徒然草|137段|花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは|男女の情け

<プロローグ>

徒然草はその序段の冒頭、

「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、それとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」が有名で、多くの人が古文の教科書で出会っているのではないでしょうか。

枕草子(清少納言)、方丈記(鴨長明)と並んで、日本の三大古典随筆に位置付けられています。

因みに、各々の成立時期は古い順に、枕草子(1001年頃)、方丈記(1212年)、徒然草(1349年頃)とされています。ということは、徒然草を執筆した兼好法師は、枕草子も方丈記も読んでいたのでしょうか。印刷技術はまだ無い当時のことですから、それは定かではありません。

さて、徒然草を語る時、その序段の冒頭部分の他によく引用されるのが137段です。

特にその書き出し部分は「物事の価値はひとつではない、見方によって様々な価値がある」という意味が伝わってきて、私達が穏やかに生きていく上で大事にしなければいけない多様性の尊重を説いているように思われます。

それが、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」という言葉です。

それでは、いったい・・

桜は、満開以外のどんなところに、

月は、満月以外のどのような月に、

各々見るべきものがあると、著者である兼好法師は書いているのでしょうか?

➡ この記事では、それらを解き明かすために、第137段の前半部分に書かれている「心に移りゆくよしなし事」を読み解いていきたいと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

<137段/前半部分の要約>

1. 桜と月の鑑賞について

 「桜は満開がいい」というのは短絡的だと言っています。

2. 男女の情けについて

 恋愛談義です。”恋は、初めと終わりが味わい深い” と書かれています。

3. 月が醸し出す風情について

”味わのある月の、いろいろな表情や風景” を具体的に書き連ねています。

4. 桜と月の良さを分かる人、分からない人について/

兼好法師はここで、情緒(違いの)の分かる人を「よき人」、そうでない人を「片田舎の人」と表現しています。現代社会でこのような発言をしたら、差別や偏見と言われたことでしょう。ただ、そのような評価は一旦横に置いておいて、古典として読んで下さい。”片田舎の人”は、”無節操な人”というくらいに訳せば良いのではないかと思います。

要約だけでは、その真意は伝わりません。

なので、以下に137段の前半部分の全文を掲載いたします。

読みやすくするために、一行一行独立させました。

※には注釈をつけました。

現代語への訳は、意訳しました。

意訳の方が、直訳よりも読みやすくて分かりやすいと私は思っているからです。つまり、文法よりも意味が伝わることの方が大切だという判断であり、一般的に古典は分かりづらい..という印象で敬遠されてしまうことを少なくするための策です。ご了承くださいませ。

〔参考図書など〕

岩波文庫「徒然草」/発行:岩波書店/2003年第108刷

※この記事の原文表記はここから引用しました。

角川ソフィア文庫「徒然草」/発行:角川書店/平成7年 78刷

※参考にしたのは角川ソフィア文庫のビキナーズ・クラシックスの方です。同文庫にはもう一冊「改訂 徒然草」があり、注釈や解説が付属しています。ビキナーズ・クラッシクスは意訳されていて、読み物として楽しくすらすら読む方にはお勧めです。ただ一部の段は掲載されていません。「改訂 徒然草」の方は岩波文庫の「徒然草」と同様に全段掲載されていて、注釈や解説は書かれていますが、さらに古語辞典を駆使して自分で読み解く必要はあるかと思います。

「角川 必携古語辞典 全訳版」/発行:角川書店/平成9年初版

※古語辞典は大事な道具です。古語辞典なくして古典は読めません。

※この記事の※注釈に記した言葉の解説は、全て上記の古語辞典によります。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【137段の前半 全文掲載】

1.桜と月の鑑賞について

※古典で「花」と言えば、平安時代の初めの頃までは「梅」、その後は「桜」を意味するようになりました。徒然草は鎌倉時代の終わり頃の書物ですから、ここでの「花」は「桜」のことです。

※古語の「あはれ」を理解することは、日本人の持つ情緒感の理解に繋がることだと思います。ここは「あはれ」の使用例としても勉強になる一節です。以下、参考に古語辞典の解説を引用いたします。

