
(画像はイメージです/出典:photoAC)
古典はさすが長い年月を経て今に伝わって来ただけあって、そのなにげない一行に ”これは含蓄のある言葉だなぁ~” と、感じられる記述を発見することができます。
この度は、高校生の時に出会った徒然草を読み直してみました。そして、”含蓄のある言葉”を追っていたら、そこには”花や月の描写”を伴っているものが複数ありました。
何故、花や月なのでしょうか。
そこで、徒然草から ”花や月の描写を伴う含蓄のある言葉” を追い、考察してみたいと思います。
〔参考図書など〕
・岩波文庫「徒然草」/発行:岩波書店/2003年第108刷
※この記事の原文表記はここから引用しました。
・角川ソフィア文庫「徒然草」/発行:角川書店/平成7年 78刷
※参考にしたのは角川ソフィア文庫のビキナーズ・クラシックスの方で、徒然草の一部の段は掲載されていません。同文庫にはもう一冊「改訂 徒然草」があり、そこには全段が掲載されていて詳細な解説付です。ビキナーズ・クラッシクスは読み物として楽しくすらすら読む方に、「改訂 徒然草」は岩波文庫の「徒然草」と同様に注釈や解説が必要な方に合っていると思います。
・「角川 必携古語辞典 全訳版」/発行:角川書店/平成9年初版
※古語辞典は大事な道具です。古語辞典なくして古典は読めません。

【 古典を読み返す意味 】

なぜ、古典を読み返すのですか?
徒然草と云えば、その序段の「つれづれなるままに、日ぐらし、硯に向かいて~」が有名ですが、もうひとつ、私の記憶では高校の古文の教科書に載っていたと思う・・花と月に関する記述があります。調べたところ、137段の冒頭部分でした。
聞けば、何となく聞いたことがあるかも…と思われる方はいらっしゃるのではないでしょうか。
以下が、137段の冒頭です。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」
〔意訳〕桜の花は満開の時だけが、月は煌々と輝く満月の時だけが、見るべきものでしょうか? いいえ、そうではないと思いますよ・・ほかの時にも見るべきところはあるのではないでしょうか。
➡ この一行は「物事の価値はひとつではありません。見方によっていくつもの価値があるのです」と言い換えることができます。
つまり多様性の大切さを説いているのです。人に置き換えれば、人には個性があるのだから、ひとり一人の光っている個性をよく知り、ひとりひとりの個性を大事にしていきましょう・・と解釈することができます。
➡ このように、古典にはとても大事なことが、なにげなく書かれていたりするので、読み返すことで”気づき”をもたらしてくれます。
【 花や月の描写を伴う理由 】

