー」の頭に、いつの頃からか、「情報」や「金融」をつけて「情報リテラシー」とか「金融リテラシー」という言葉にして使われるようになりました。「リテラシー」がそのような造語となって使われるようになった時期は、ヤフーのAIモードによれば2000年頃からだそうです。
今「リテラシー」と言えば、「リテラシー」という言葉の「能力」という意味が強調されて、 ”ある特定の分野における知識や理解力や行動力”という意味で用いられるようになりました。
今では、ビジネスリテラシー、ITリテラシー、メディアリテラシー、ヘルスリテラシー・・というように使われています。
そして「リテラシー」は能力ですから、人や組織を評して「××は〇〇リテラシーが高い」とか「××は〇〇リテラシーが低い」という評価に使われる言葉なのです。また、能力であるが故に数値化されて評価される性質のものであるという理解も必要です。
そして、世間では様々な”〇〇リテラシーの向上”が求められている昨今です。
それでは、話を「デス・リテラシー」に戻しましょう。
「デス・リテラシー」とは・・
「デス」は「死(Death)」のことです。
「リテラシー(Literacy)」は、”ある特定の分野における知識や理解力や行動力”を意味しているわけですから、つまり、「デス・リテラシー(Death Literacy)」とは「死に関する知識や理解力や行動力」を意味する言葉なのです。
〈本記事の趣旨〉
「死に関する知識や理解力や行動力(デス・リテラシー)」が高いとか低いとか・・とは、具体的にどのような状況や状態を意味するものなのでしょうか? これを本稿のテーマにしたいと思います。
死にゆく道程、死に抗う、突然の死、死という出来事、死を悼む、死を尊ぶ、永遠の死、人それぞれの死生観、死後の世界、宗教と死・・。死は、命が絶えるということ以外に、実に様々な解釈や行動を呼び起こします。そして人の心は、様々な感情の坩堝の中で様々な様相を呈します。そしてまた、人は死というものに人知の及ばない”得体のしれない何かが”があることにも気が付きます。死を語るとき、死は宇宙のように無限なのです。
ですからよけいに、
デス・リテラシーが具体的にどのような能力をどのように理解しようとしているのかについて、明らかにしておく必要があると思いました。
そしてさらに、
先に述べました「リテラシーは能力であるが故、数値化されて評価される性質のもの」という理解には注意が必要だと思いました。なぜなら、ある事象に「高い」「低い」という指標が与えられた時、人は盲目的に「高い」を良しと理解する傾向があるからです。
扱うのは「人の死」です。
ただ単に「デス・リテラシーを向上させましょう」ではなく、デス・リテラシーの向上が、私たちの何にどのように影響していくのか・・について、きちんと理解しておく必要があると思います。
本稿では、前半においてはネットの記事を引用しながら「デス・リテラシー」について記述し、後半では私の実体験を引き合いに出して「デス・リテラシー」についての理解を深めていきたいと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
デス・リテラシーとは:目 次
〔発見再発見ノート〕
1.デス・リテラシーとは
〔千葉大学発信の記事より〕
冒頭に記した産経新聞の記事を頼りに調べた”千葉大学発信の記事”には以下の文言がありました。
”千葉大学と北海道大学の研究グループが「終末期や死に関する実践的な行動能力(Death Literacy)」を測定する尺度の日本語版及びその短縮版を開発しました。”
この記事を引用させていただきながら、デス・リテラシーについて理解をしていきたいと思います。
<引用元>終末期や死に関する実践的な知識と行動能力を測る新指標「デス・リテラシー尺度」の日本語版を開発
デス・リテラシー
【定義と四つの要素】
上記の記事には、その文脈から「デス・リテラシーの定義」と理解してよいと思われる一文があります。本稿ではそれを【定義】と位置づけて以下に転記しました。