以下、引用です。

「あはれ」は、深く感動したときの声(「ああ」+「はれ」)を語源とし、内面にしみじみと染み込むような感動を表す。(中略)一般に「あはれ」が静的で沈潜する趣を示し(以下略)”

以上、引用終わり。

<意訳> 和歌の詞書を読んでいると、「花見に来たけれども、もう桜は散っていたので(この歌を詠んだ)」とか、「用事があって花見に行けなかったので(この歌を詠んだ)」などと書かれているものがあります。桜に対するそのような姿勢が「桜の花を見て(この歌を詠みました)」という詞書に劣るのでしょうか、いいえ劣ってはいません。(なぜなら、桜の花を見に行こうとしたのですからね。その心が大事なのです。)

※詞書(ことばがき)とは和歌の前書きで、その歌を詠んだ事情などを記した説明文のことです。

※「まかりける」「まからで」は「まかる」の活用形。「行く」「去る」の丁寧語。「参る」の意味。英語で言えば go、come にあたります。

<意訳> 桜の花が散ってしまったのを残念がり、月が西の空に傾くのを名残惜しく思ったりすることは習慣としてあるけれども、とりわけ頑固で物分かりの悪い人は「この枝もあの枝も、みんな散ってしまった。もう見るべきところはありません」と、言い切ってしまうのでしょうね。(そんなことはないのに・・なんて視野の狭いことなのでしょうか)

※ここの要点は「殊にかたくななる人」だと思います。「かたくな(頑な)」は①道理や情緒を理解しない、教養がない。②強情な人。③やぼったい、見苦しい。・・などの意味があります。/そこに「殊に(殊更に)」と付けているのですから、「とりわけ頑固で物分かりの悪い人は」と訳してみました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

2.男女の情けについて

<意訳> 何事も、事の始まりと、その終わりにこそ味わうべき趣があるのです。男女の恋愛においても、ただ愛し合うことだけが恋愛だと言えるでしょうか。そうではないと思いますよ。

※ここには「をかし」が使われています。「あはれ」と並んで、平安時代から中世頃の日本人の美意識を理解する上で重要な言葉です。ここでも参考のため、古語辞典から引用して確認しておきたいと思います。

以下、引用です。

「をかし」は、外側に向けられた、明るく晴れやかな感動を表す。(中略)動的で開放的な趣を示すともいわれ、王朝びとの美意識を代表する語である。「源氏物語」が「あはれ」の文学、枕草子が「をかし」の文学と言われているのは名高い。/「あはれ」「をかし」とは、一見対立的に理解されがちだが、むしろ人間の心の動きの、二つの相関する側面と考えるのが妥当である。

以上、引用終わり。

「情け」には①人情 ②風流心 ③情緒 の他に④恋心という意味もあります。ここでは「男女の」と形容されているので「男女の恋愛」という意味になります。

※古語の「逢ふ」には、ただ「会う」だけではなく「男女が愛し合う、結ばれる」という意味があります。

<意訳> 愛し合うことなく別れて終わってしまった恋をしみじみと辛く思ったり、一緒になるという言葉が嘘だった分かって恨んだり、あの人のことを思いながら長い夜を独りで悶々と過ごしたり、遠い雲の下にいるであろうあの人のことを思ったり、藁葺の粗末な住処にあの人と過ごした昔を偲んだり、そのようなことにも感慨を抱くことが、恋愛の本当の意味を知っているといえるのでしょう。

「あだなる契り」:「あだ」は「徒」であり、①はかない ②いいかげんだ ③誠実でない ④無駄だ。という意味です。/なのでここは、約束を破られたとか、浮気されたとか…そのような意味をあてました。

「かこち」:「かこつ」の活用形。①人のせいする ②恨み言をいう。

「浅茅」:背の低い茅(ちがや)のこと。茅とはススキや稲などの屋根を葺くときに使う植物の総称。

「色好み」:現代では「好色な」という非難の意味で使われますが、古典では必ずしも悪い意味ばかりではなく「恋愛の意味を介する風情も分かる教養も豊かな」という意味があります。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

