百人一首/「冬」を詠んだ五七五七七、和歌四首


小倉百人一首には、季節を感じさせる歌が数多く選ばれています。

中でも、一番多いのは秋を詠んだ歌です。「秋」という語句を使って秋を詠んでいる歌12首、もみじ・紅葉を詠んでいる歌4首、その他にも、ああこれは晩秋の情景だなあ・・と思われる歌もあり、秋は大人気です。【参考】百人一首/「秋」を詠んでいる歌

(画像はイメージです/出典:photoAC)

それでは、冬はどうでしょうか。

冬の情景を詠っている歌は少なくて、たったの4首しかありません。しかも、秋の歌と異なり、「冬」という語句を使っている歌は、たったの一首です。

秋は歌に詠みやすいけれども、冬は詠みにくい題材だと、小倉百人一首に限っては言えるようです。

冬という季節は、歌にしにくいのでしょうか・・・

それでは、少ない冬の歌にどのような味わいがあるのでしょうか。その4首を味わっていきましょう。

第28番歌: ~ 冬ぞ寂しさ まさりける ~

第28番歌

~ 冬ぞ寂しさ まさりける~

山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば

【意訳】あ~あ、夏の間は緑豊かな草木が生い茂り、色とりどりの綺麗な花も咲いて楽しませてくれたのに・・、今は、何もないよ。山里というものは、冬が特に寂しいものなんだなあ。草木は枯れてしまい寒々しい景色ばかり。ましてや、ここには誰も訪ねてはこない。ああ、寂しい、ひとりぼっちの私。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】山里と詠むことは、そこに隠遁者が見え隠れします。山里=隠遁生活は中国の漢詩にも見られるもので、例えば、李白の「山中問答」は教科書にも載っていて有名です。一度のぞいてみてください。

ただ、もしもこの歌が孤高の世界だとしても、隠遁生活をまだ始めたばかり、初めての冬を迎えたように、私には感じられます。なぜなら、「寂しさがまさっている」という表現使うことによって、直前に「まさっていない」季節も場所も作者は経験してきたと想像できるからです。

夏の間は草木が生い茂り花も咲いていたので、誰も訪ねてこない孤独感はあまり感じなかったのかもしれませんね。隠遁生活を始めて最初の冬に、ひとりぼっちを痛感して、この歌を詠んだように、私は感じました。

【冬を感じさせるもの】

「冬」:「冬」という語句を使うことで、冬を視覚的にも聴覚的にも表象に伝えています。「人目も草もかれぬ」だけだと、秋と感じられるかもしれませんからね。

「かれぬ」は「枯れる」と「離(か)れる」を掛けていますが、こういう技法を知ることよりも、「かれぬ」という語感から、その寂しさや侘しさを表象に描くことが、詩歌を読む楽しみだと私は思っています。

第31番歌: ~ 吉野の里に 降れる白雪

第31番歌

~ 吉野の里に 降れる白雪

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

【意訳】あれ? 障子越しに感じる外は随分と明るいな。もうそろそろ夜が明ける頃だから、有明の月が地面を照らしているのかな・・(障子を開けると)うわあ~、有明の月ではないよ。雪が降って辺り一面真っ白だ。だから、こんなに明るかったんだ。吉野の里に降り積もる雪はきれいだ、美しいなあ。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】「朝ぼらけ」は夜が明ける前、空が白み始めた頃。「有明の月」は明け方に残っている月。「吉野」は奈良県吉野郡の地名。これらが分からなくても、辺り一面に降り積もった雪を有明の月の明るさと勘違いした、という歌であることは想像がつくと思います。

少し遊んでみましょう。

「朝ぼらけ 降れる白雪と 見るまでに 吉野の里の 有明の月」と詠んだら、有明の月の美しさが強調されます。

つまり「降れる白雪」という体言止めが、辺り一面に降り積もった白雪が視覚に入ったときの感慨をより強いものにしています。ここでは特に、体言止めの効果を味わいましょう。

【冬を感じさせるもの】

「降れる白雪」:<視覚><聴覚> :言葉を目に入れて、言葉を読んで自分の内耳に入れる時、思い描くアウトプットは何を描くのでしょうか。それらは、本や映画で見た画像や映像も含めて、自分の経験値の中から選ばれるか、もしくはそれらから新たに合成されます。