そしてその内容については【四つの要素】から成り立っているとして、短い言葉で述べています。
本稿では、その【四つの要素】を箇条書きに改めて、以下に転記させていただきました。
そしてまた、そこには「測定する尺度」と書かれている通り、「デス・リテラシー」は測定されるものであるという理解はそこでも明らかになっています。
(以下の転記にあたり、定義という言葉を加え、四つの要素は箇条書きに編集させて頂いたこと、ご了承下さいませ)
(以下、転記です)
【定義】
終末期や死に関するケアについて、情報にアクセスし、理解し、意思決定を行うための実践的な知識や行動能力。
【四つの要素】
Ⅰ. 実践的な知識 :コミュニケーションスキルや身体的な介護スキル(ハンズオンケア)。
Ⅱ. 経験から得た知識:死や喪失の経験を通じて得られる個人的な成長や変容。
Ⅲ. 事実に関する知識:終末期計画や法的手続き、医療・介護制度に関する知識。
Ⅳ. 地域に関する知識:コミュニティ内の支援やサポートグループなどを知り、アクセスする能力。
(以上、転記終わり)
*
*上記、引用させて頂いた記事では、四つの要素に関する具体的な解説は記載されておりませんでした。なので、以下に補足させて頂くことで、デス・リテラシーへの理解をさらに深めたいと思います。
:補足/本稿の筆者による
Ⅰ.実践的な知識について
ハンズオンケアは”机上の説明や頭での理解だけではなく、実際に相手様の身体に触れて行うケア”という意味です。
そして相手様の身体に触れるとき、大事なのは「心を込めて」という心の持ち方です。当たり前のように思えるかもしれませんが、「心をこめて」は介護現場に携わる者として強く世間様にお伝えしたい心の持ち方です。
介護には「ユマニチュード」という認知症ケアの手法があるのですが、その手法の中にも、”ボディタッチ”という実際に相手様の身体に触れるケアが、ケアテクニックのひとつとして位置づけられています。最近劇場公開された映画「急に具合が悪くなる(2026.6月劇場公開)」の中でも取り上げられていました。
つまりデス・リテラシーには、
”①ハンズオンケアを含めたより適切で、②コミュニケーションスキルを駆使した、③よりいっそう心を込めた実践的ケアの知識が・・求められる” という理解が良いと思います。
Ⅱ. 経験から得た知識について
死や喪失で得た経験を、次に同じような出来事に遭った時に役立てましょう、という理解で良いと思います。
そして、役立てる対象は他者だけでなく、自分にも向けられることをしっかりと自覚したいと思います。
自分にも向けられるとは、死や喪失の経験は自分自身の死に方にも影響を与えるという意味です。なぜなら、死や喪失の経験とその解釈が、例えば「私は延命措置を望みません(又は、望みます)」という判断を宣言することに繋がるのであれば、それはデス・リテラシーの向上と発揮によるものだと言えるからです。
私の個人的な体験ですが、介護現場での看取り介護を通じて高齢者様の”死にゆく様子”と”実践ケア”を勉強させて頂いている今、もしも私の両親が他界する前に私が介護職に携わっていたのなら、死にゆく両親に対する私の接し方はもっと活発で尚且つ冷静であっただろうと、今になって思います。
Ⅲ. 事実に関する知識について
事実に関する知識を得る、これは努力次第で得られるものですね。
高齢者医療制度、介護保険制度、訪問介護、デイケア、老人ホーム・・、いざ必要にならないと、今の私には関係ない今の私には早すぎる…と思うのは人の常かもしれません。でも、高齢も死も人生という時間軸の延長戦上にあって万人に訪れるものなのですから、それらの知識を持つことに無駄はありません。それこそがデス・リテラシーの向上に繋がることなのでしょう。
多くの人において、介護の助けを外部に求める段階になって初めて知るのが「地域包括センター」ではないでしょうか。そして「ケアマネージャー(介護支援専門員)」さんの存在も知ることになります。そのような地域社会における行政のサポート体制について普段から知識を得ておくことは、デス・リテラシーを高めることに繋がると、千葉大学の記事では言っているのです。
