介護の詩|老いてゆくということ|老人ホーム|ある認知症高齢者


※この頁は老人ホームでの出来事を、そこで働く介護士が口語自由詩にてお伝えしています。

【車止めで一息76】

老いてゆくということ

(画像はイメージです/出典:photoAC)

老人ホームで暮らす、お爺ちゃんお婆ちゃんのこと、

気になりませんか? 

少しだけでも気にしてみて下さい。

それは、未来の自分の姿…なのかもしれません。

認知症の中核症状見当識障害があります。時間と場所、そして症状が進むと、人も分からなくなっていく症状です。その場合、家族の顔さえも忘れてしまいます。

分からなくなっていく過程において不安を感じる程度は人様々のようです。また、その不安を口に出して周囲に伝える人もいれば、押し黙って隠してしまう人もいます。

ここで紹介する方は前者のタイプでした。よく「何がなんだが分からなくなっちゃったのよねぇ..」と口にされていました。

認知症には種類があり、出現する症状は異なります。またそれらが出現する程度については性格や環境、周囲の対応の仕方、進行の程度などによって異なり、なかなか掴みにくいもです。

ただ症状に共通するのは、認知症の症状には核になる症状があり、その核となる症状によって引き起こされる行動や行為がある”という構造です。

核にになる症状は中核症状、そしてそれによって出現するのが周辺症状と呼ばれています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【 車止めで一息 】

車止めで一息76

老いてゆくということ

貴女様は悲しかった。

貴女様は寂しかった。

貴女様は悔しかった。

トイレットペーパーで拭く涙。

否応なしに流れ出る涙は無念の印だった。

涙さえもきっと切なく思ったのだろう。

涙はしばし止まらず流れ出た。

訪室した介助スタッフに向かって貴女様は言った。

「なにがなんだか、わからなくなっちゃったの…」

それは、ここ最近の口癖になっていた。

貴女様の認知症は、

少しずつ進んでいた。

家族のことを訊かれても分からなかった。

「子供?さあ~…いたような、いなかったような…」

それは、屈託のない明るく正直な性格だからだろう。

貴女様は分からないことを隠したり、

分からないことを恥じたりすることはなかった。

貴女様は今の自分を全て吐露してくれた。

「なんでここにいるのか、わからないんです」

それは、自分が自分でなくなっていく…という感覚なのかもしれない。

ただ、貴女様の自覚は自分自身を、

実は、秘かに苦しめていた。

貴女様は、実は我慢をしていた。

貴女様は、実は受け入れようとしていた。

貴女様は、実は本当の気持ちを押し殺していた。

トイレットペーパーで拭く涙。

否応なしに流れ出る涙は辛抱していた証拠だった。

涙は身体中に溜まっていたのだろう。

涙はしばし止まらず流れ続けた。

歩行器を頼りにトイレへ誘導された貴女様。

膝を少し折り曲げた貴女様の中腰は危なっかしい。

ゆっくりゆっくりと、

ズボンとリハパンを一緒に降ろし、

そろりそろりと、

お尻を下げて便座に座わろうとする・・・その時。

その日は、

いよいよ力が入らなくなったのか、

とうとうバランスがとれなくなったのか、

それとも心の具合が身体機能に響いたのか・・

貴女様は「あっ!」と声を出して、よろめいた。

その瞬間、貴女様を支えたのは介助の手と腕。

見守っていた介助スタッフによって貴女様は転倒を免れ、

貴女様は介助されて便座に座った。

介助スタッフは貴女様の目線に入らない所で待機した。

汚れたパッドを入れたゴミ袋の口を閉じて、

開けたままの扉の影に隠れて待機した。

・・・・・

お小水の音、ペーパーを手繰り寄せる音。

お通じは無いようだ。

・・・・・

その時、突然聞こえてきた・・それは、

貴女様の泣き声。

貴女様は上体を二つ折りにして顔を膝に当てていた。

貴女様は手にしたトイレットぺーパーで両目を押さえていた。

貴女様は半分押し殺したような声を出して泣いていた。

トイレットペーパーで拭く涙。

涙も涙のわけを分からなくなっていたのかもしれない。

涙はしばし止まらず流れ続けた。

なにがなんだかわからなくなっているのに

それだけじゃあなくて

ひとりでおしっこもできなくなってしまっただなんて・・

私はどこへ行っちゃったの・・

貴女様は嘆き、そして泣いた。

わたしはどこ? わたしはどこにいるの?