3.月が醸し出す風情について

<意訳> 遠い夜空に浮かぶ煌々とした満月を「いい月だ」なんて思って眺めているよりも、夜明け近くまで待ち続けていてやっと昇った月が、とても心を震わせるように青みがかっていて、深い山の杉の木の梢にかかり、その木々の枝の間から月の光が漏れ出たり、時折雨を降らせる雲の塊に隠れてしまうような、そのような月の風情こそが、この上なく味わい深い感慨なのです。(満月だけがいい月なのではありません。)

「望月」:陰暦十五夜の満月。

「影」:古語では現代語の「光に遮られた暗い部分」の他に「光」という意味もあります。

「またなく」:「またなし」の活用形/この上ない。二つとない。

「あはれ」:ここでも「あはれ」と書いているところに、「あはれ」の使用例として心に留めておきたいところです。

<意訳> 椎柴や白樫などの濡れたように綺麗な葉の上に反射している月の光、その煌々と輝いている様子こそが、月が醸し出す身体の芯まで染み込む感慨だと感じられます。なので、この感慨を共有して共感しあえる友達がそばにいたらいいのになぁ…と思い、友がいる都が恋しく感じられました。

「椎柴」:椎の木が群がり生えているところ。椎(しい)の木:常緑高木。種子はいわゆるドングリです。

「白樫」::常緑高木。種子はいわゆるドングリです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

4. 桜と月の良さを分かる人、分からない人について

<意訳> 総じて、月や花は、そのように目で見るだけで鑑賞するものでしょうか。

※「すべて」:①「全部」という意味の他に、②「総じて」「一般的に」「だいたい」という意味があります。ここでは②の意味です。

「さのみ」:副詞「さ」+副助詞「のみ」/①そのようにばかり。そんなに。②下に打消し表現を伴って「たいして~でない」/ここでは①の意味。「そのように」の「その」は137段の書き出しから直前に至るまでの、桜と月に関する記述をさしています。

<意訳> 春は家に居て桜の花を想像したり、いい月が出ていると思われる夜でも寝室にこもって夜空に浮かぶ名月をあれこれ想像したり、そのようなことをすることの方が、とても楽しくて興味深い趣があるものです。

※閨(ねや):寝屋。寝室のことです。

※「けれ」:「けり」の活用形。ここは詠嘆を表していると理解したいです。ex:「なんて”たのもしうおかしけれ”なんだろう!」というような調子です。/「けり」は他に②過去 ③歌や俳句などに用いて感動を表します。

<意訳> 思慮深く物事の良さをよく分かっている人は、何かいいものを目にしても「わー!すごい!これ大好きなんだ!」などど言ったりせずにその様子は落ち着いていて、興味を示すような時でもそんなに大げさな態度はとりません。

<意訳> 無節操で物事の良さをよく分かっていない人は、あれこれとしつこく聞きまわり、何事にも興味を示すものです。

※「色こく」:古語辞典には「色濃し」として、①色が濃い。②衣服の色(特に紫や紅)。③あくどい。しつこい。・・とありました。/ここは③の意味です。

<意訳> 花見に行けば、桜の木の根元に身をねじるようにして近づき、わき目もふらずに桜の花をじっと見つめて、そして酒を飲み、歌を詠み、その果てには桜の大きな枝を考えもせずに折ってしまう。

※「本」には現代語の「書物」の他に「根本」という意味もあります。/ここでは「桜の木の根元」の意味です。

※「あからめ」:名詞です。「別る(あかる)・離る(あかる)」からきています。①目をそらすこと。よそ見。②浮気。③急に姿が見えなくなること。/ここでは①の意味です。

<意訳> 湧き水があればそこに手や足を浸し、雪が積もればすぐさまそこに降りたって雪に足跡をつける。全てのことに対して(手や足で確かめないと、その良さを味わうことができない)。ただ見て楽しむということはしない。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