また、さらに大事なことがあります。
現状の医療と介護、そしてそれらを取り巻く社会環境が、今どのような状況にあって今どのような問題を抱えているのかを知ることです。例えば、高齢者人口の増加、医療保険と介護保険に充てる財源確保の問題。看護師の不足。介護士やケアマネージャーの不足。さらに、それら要素の都市部と地方との環境格差・・等々。
そしてさらに、変化に対しても敏感でなくてはいけません。環境と状況の変化、及び問題の解決のために従来の制度は改定されたり廃止になったり、そして新たな制度ができたり・・状況は常に変化しているからです。・・ちなみに、今状況は悪い方向へ向かっています。社会保障費の財源は不足し、看護師・介護士・ケアマネージャーの不足は今後さらに深刻になると予想されているからです。介護難民という言葉がもっと身近なものになっていくでしょう。
Ⅳ. 地域に関する知識について
冒頭に挙げた産経新聞の記事では、この項目が強調されています。
何故、地域に関する知識を新聞は強調したのでしょうか。
なぜなら、その新聞記事は、近い将来顕著になるであろう医療や介護の崩壊に対応するためには、個人一人ひとりがデス・リテラシーを向上させる必要があるという論点に立っているからです。
介護の崩壊について、私は介護現場にいる身ですから、耳に挟むことがあります。「介護士が不足して、もうお客様の要望に応えられないかも..」という声を。都市部と地方との差は大きくて、その困窮な状況は地方から始まっているようです。これはやがて全国民に訪れるであろう深刻な問題となっていくのでしょう。
”高齢者は増える→医療や介護が必要な高齢者も増える→現場ではそれに応えられない→たとえ病状が進んでも、たとえ要介護度が進んでも、その先、病院や施設以外で最期を迎えざるおえない。→そういう社会がもう間近に迫っている。だから地域社会のサポートが必要だ” ・・という認識が、もう今から必要なのです。
冒頭で引用した産経新聞の記事には、以下のように書かれていました。
(以下引用です)
「年間約160万人が死亡する多死社会に突入する中、医療や介護の逼迫で病院以外で最期を迎える人が今後増えることも予想され、研究グループは、事前に終末期に関する地域のサポートなどについて理解を深めることが望ましいと指摘している」
(以上引用終わり)
【地域社会の工夫:事例】
東京都世田谷区では2026年7月から始めた高齢者支援事業があります。
65歳以上、身寄りや頼れる人がいない、資力に乏しい、子や孫のいない単身世帯、世田谷区に住民票があり且つ在住している・・等、条件はありますが、行政が行う終活支援としてテレビのニュースでも取り上げられていました。
当支援センターの案内文には「人生の終わりまで安心して暮らす備えとして当センターをご活用ください」と書かれています。この一文を支える基本的な考えは、日本国憲法の第25条第一項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」ですね。
これを読んでいただいている皆様のお住まいの市町村も、なんらかの高齢者支援体制を展開しているかもしれません。一度お住まいの市町村のホームページで調べてみて下さいませ。
また、このような支援制度は社会環境の変化に対応していく必要がありますので、支援内容は改正されることがあると思います。度々、確認をしておきたいものです。

(画像/黒板はイメージ,出典:photoAC/文言は筆者)
Ans:〔 〕終末期や死
Ans: 〇〇〇・・/ 情報にアクセスし、理解し、意思決定を行うための
2.デス・リテラシーは何にどの様に影響するのでしょうか?
ここからは私の実体験を通じて「もしもデス・リテラシーがもっと高かったら..」という視座に立ち、「デス・リテラシーがもたらす価値」について考察してみたいと思います。
(1)母の苦悩を減らすことはできたのだろうか?