不安でいっぱいな私なのに・・さらに、

ひとりでおしっこもできなくなってしまっただなんて・・

私はどこかへ行っちゃったぁ・・

貴女様は惜しみ、そして泣いた。

貴女様の心の幹は頑張っていた。

大きく揺らいで倒れそうになっていたけれども、

心身のゆらぎを必死で支えていた。

でも、

介助されたその瞬間に、

貴女様の心の幹は、

ズドーンと音を立てて激しく倒れたのだ。

貴女様は、

介助に頼らざるおえない自分を知った。

貴女様は悲しかった。

自分が自分でなくなっていくことが。

貴女様は寂しかった。

自分が自分でなくなっていくことが。

貴女様は悔しかった。

自分が自分でなくなっていくことが。

・・・・・

貴女様の独り言。

それは万人に訪れる普遍。

・・・私はもう戻れない。

・・・老いたわたし。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【詩境】

詩 境

いつもと同じようにトイレへ誘導しました。

でも、その日はいつもとは違っていたのです。

ご本人様は突然の涙。

私はそのワケを知ったとき、人の心の奥深さと尊厳を守ることの難しさと、老いていくことには逆らえない自然の摂理と、各々が凝縮されたその瞬間に、その方の生きる意欲について感慨を覚えました。そして、この出来事を記録して言葉に残し多くの人に伝えたいと思いました。

人は、それぞれに愛すべき存在だということを伝えたくて。

<事の詳細は以下の通りです>

その日、私はこの方をいつもと同じように昼食前のトイレ誘導のため、訪室しました。二つ三つの会話を交わしてからトイレへ誘導。ご本人様は歩行器を使用しています。

脱衣時の立ち姿は危なっかしくて転倒リスクが伴うのですが、自分でできるうちは自分でやって頂いた方が本人のためであるというのが現在の介護の考え方の基本です。

なので、ご本人様が介助を求めれば転倒防止の為の具体的な脱衣介助をおこないますが、ご本人様が自分でするというのであればスタッフは見守りをさせて頂き、いざという時にしか手を貸しません。

そしてその日は、いざという事が発生したのです。その方は、よろけて片手で手摺につかまり転倒しそうになったのです。私は即介助に入り、便座に着座して頂きました。

そして吸水パッドを交換してゴミの処理をおこなっていると、トイレの中からシクシクと泣き声がしてきました。その方は身体を二つ折りにして頭を膝頭辺りにつけて、手にしたトイレットペーパーで両目を押さえて、泣いていらっしゃるのです。

見当識障害の出現が進み、内心は不安な日々の中にあって、トイレで介助を受けたことがとてもショックだったようです。「こんなふうになって、なさけない」という言葉がご本人様の口から発せられました。この方は、介助されることによって、ご自身をなさけないと思い、ご自身を卑下してしまったのです。

参考:<介護士としての私がとった対応

私はこの時、以下の対応をしました。

1.傾聴し/共感を示した

①相手様が話しやすいように、私は小さくなり、目線の位置を考慮して傾聴しました。

⇒ 便座に座っている相手様の前にしゃがみこんで身体を小さくして、目線は相手様が私を見下ろす角度になるようにして傾聴しました。こっちが立ったままとか中腰では相手様の心は開きません。

バックトラッキング(オーム返し)

⇒ 相手様が発した言葉や、相手様の感情を言葉にして返すことにより、あなた様のことはきちんと伝わっていますよ…とをお伝えすることができます。これにより、相手様は安心感を持っていただけるのです。人は、自分のことを誰かに分かってもらえたら嬉しいものです。