<追記1>

「優先五感」という理解

最後の一文は、現代における心理学の「優先五感」という理解の仕方によって読み解いてみても面白いです。

「五感には人それぞれに優先される五感がある」という心理学での理解です。

米国で研究開発されたNLP(Neuro-Linguistic Programming)という心理学の中で「優先五感」と言われ、様々なコミュニケーションに活用されています。

EX:職場に顧客からお礼にと林檎が送られてきて、林檎の詰まった段ボール箱を開けた場面を想像してみてください。よく観察すると、そこには人それぞれに異なった反応が出現します。なぜなら各人の「優先五感」が働くからです。

Aさん:すぐに手にとって重さやその触感を確かめる〔触覚優先の人です〕

Bさん:ただ眺めて「美味しそうだね」と視覚で判断する〔視覚優先の人です〕

Cさん:関心がなさそうだったけれども、同僚の「農林水産大臣賞だって!」という一言に「ひとつもらっておこうかな」と反応する〔聴覚優先の人です〕

Dさん:「食べてみないとね、わかんないよね」と口にするだけ〔味覚優先の人です〕

Eさん:席を立たず聞いていたけれど、同僚が林檎をむいてその香りが漂ってきて初めて「わあ、美味しそうな香り!私にも頂戴!」と反応する〔嗅覚優先の人

*「優先五感」は、相手様の性質の一面を知ることができるわけですから、様々なコミュニケーションに役立ちます。元々はうつ病のカウンセリングから見出された理解のようです。

*私はこれを前職(小売業/実演販売)で生かしていました。

:例えば、お客様が触覚優先だと推測できると、商品を徹底して触らせたり持たせたり、お客様にスイッチを入れて頂いたりしました。「触って確かめる」ことによって、そのお客様の納得感は高まっていくのです。

:例えば、お客様が聴覚優先だと推測できると、芸能人の〇〇さんも使っているとか、先日購入されたお客様がお礼に来たとか、雑誌の◇◇に掲載されたとか、耳に訴える情報を徹底して提供します。お客様はそれらを聴くことによって納得感を高めてくださいます。

*今は「優先五感」を介護現場での介助に活用したいなぁ・・と考えております。介護の基本はコミュニケーションですからね。

「優先五感」という視点で徒然草137段を読むと、筆者の兼好法師は「視覚優先の人」、そして兼好法師が最後の一文の中で指摘している人は「触覚優先の人」であった・・という理解ができます。

<追記2>

この137段のテーマを、

この世の中には、

”絶対なんて存在しません”

”多様性を尊重しましょう”

”排他的な態度は慎みましょう”

・・というような観点からみると

「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」から、例えば以下のような命題を思い浮かべることができます。これらをテーマにエッセイなどを書いてみたら、意外と面白いかもしれません。

たとえば・・

ex:「料理はフランス料理を、アルコールはワインをのみ、是とするものかは」

ex:「スポーツは大勢で、映画は一人でのみ、見るものかは」

ex:「酒は日本酒を、酒のあてには焼き鳥をのみ、食するものかは」

ex:「博多に行けば明太子を、京都に行けば八つ橋をのみ、お土産とするものかは」

・・などのように、いろいろ思い浮かべることができます。

<追記3>

137段の後半部分/要約です。

137段の後半は、以下のように書かれています。機会があれば読んでみてくださいませ。

1. 葵祭りを見物する無節操な人の珍妙さ/

今も京都で開催される葵祭の、葵祭りに訪れる見物人の様子を描写しています。そして、無節操な人の見物する様子は「いと珍かなりき」と書いています。その様子はどのように珍しいのでしょうか。

2. 葵祭の往来の風景の続きです/

 押し寄せる牛車、隙間なく並んでいた見物人、そして祭りが終わると・・。作者はそこに無常観を感じているようで、祭りの後の寂しさを「あはれなれ」と書いています。

3. 葵祭に集まる人々を題材にして無常観を高めていきます

祭りに集まっていた多くの人も、やがて死んでいきます。そして、自分のことを「今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり(今日まで生きてきたことは、不思議で有難いことだ)」と書いています。そして、無常観は最高潮に達します。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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