*主旨は「もしもデス・リテラシーが高かったら、母の苦悩を減らすことはできたのだろうか?」です。
*この時のWho?(誰のデス・リテラシー?)は、私と私の兄と、そして母です。
<事例:私の母の場合>
胆管癌に侵されて入院していた私の母は、その時86歳。
癌そのものに対する医療行為は既に終えており、点滴が施されている毎日でした。
「1年、長くて1年半」という余命宣告から、もうすぐ2年になろうとしていた春四月のことです。
余命宣告のことは、母には内緒のままにしていました。
父は認知症を発症していて要介護3、話をして状況を認識できる能力は既にありませんでした。
・・86歳は当時の平均寿命に届く年齢ですから、諦観を持って優しく死を受け入れることが望ましかったと..今思うのですが、当時の私は只々狼狽えているばかりでした。デス・リテラシーは低かったと思います。
それは、病室の母を見舞っている私の目の前で起きました。
母は顔を斜め上に向け、ぶら下がっている点滴の袋に目をやり、そして言ったのです。
「こんなものを付けて、母さんをいつまで生かしておくつもりだ! こんなもの、早くとってしまえ!」
弱っている身体から吐き出される精一杯の母の抵抗に私は驚き、そして私は狼狽えました。
それは、怒鳴るようにも懇願するようにも聞こえる、そして哀切に溢れる声でした。
それは、死にゆく母の、辛くて悲しい本心・・だったと、今も思っています。
病に侵されるということは、治るとか治らないとかの二元論に留まらず、多方向に渡る様々な思いや悩みを本人にも周囲にも巡らせることになるものなのですね。
母の言動を私はまず兄と共有し、翌日には看護師、そして主治医に話をして、どうしたらいいのか相談しました。
でも、病院の対応はとても曖昧でした。その理由は今になってよくわかります。
医師の使命は人の命を救うことにあるからです。
なので、医療行為(ここでは点滴のこと)による副反応(浮腫みや皮下出血)が認められない限り、医療行為を止めるわけにはいかないのです。副反応が見られて、今以上良化しないとか現状維持もできないという状況に至れば、その医療行為に効果は無いことになりますから中止も可能になります。母の命は余命宣告されていたとはいえ、その時の病状は落ち着いていて、点滴による副反応は認められませんでした。
もしもその時、日本に尊厳死が法制化されていれば、その対応は異なるものになっていたでしょう。
結局どうなったかというと、母への点滴は、私と兄の強い要望によって、中止と再開を何度か繰り返しました。
私と兄の意見は異なり、またさらに、私も兄も一晩寝たら気持ちが変わっていたりしたこともあったからです。その混乱は、母にとって、かえって辛い時間になってしまっただろうな・・と、今は後悔しています。
<もしも、デス・リテラシーがもっと高ければ・・>
・・私と兄のデス・リテラシーが高ければ、そのような慌てふためいた混乱もそして後悔も、避けることができたのかもしれません。母には申し訳ないことをしました。私も兄も、母の苦悩に対して上手に対応することができなかったからです。
・・そしてまた、母には酷ですが、母のデス・リテラシーが高ければ「いつまで生かしておくつもりだ!」と叫ぶような心の状態にはならなかったかもしれません。あくまで想像ですが。
デス・リテラシーは、死にゆく本人を取り巻く周囲の者だけでなく、実は、死にゆく本人にも必要なもの・・という理解が必要だと思います。そのような意味において、病気と高齢と迫りくる死を、どのように理解して今を生きていったらいいのか..という問いに応えることもまた、万人のデス・リテラシーにとって重要な要素なのではないかと思います。
私たちは、前期高齢者辺りの年齢まで無事に生きてこれたのなら、その辺りからデス・リテラシーを向上させることに取り組むべきなのかもしれません。その先、自分の心身をできるだけ穏やかな死に運んでいけるように・・。
母はその後、同じことは二度と口にしませんでした。きっと、私と兄を困らせることになると思ったからでしょう。
母は三か月後の七月に他界しました。その時、点滴はもう中止してからだいぶ経っていました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
(2)父は二か所の老健を行き来していた。
*主旨は「デス・リテラシーの高さが、私の父の”二か所の老健を行き来する”を可能にさせた」です。
*この時のWho?(誰のデス・リテラシー?)は家族ではありません、父を担当して下さった地域包括センターのケアマネージャーさんです。専門職ですから当然と言えるのでしょうが、評価という視点ではなく、デス・リテラシーを学習するという視点でお読み頂きたく思います。
*ケアマネージャーの仕事は、医療とは異なる形で人様の人生の危機を救う大事な仕事だと、私は思っています。
老健は「介護老人保健施設」の略名で「ろうけん」と呼ばれています。
私の父は認知症を患い、老健に入所したのは要介護3のときでした。そして要介護5の認定を受けてから特養(特別養護老人ホーム)に入居するまでの間、二か所の老健を行ったり来たりしていたのです。
Q : なぜ最初から特養に入居しなかったのでしょうか?