なぜ、花や月の描写を伴っているのでしょうか?
<花や月の描写>
古典には花や月の描写が多く見られます。
例えば、和歌集として有名な百人一首(鎌倉時代の初期に編纂された)には、百首のうちの、花については八首に、月については十二首に各々描写されています。
※古典における「花」は、平安時代初期頃までは「梅」を意味していましたが、徐々に「桜」を意味するようになりました。徒然草が書かれた頃の「花」は「桜」を意味しています。
➡ そして、徒然草にも「花は盛りに、月は隈なきをのみ~」のように、花や月を素材にした描写を多く見つけることができるのです。
➡ 当時(徒然草の成立は鎌倉時代の末期、14世紀の中頃)、花や月は日々の生活の中に溶け込み、人々の感受性や思考の中においても大きな存在であったことが伺えます。
<現代においても…>
そして、そのことは、実は現代においても同じです。
➡ 花は愛でられるものとして日常の中に活かされているのは周知のことです。
➡ 月について云えば、テレビの天気予報では「今日はきれいな満月を見ることができそうです」という表現を耳にすることがあります。月の存在も、私たちの暮らしの中に無意識のうちに溶け込んでいるのです。
<花や月の描写の意味>
文芸において特定の表現素材の描写を追いかけることは、作者の思考を理解する分かりやすい方法です。また、特定の素材の描写が多ければ、そこに同時代の人々の関心事や世相を伺い知ることもできます。
➡ そういう意味において、花や月という自然の素材は、とても分かりやすく扱いやすい素材なのだと思います。なぜなら、知らない人はいないからです。
➡ 花はやがて色褪せ、月は日々変化していきます。それらの現象が視覚に訴え、心の中に芽生えさせるものは無常感です。そして、無常感は無常観へと精神的に昇華し意識づけられていったのだと思われます。
花や月には、美しくて心を癒してくれるものというだけではなく、”無常観を形成する自然の摂理を無意識のうちに教えてくれるもの” という意味があるのです。
<徒然草では…>
徒然草を読み直してみたら・・花や月を描写している中に
”これは含蓄のある言葉だなぁ”
”これは大事な認識だ”
”これは真理かもしれないぞ”
・・と思しき行を、21段、83段、137段、212段に見つけることができました。
➡ これら四つの段を考察することにより、何か精神的に役に立ちそうな思考の欠片を発見できるのではないか…と思いました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
第21段/部分
<要点>
「折りにふれば、何かはあはれならざらん」
この一節は、以下のような意訳できるのですが、
➡どんなものにも、いい時機というものがあります。
さらに、以下のような含蓄まで思いを巡らしたいと、私は思います。
➡ どんな人にも、光輝く時が、たとえ短くてもあるものです。
<原文>
万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ、ある人の、「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしかれ。折りにふれば、何かはあはれならざらん。
[言葉]
・「万」:よろづ
・「慰む」:心を楽しませる。
・「慰むものなれ」:「なれ」+「ども」の「ども」が省略されていると考えると理解しやすいです。/断定の助動詞「なり」の已然形+逆説の助詞「ども」
・「折にふれば」:よい時機にあたるならば。
・「あはれ」:様々な意味がありますが、ここでは「感動的」「感慨深い」「しみじみとした情緒」という理解でよいと思います。
<意訳>
何事につけても、月を眺めるということは、心を楽しませてくれるものです。でも、ある人が「月ほど趣があるものはないねぇ」と云えば、ある人は「いやいや、露の方が感動的だよ」と云い、二人は言い争っていました。物事のいい所を言い争うだなんて、なんとも滑稽なことではないでしょうか。どのようなものであっても、よい時機にあたるならば、感慨深いものがあると思いますよ、そうではないですか?みなさん。
第21段/補足/「あはれ」と「をかし」
・きれいな満月だなぁ…と感慨にふけっていても、満月はやがて欠けていき消えてしまいます。でも、また三日月となって現れて、満月に戻っていきます。面白いものですね。その理屈を知らない当時の人々にとって、月の満ち欠けは神秘的に映ったことでしょう。そして、いつも同じではないということは、無常を感じることにもつながっていたのだと思われます。
・一方、露ははかないものの例えです。あっ!露がキラキラ輝いている!きれいだ!美しい!…と思っているうちに、でも消えていってしまいます。古典には「露の命」とか「露の世」と表記して、各々はかない存在であるという意味を持たせています。そこには無常観があります。
月も露も、無常という意味では同じですね。
*
・当時の美意識を観念的に表現している「あはれ」と「をかし」がひとつの文章に使われているのは興味深いことだと思います。
この一節から「あはれ」と「おかし」の使い分けを学ぶことができそうです・・と思っていたら、「あはれ」と「をかし」を並列して使っている文章が古語辞典に例文として載っていました。以下は源氏物語/胡蝶の巻の一節です。
「をかしうもあはれにも覚ゆるかな」/訳:おもしろくもあり、いとしくも感じられますね。
<参考>
私の手元の古語辞典には、さらに以下のような解説がありました。
以下、引用です。
”「あはれ」が静的で沈潜する趣を示し、「おかし」は動的で開放的な趣を示すともいわれ、王朝人の美意識を代表する語である。「源氏物語」が「あはれ」の文学、「枕草子」が「をかし」の文学といわれれているのは名高い。”
以上、引用終わり。
[出典:角川 必携古語辞典 全訳版/発行:角川書店/平成9年初版]

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第83段/部分
<要点>
「月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ」
・栄枯盛衰を説く無常感は、古典の代名詞なのかもしれません。
・以下は、方丈記と平家物語の冒頭部分です。各々、徒然草の第83段と同じように、無常観を述べています。これら三つの書かれた時期は徒然草が最後なので、徒然草の作者である吉田兼好は方丈記も平家物語も既読していたと思われます。
➡ 「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」(方丈記)
➡ 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」(平家物語)
[書かれた時期]方丈記/1212年、平家物語/1300年前後頃、徒然草/1349年頃。・・つまり、鎌倉時代(12世紀末~1333年)から室町時代(1336年~1573年)の初期です。
<原文>
「亢竜の悔いあり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり。
[言葉]
・「亢竜の悔いあり」:天に昇りつめた竜には後悔がある…という意味/昇りつめたら降りるほかはないから。由来は中国の漢詩のようです。
・「侍るなり」:丁寧に「ございます」と書かれています。おそらく、この文章の前の段にて太政大臣の話題が書かれていて、さかんに「給ふ」という尊敬語が使われている流れから、「侍る」という丁寧語を使っているように思われます。
・「万」:よろづ
<意訳>
「天に昇りつめた竜は後悔する」という言い方がございます。月は満月になれば、あとは欠けていくように、物事というものは最盛期を過ぎれば衰えていくものなのです。世の中全てのことにおいて、その先はもう無いという状態になれば、破綻へと向かっていくのです。