私がこの方に掛けた言葉は「悲しくなってしまったんですね」でした。するとこの方は「そうなのよ」と言って、さらに涙を流しました。

”さらに涙を流す”/これでいいのです。涙は、諦念の顕れです。涙は、諦めることによって溜め込んでいた辛い思いを吐き出し、気持ちを再起させる転換点の表象だからです。

2.共感はしたけど、肯定も否定もしなかった。

介護や相談援助に用いられるコミュニケーションテクニックに、バイスティックの7原則というのがあります。

バイスティックの7原則では、相談者(この事例では私という介護者)は審判者になってはいけません。私は、肯定も否定もしませんでした。

だいだい、長い人生を背負って今日まで生きてこられた方が涙を見せたからといって、「もっと泣いていいんですよ」とか「泣くほどのことではありませんよ」等、いいとか悪いとか判断をするだなんて、おこがましいことです。

3.場面を変え/話題を変えました。

傾聴して共感を示した後には、「そうなんですね」とか「そうですよね」という言葉を発しながら、テキパキと介助をしてトイレを一緒に出ました。そして洗面台に誘導して、手を洗っていただき、髪を梳かしてさしあげながら「今日のお昼はサバの味噌煮ですよ。〇〇様はお魚お好きでしたよね」…と話題をかえました。

認知症を患っていらっしゃるので、短期記憶は残りません。それが幸いします。食卓についたときには、トイレで転倒しそうになったことも泣いてしまったことも、忘れていらっしゃいました。

<考察>

〔忘れてしまう…ということ〕

・人様の手を借りたり、煩わせたりすることで「こんな自分が情けない…」という思いを抱いて気持ちを落ち込ませてしまう高齢者は、認知症を患っていなくてもいらっしゃいます。そのような場合には、落ち込んだ気持ちを回復させるのに時間がかかります。

もしも認知症でなかったら、おそらく一日中尾を引いてしまい、例えば食事をしない、例えば部屋に閉じこもってしまう、例えば”うつ病”発症の発端となってしまう・・なんということも考えられます。

・そういう意味では、忘れるということは、忘れない人よりも苦痛は少ないのかもしれません。認知症を患っていない場合は(ただの老人性健忘症の場合は)”負の感情”を継続して持ち続けるからです。中には「早く死なせてください」「苦しまないで死ねる薬はないんですか?」と訴える方もいらっしゃいます。それはそれで、介護の困難さを増すことになります。

忘れるということは、見方を変えれば周囲への影響はともかく、本人様にとっては幸せなことなのかもしれません。

〔介護者の心構え〕

・介護する方に必要な心構えは、相手様と日常的にいい関係を作り上げておくことです。これは認知症であるなしに関わらず大事なことです。

・認知症を患っていても、人間関係の良し悪しについては皮膚感覚というか空気感で分かっていらっしゃるようです。なので、介護者はどのように接したら相手様が心地よくいられるのかを考えて、相手様が心地よくなるであろうコミュニケーションを実践します。すると介護はしやすくなります。日頃の接し方が介護のしやすさを左右するのです。

・ただ、それらのことは、介護者が介護者の職責として理解しているからできるのだと思います。

・自宅で家族による介護となると、家族という感情が入ります。そこには悲しみや辛さが常に内包されています。介護者である家族は気が付かないうちに介護疲れを溜め込んでいき、知らないうちに介護の質を落としていってしまうのでしょう。

・そういう意味で、訪問介護や老人ホームという施設は、とても有益です。ただ、高齢者の人口構成比は増え続けている今、そのような社会環境の整備が追い付かなくなっていることは、皆様ご存じのことだと思います。

・近い将来、介護難民が増えていくとき、人生観や死生観そのものに転換を強いられるような事態が起きるのかもしれません。介護の現場にいて、そのように思います。(どのような転換なのかは、別の機会に記事にいたします)

(画像はイメージです/出典:photoAC)

老いてゆくということは、ただ心身の機能が衰えるだけではありません。衰えに対する感情及び情動が引き起こす”心的な苦痛”というものがあるようです。そしてその苦痛が周囲を巻き込んでしまう場合もあります。

上手に老いてゆくということは、とても難しいことのように思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

今までの作品一覧

以下にございます。

介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子/「車止めで一息」/詩境

明日の自分が、そこにいるかもしれません。

お読みいただければ幸いです。