⇒ なぜなら、特養は満床、入居は150人待ちの状態だったからです。
Q : なぜ二か所の老健を行き来していたのでしょうか?
⇒ なぜなら、老健は在宅復帰を目指す短期滞在型の施設だったからです。
この話題は、デス・リテラシー四つの要素のうちの ”Ⅲ.事実に関する知識” に該当します。
そして、施設に入居したいけれども経済的負担が障壁となっている場合の参考になります。
さらに、老健の性格が分かります。
そしてさらに、ケアマネージャーさんの役割も、その一部が分かります。
なので、これらの情報はデス・リテラシー向上に役立つと思います。
<事例:私の父の場合>
私の父が認知症を発症し自宅での介護の後、老健に入所したのは要介護3の時でした、居住地は東京都下です。
それ以前のこと・・・
私の母は胆管癌で入院中。父は家に独り。私と兄は交代で実家に行き父の世話をしておりました。そして私と兄がいよいよ実家への通い介護に限界を感じたとき、経済的な事情から特養(特別養護老人ホーム)を望みました。
でも、その思いは、世間の状況を知らない私と兄のとても甘い考えだったのです。
特養は満床。入居順位はなんと150人待ちでした。2011年頃のことです。私と兄は途方に暮れました。(ちなみに、その後要介護4の認定を受けるのですが、それでも待機という状況は変わりませんでした)
そこでケアマネージャーさんが考えて下さった代替案が老健への入所です。
それは「老健で過ごしながら、特養に入れる状況になるのを待ちましょう」というものでした。
でも、老健に長期滞在はできません。なので、どうしたのかというと、二か所の老健をおおよそ半年毎に行った来たりすることになりました。このやり方は、ケアマネージャーさんの手腕がなければ実現しなかったと思います。ケアマネージャーさんには大変お世話になりました。
そして、まだこの先老健での暮らしが続くだろうと思っていた矢先、ひとつの老健から言われました。
「お父様なんですが、もう私共では面倒をみることはできません(もう来ないで下さい)」
理由は父の認知症の症状がいっそう醜くなってしまったからです。父にとって、私と兄にとって、現状を継続できない危機がやってきました。
その時、そこの老健の担当者はさらに酷なことを私と兄に言いました「何処の施設でも、引き取ってくれないと思いますよ」と。これはもう介護施設担当者が口にする言葉ではありません。そのような心無い暴言を吐く施設の担当者も世の中には存在するのです。
話を少しずらしますが、
入居した施設からの退去依頼は有料老人ホーム、公共の老人ホームに関わらず有りえることだと心に留めておいた方がいいです。理由は入居するご本人様の病気や心身の変化です。入居している老人ホームで対応できなくなれば、退去案件となります。病気の場合は一時病院に入院して治ったらホームに戻るということもできますが、スムーズに戻るにはホームの維持費用が負担になります。もしも解約すれば、また最初から探さないといけません。終の棲家と思っていたご本人もご家族にも、まさに危機が訪れます。
以下の事例は、私の勤務先でのことです。
私は介護付き住宅型有料老人ホームで介護職として働いておりますが、退去案件を一度経験したことがあります。
認知症が進んだ入居者〇〇さんについて、スタッフの間から「〇〇さんはここには相応しくない。グループホームに転居してもらっら方がいい」という意見が施設の館長にぶつけられたのです。館長は、ご家族様との話し合いの場を持ちました。結果的には居住継続となり介護を継続させて頂いておりましたが、今度は別の退去事由が発生してしまいました。身体機能の衰えから2時間毎の喀痰吸引の必要が発生したのです。その方は、24時間看護体制の整った施設へと転居されていきました。
〔*喀痰吸引:口内や鼻、喉などに溜まって除去できない痰(喀痰)を吸引器を使って吸い取る医療的ケアです。介護福祉士でも所定の手続きを行うことで吸引ケアは可能になりますが、私が勤める施設には日中に看護師が行うのみとしていました。施設を選択する時の要チェック項目のひとつです〕