そして、対象と(今回はこの歌)とアウトプットとが重なる部分に、人は心を揺り動かすのだと思います。なので、何事も経験って大事です。

第64番歌: ~ あらはれ渡る 瀬々の網代木

第64番歌

~ あらはれ渡る 瀬々の網代木

朝ぼらけ 宇治の川霧 絶えだえに あらわれ渡る 瀬々の綱代木

【意訳】少しずつ明るくなって、夜が明けていく冬の朝。宇治川に漂って川面を隠していた寒々とし霧が、今、少しずつ少しずつ途切れ途切れになっていきます。見てごらんなさい、霧の晴れたところには、あちこちの瀬に網代木が見えていますよ。氷魚は、たくさん採れたのかしらねぇ・・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】どこが冬なのでしょうか?って思いますよね。その答えは「網代木(あじろぎ)」にあります。網代木は、氷魚(鮎の稚魚)を採るために川に設置した仕掛け。竹などを編んだものを川の浅瀬に固定させる杭が綱代木です。宇治川の冬の風物詩だったようです。

ここでも体言止めが生きています。余韻が残りますね。

ちなみに、心理学には文章における言葉の配置について「系列位置効果」という理解があり、その中で「親近効果」という心理作用を説いています。これに倣えば、末尾の語句がより強く記憶に残りやすいのです。つまり、体言止めによる余韻の効果は、名詞であることにより動詞よりも情景をより具体的に描きやすいのはもちろん、「親近効果」もあるのだと思います。

【冬を感じさせるもの】

「網代木」:これを目にして耳にして、すぐに分からない。私も、最初は分かりませんでした。辞書で調べないといけない。こういうところが古典の面倒なところかもしれませんね。古語辞典には「あじろ(網代)」で載っています。調べてみてくださいませ。

網代木がわかると、この歌の味わいは一気に進みます。

第78番歌: ~ かよふ千鳥の 鳴く声に ~

第78番歌

~ かよふ千鳥の 鳴く声に ~

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いくよ寝覚めぬ 須磨の関守

【意訳】淡路島からやって来た千鳥が鳴いている。何を求めて、鳴いているのだろう。親か?兄弟か?仲間か?それとも恋人か? 寂しそうな鳴き声だ。その声を聞いて、須磨の関守は何度夜中に目を覚ましたことだろう。千鳥は寂しい、関守も寂しい。ああ、誰か関守を慰めてほしいなぁ・・・

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】この歌は「千鳥」で冬だとわかります。「千鳥」は冬の景物を表す鳥だそうです。ところで、この歌を詠むと、千鳥はどのように鳴いていたのか知りたくはありませんか?

ネットを検索したら「サントリーの愛鳥活動」という頁がありました。それによると「ピウピウ」だそうです。声が想像できれば聴覚が開きますね。歌の理解も進みます。

意訳では、随分と言外の思いを書き述べてみました。おそろく、このような感慨であったのだと思います。作者は須磨の関守のことを思いやって、この歌を詠んだのでしょう。そのような寂しさは、きっと自分の身にも感じられる、何かの事情があったのかもしれません。

【冬を感じさせるもの】

「千鳥」:「かよふ千鳥の 鳴く声に」・・飛んでくる千鳥によって視覚には動きが発生し、鳴く声を想像することによって聴覚が開きます。千鳥は何故に寂しそうに鳴いているのか・・そう思えば、ますます、冬の寂しさが増していきそうですね。

【参考】月の光を、雪や霜に見立てる形容の事例

第31番歌では、

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

といように、月の光だと思ったら、それは雪だったよ・・・と詠っています。

実は、漢詩にも同じような比喩が使われています。李白の「静夜の思い」です。今回紹介した百人一首の第31番歌は、その漢詩を参考にしていたのかもしれません。

【静夜の思い】

牀 前 看 月 光

疑 是 地 上 霜

挙 頭 望 山 月

低 頭 思 故 郷

<読み方>

牀前月光を看る

疑うらくは是れ地上の霜かと

頭を挙げて山月を望み

頭を低れて故郷を思う

ここでは、月の光を見て「霜かと思った」と詠んでいます。李白「静夜の思い」を参照してくださいませ。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

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かとうあきら

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