介護の詩|生きている限り|老人ホームで暮らす高齢者の様子|詩境


※この頁では老人ホームでの出来事を、そこで働いている介護士が口語自由詩にてお伝えしています。

【車止めで一息83】

生きている限り

(イラストはイメージです/出典:photoAC)

老人ホームで暮らす、お婆ちゃんお爺ちゃんのこと、

気になりませんか? 

少しだけでもいいので気にしてみて下さい。

それは、人生最期の自分の姿…なのかもしれません。

その方は、今まで生きてきたいろいろなご自身の人生経験を、普段からよく私に話して下さる方でした。

ある日のこと、転倒して大腿部を骨折、救急搬送。その後、手術を経て車椅子姿でホームに戻ってくることができました。そしてリハビリを続けた結果、歩行器を使った歩行ができるようになり、低下していたADLを回復させることができました。

この詩作品は、その方の目線を想像して描いたものです。

生きている限り 】

車止めで一息 83

生きている限り

この世に生まれ人生という旅に出た。

したいことをして苦しいことは乗り越えて、

大空を舞うように自由に一生懸命に生きてきた。

多くの人に出会い多くのことを学んできた。

楽しみ、笑い、面白がり、落胆もあったけど、

嬉しさと失意の中を無我夢中に生きてきた。

今は終の棲家の老人ホーム。

ここで終わるという覚悟はしているようでしないまま、

人生の車止めを前にして自由は無く、ただ戸惑い狼狽えていた。

転倒して大腿部を骨折、生涯車椅子かと思ったけれども、

不屈の精神で手術を選択し、

今は歩行器を使い自由に歩けるようになった。

手術も無骨な車椅子も懸命なリハビリも、

家族とのやりとりも、みんないい経験、人生の一部となった。

生きるということは生き続けようとすることなのだと、やっと悟った。

ただ、運命はいつも他界へと誘っている。

やがていつかそのうちに、

この世での自恃は終焉を迎えて風に舞う。

それでいい。

覚悟なんかしない、しなくていい。

諦めるとか諦めないとかも、思わない。

生きている限り、生きていることを楽しもう。

今、そう思う。

〔高齢者の骨折〕

高齢者に多い骨折は、大腿部/肩/手首/胸や腰の脊椎圧迫骨折…の四ケ所です。

高齢で骨折すると、骨折が治ってもADLは低下し、生活は不便になることが多いようです。

(参考:骨折|健康長寿ネット

(イラストはイメージです/出典:photoAC)

「自恃」/じじ

:意味は「自分の力を信頼する」とか「自分自身をたのみにする」こと。

中原中也の詩に”自恃”を用いた詩があります。中原中也の詩集「山羊の歌」にある「盲目の秋」の一節です。その一節をここに抜粋いたします。

「山羊の歌」の中には、有名な「汚れちまった悲しみに…」が収められています。

”以下、抜粋”/中原中也「盲目の秋」より

”以上、抜粋終わり”/出典:中原中也詩集|新潮文庫

【 詩 境 】

詩 境

ここまで82作品を描いてきましたが、それらの構成内容を振りかえってみますと殆どの作品が、私(介護者)から見たご利用者様の様子を描いております。視座/視野/視点からいえば、以下のとおりです。

視座=介護する人=筆者

視野=老人ホームの中

視点=介護される人=私が勤める老人ホームのご利用者様

今回の作品は、視座をご利用者様に置き、ご利用者様の気持ちを代弁してみました。

視座/視野/視点からいえば、以下のとおりです。

視座=私が勤める老人ホームのご利用者様。

視野=そのご利用者様の社会に出てから今日までの人生。

視点=そのご利用者様の自己。

ご利用者様の気持ちについては、日常のコミュニケーションの中から得ることができた情報を元にして、私が言葉を選びました。ただ、その部分は私が対象を俯瞰して描いているのですから、視座は私にあります。つまり、代弁するという方法は視座の二重構造の上に成り立っています。

そしてさらに、若干の私の願望も重ね合わせてみました。

「生きるということは生き続けようとすること」や、

「生きている限り、生きていることを楽しもう」の部分です。

つまり...”生きているうちが華” ということに感慨を求めた結果です。

この詩作品の詩境は、つまり”生きているうちが華”を表現したかった…ということになります。

(イラストはイメージです/出典:photoAC)

今までの作品一覧

以下にございます。

介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子/「車止めで一息」/詩境

明日の自分が、そこにいるかもしれません。

お読みいただければ幸いでございます。