〔看護師がいる老人ホームの場合、看護師が勤務している時間帯(24時間or昼間のみ等)を確認するのはもちろんですが、看護師が可能な医療的ケアの内容についても事前に心得ておくべき必須な知識です。例えば、、インスリン注射、静脈点滴、喀痰吸引、ストーマ―管理、導尿、胃ろう・・など。入居者様の心身の変化がそれら可能な対応から外れてしまう状態になることは、退去案件になります〕
父の話に戻します。
その時、ケアマネージャーさんが私たちを危機から救って下さいました。
「お父様の介護認定の見直しを申請しましょう。要介護度が上がれば特養へ入居しやすくなります」と、仰って下さったのです。
”要介護度が上がれば特養に入りやすくなる”。
父の様子を見ていれば思いつくことなのかもしれませんが、デス・リテラシーの低い私と兄には、思いつかないことでした。
父が要介護5の認定を受けると、100人以上の待ち人数を飛ばして直ぐ特養に入居することができました。絵描きだった父の年金は少なかったのですが、それでも特養にかかる費用をほぼトントンで賄うことができ、私と兄はケアマネージャーさんに感謝しました。
:これは2011~15年頃の出来事です。今ではもうケアマネージャーさんの不足が深刻化して、多忙を極めるケアマネージャーさんには頼れないかもしれません。ですから、私たち一人ひとりがデス・リテラシーを向上させて、私たち自身で行動していかないといけないのです。
<ケアマネージャーさんのこと>
ケアマネージャーさんについては、2026年現在地域によっては不足しており、今後も不足が広がっていくと予想されています。つまり、ケアマネージャーさんに頼りたいけど頼れないという状況が多々生じてくると思われます。そして、ケアマネージャーさんの活動人数は都市部と地方との地域格差が大きいということも、頭に入れておいてくださいませ。
ケアマネージャーさんが増えない理由のひとつに、業務の多忙さや理不尽な辛さがあるそうです。
例えば、利用者はなんでもかんでもケアマネージャーさんを頼りにしたり(例えば、利用者の家族は介護保険適用外のことも当然のように要求してくる・・ケアアンネ―ジャーは受けざるおえない・・いっそう忙しくなるetc)、利用者や家族の思うようにならない事については利用者や家族がケアマネージャーを叱責したり・・というカスハラを受ける・・等々もあるようです。なので、たとえ資格を有していてもケアマネージャーの職を辞めていくという事例は多々あるようです。
これは、とても深刻な問題です。
ケアマネージャーさんは人様の一人ひとりの命と人生を、医療とは異なる立場で支えて下さっています。
ちなみに、ケアマネージャーさんが1ヵ月に担当できるお客様の人数は決められていて、44人が上限です(条件によって49人)。多いですね。その苦労は大変なものだと思います。
〈老健 /「介護老人保健施設」のこと〉
老健には、県や市区町村などの地方公共団体が設置する老健もあれば、民間の医療法人や社会福祉法人が設置する老健も多くあります。いずれにしても、公的な介護保険制度に位置づけられた施設です。入所時の一時金などは必要ありません。毎月の費用は民間の有料老人ホームよりは明らかに安価です。
老健の特徴は在宅復帰を目指すところにあります。なので長期滞在はできません。仮の宿ですね。おおよそ三か月を迎える頃には退去を求められます。私の父の場合、長居しても六か月が最長でした。
家族は自宅での介護を「もう限界!」と感じて施設を頼っているのに、でも、退去を求められるのです。
老健を選ばなければいいのに・・と思うのは早合点というものです。そのひとつの事例が、上記に記した私の父の事情でした。そのような事情もあるのだということを斟酌いただければ幸いです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
(3)看取り介護での点滴
私が介護現場で体験させて頂いている”看取り時の点滴の場面”を共有させて頂きたく思います。なぜなら、本稿のタイトルの一部にある”穏やかな死”を考えるときの参考になると考えたからです。また、それらの情報を得ることもデス・リテラシーの向上につながると思います。
ここに、ご家族様の対応が対照的だった二つの事例をご紹介いたします。
いづれの方も95歳を超えた高齢者様です。
<私が介護現場で体験したこと>
〔事例1 / 抗うご家族様〕
私が、看取り介護のケアのために部屋を訪れていた時のことです。その方が飲み物も食べ物も口にしなくなってから十日。その日も点滴は続いていました。ご本人様の呼吸は喘ぎに近くなり乱れています。なんだか苦しそう・・。そこへ定時巡回の看護師が訪室されました。掛布団をめくりバイタル測定。そして、パジャマの袖をめくり上げ、パジャマの上も下もずらして、肌の状態を確認しました。そして、言ったのです。
看:「見て、ほら、こんなに浮腫んじゃって。皮下出血もあるわね」
私:「点滴・・ですか?」
看:「そう。もう身体が受け付けなくなっているのよ」
私:「(点滴)止めればいいんじゃあないですか?」
看:「先生(往診の主治医)もそう言って いるんだけどね…、ご家族様がね…」
老死に向かって身体機能が衰弱していくところへ点滴を続けると、身体は点滴を処理できず、身体は浮腫んでいきます。さらに皮下出血もしやすくなります。多くの場合、その様子を見てご家族様は納得、点滴は外されます。でも中には自然の摂理に抗おうとされるご家族様もいらっしゃいます。
ご本人様の呼吸はハアハアハア・・と乱れてきていました。私は、このまま死前喘鳴になるのかなぁ…、もっと早く点滴を止めていれば、こんなに長引かずに済んだのになぁ…と思い、老衰死に向かっているご本人様の死が無理やり伸ばされているように感じて、ご本人様が可哀そうだと感じました。
〔事例2 / 諦観されていたご家族様〕
上記と同じように看取り介護のケアにお部屋を訪れていたときのことです。昨日もいらっしゃった娘様がお部屋にご来訪されました。娘様といっても、もう還暦を過ぎていらっしゃいます。その方と私の会話です。
娘様:「点滴はやめてくれたのね。それでいいわ。あれは儀式みたいなものだもんね。1~2回やれば十分よ」
私: 「もうほとんど、水分は摂れていません」
娘様:「心得ていますよ。母の時もそうだったから。毎日ありがとうございます」
:娘様は、お父様のベッドサイドに立ち、腰をかがめて言いました。
娘様:「お父さん、もう頑張らなくてもいいからね。もう十分に頑張ってきたんだからさ。お父さん、お母さんが天国で待っているわよ。お母さんによろしく言っておいてね。私も〇〇も元気でやっているって」
お部屋にはCDラジカセを持ち込み、懐かしい昭和の歌が24時間流れていました。
私はその日の退勤前に、この方の枕元で今までのお礼を伝えました、手を握って。
介護の勉強を沢山させて頂いたこと、映画の話を沢山してくれたこと、将棋を指してくださったこと・・。そうしたら、その方の目は閉じたまま、口は半開きのままで開かないのですが、その方の目尻に涙が浮かんできたのです。私は”聞こえているんだ、分かってくれたんだ!”と思って、嬉しくて、私も涙が出ました。
この方とは、一緒に過ごさせて頂いた時間が長く、介護の勉強をいろいろさせて頂きました。
なので、私の「介護の詩/車止めで一息」の中の口語自由詩に複数作品を残してあります。もちろん、個人情報保護の観点により改変を加えて個人は特定できないようにしてあります。
〔少しでも穏やかな死を迎えるために〕
参考図書
人類が生まれてから今日まで、死ななかった人はいません。
私もあなた様も、皆みんな死んでいきます。
じゃあ、みんなどのようにして死んでいったのか?
人はどのようにして死んでいくのか?
それらを教えてくれる本があります。
あらためて、死というものを考える機会になるかもしれませんので、ここに紹介させて頂きます。
以下の発行日付は、いずれも私の手元にある文庫本の発行日です。
〔参考図書〕
書名:「人間臨終図鑑」徳間文庫Ⅰ~Ⅳ巻
著者:山田風太郎
発行:初版/2011年11月15日
*「人間臨終図鑑 上巻」1986年9月刊、「人間臨終図鑑 下巻」1987年3月刊として刊行され、その後2001年に三巻本として刊行され、さらに2011年全四巻に再編集されました。いずれも発行は㈱徳間書店です。
*古今東西の様々な分野の有名人923について「〇〇歳で死んだ人々」という小見出しをつけて、その死に様が書かれている圧巻の書です。
*
人様に迷惑をかけず、苦しまないで死にたいね・・とは、多く共通する願望ではないでしょうか。
「それは神のみが知っていること、人知の及ばないことさ」と口にしているうちは若い証拠かもしれません。
いざ死ぬことになれば、人は混乱します。
有名な「死ぬ瞬間」も一度は読んでおいた方がよい本だと思います。
〔参考図書〕
書名:「死ぬ瞬間」死とその過程について/ 中央公論新社
著者:エリザベス・キュープラー・ロス
発行:初版/2001年1月25日
*裏表紙より引用
”二百人に及ぶ末期患者への直接面談取材で、死に至る人間の心の動きをさぐり、家族、病院関係者が、患者の暗黙の訴えと向き合うきっかけとなった、画期的な書”
以上、引用終わり。
*
本稿の冒頭の方にて、ネットの記事よりデス・リテラシーの四つの要素について触れましたが、それら以外にもいろいろな視点から”人の死に方”について知り、デス・リテラシーをもっともっと深めていくことは、できるだけ穏やかに死にたい・・という思いをかなえるためには決して無駄にはならないと思います。
〔参考図書〕
書名「人はどう死ぬのか」講談社現代新書
著者:久坂部 羊
発行:初版/2022年3月20日
*副題は ”「幸せな死」を迎えるためには予習が必要です!” です。この予習を、千葉大学のレポートにあるデス・リテラシーの「四つの要素」の次に加えて五番目の要素とすることで、デス・リテラシーへの理解はもっともっと深まるのではないかと、私は思っています。
〔参考図書〕
書名「寿命が尽きる2年前」幻冬舎新書
著者:久坂部 羊
発行:初版/2022年10月31日
*上記二冊の著者は同じ方で、医師です。その著者がこの本の冒頭に書いている印象的な一節があります。
以下引用
”上手に死ぬ人、下手に死ぬ人もたくさん見たので(圧倒的に後者が多い)、どうしたら自分の死を失敗せずにすむかということもよく考えます”
以上、引用終わり。
本書は、残された日々を、どのような思いで過ごせばいいのかについて指南して下さっています。
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あとがき・・
死は人生という時間軸の最後の点ですから、そういう意味では”おしまい”ではあるけれども、死もまた人生の一部分だと言えます。
ということは、「上手に生きる」を目指すことの中には、「上手に死ぬ」も含まれるのです。
言い方を変えれば「どのように生きるか」と「どのように死ぬか」とは同じテーブルの上にあるということです。
ただ、死はあってはほしくない最大の願いですから、誰もが死のことは考えたくはありません。むしろ話題からは遠ざけていると思います。
でも、死も人生の一部分なのですから、本当はしっかり考えることが必要なのです。
そして、死は自分事では済まされないことも大事な理解です。死にゆく人を見守る人たち、深い悲しみ、死後の葬儀を含めたいろいろな手続きとその後のこと・・死は周囲の人たちを巻き込みます。自分ひとりの出来事ではありません。
それらも含めて、死をしっかり考えることによって、生きていることの大事さを強く思うようになるのではないでしょうか。
そしてまた、
デス・リテラシー(Death Literacy)を、その言葉の通りに解釈するのであれば(=死に関する理解や知識や行動力)、介護に関する知識や経験や行動力に加えて、死の医学的な理解、グリーフケア、葬儀のこと、死生観をもつこと、様々な死生観に対する理解・・等々もまた、広い意味でのデス・リテラシーなのではないではないかと、本稿を書いていてそう思いました。
死を大事に思うことは、一生懸命に生きることに繋がっていくことなのです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
〔発見再発見ノート〕より
私の「介護の詩/車止めで一息」、お読み頂けたら幸いでございます。