「人は一生懸命に生きたら、あとは死んでいくだけなのです。諦念は必要です」と言っているように、私は感じました。

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第137段/部分
<要点1>
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは.」
・この記事の冒頭に書きましたが、物事の価値というものはひとつではない、様々な観点から見ればいろいろな価値が見いだせるるのです、という含蓄を読み取ることができます。

➡ ああ、桜が散ってしまった! せっかく休みをとって来たのに! 今晩は雲が多くて月が見えない! せっかくの満月だというのに!・・と、ただ嘆くのではなく、桜の散った後にも、満月が雲に隠れて見えなくても、そこに異なる価値を見つけましょう。そうすれば、心穏やかに生きていくことができますよ。・・私には、そんなふうに聞こえた一節です。
<要点2>
花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
・散ってしまった桜の枝を見て「もう見るべきところはないですね」と言い放つのは野暮な人だと言っているのです。
<原文>
(※読みやすくするため一文毎に改行して表記しました)
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。
雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。
歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。
花の散り、月の傾くを慕ふ習ひにさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。
<意訳>
・桜の花は満開の時だけを、月は煌々と輝く満月の時だけを、見るべきものでしょうか? いいえそんなことはありません。満開や満月以外にも、桜や月には見るべきところがあるのです。
・雨の日に月を恋しく思い、簾を垂らした部屋の中にいて過ぎ行く春の様子を知らぬままに、ただ春を思いめぐらしていることだって、感慨深くて風情を感じるものです。
・枝の先に膨らんでいるもうすぐ咲きそうな桜の蕾にも、散って萎れた桜の花弁に彩られた庭にも、感慨を運ぶ見るべきところは多いのです。
・歌を詠んだ事情を記した詞書にも、「花見に出かけたけれども、桜はもう散ってしまっていて見ることはできませんでした」とか、「用事ができてしまい花見に出かけられませんでした」とか書いている人がいるけれども、それらの詞書が「桜の花を見て」という詞書に劣っているといえるでしょうか。いいえ、劣ってなんかいません。花見に出かけようという気持ちがあるのですから。
・花が散り、月が傾き沈んでいくことに心を惹かれ、恋しく懐かしく思うというのは世の中の常としてあるでしょう。ただ、特に頑固で融通の利かない野暮ったい人に限って「あ~あ、この枝の桜も、あの枝の桜も、全部散ってしまった。これじゃあ、もう見る価値は無いねぇ…」と、口にされているようです。そのような気持ちを持たれるのは、残念なことのように思われます。
[言葉]
・「行衛」:ゆくへ/行方のこと。
・「詞書」:和歌の本文の前に添えられる前書きです。その歌を詠んだ時や場所、事情などが書かれています。有名な百人一首にも各々の歌に詞書が存在するのですが、詞書を記した資料は少ないようです。
・「まかれりけるに」「まからで」:「行く(参る)」を丁寧に表現していて、各々「出かけたところ」「出かけずに」という訳でよいと思います。
・「かたくなる人」:「かたくなし(頑し)」/頑固。融通が利かない。物分かりが悪い。やぼくさい。・・そのような人のこと。
・「言ふめり」:「めり」は推量の助動詞「めり」の連体形。①推量の他に②婉曲表現の意味もあります。婉曲とは「確定的、現実的な事柄を、断定せずに和らげて言う」という意味です。

原文最後の「言ふめり」の「めり」について。
徒然草本文の流れを考えれば、ここは推量よりも婉曲表現として「めり」を使ったと解釈したいです。つまり、美意識が分からい野暮な人は残念な人です…と作者は言いたくて、でもストレートに言えば角が立つので、少し遠回しな言い方にしたのです、という理解です。
なので、意訳もそのつもりで訳しました。

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第212段/全文
<要点>
「思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり」
直訳すると「違いの分からない人は、本当に情けない人なんでしょうね」という意味です。
何の違いかというと、文脈から「いろいろな月の良さの違い」です。
➡ 昔、昭和時代のコーヒーのテレビCMに「違いの分かる男の〇〇〇」というコピーがあったのを思いだしました。いつの間にか見なくなったのは、女だって違いがわかります!という声があったからなのでしょうか…。平成時代に「違いの分かる人」として復活したという話もあるようです。
・「違いの分かる男の〇〇〇」のCM/1972年/29秒/今50歳以上の方には懐かしい映像だと思います。

➡ 作者 吉田兼好は「月にはいろいろあって、月の良さもにはいろいろあるのです。ただ秋の月が最高だ・・思っているだけの人っていうのは、ほんと野暮で情けない人なんだよね、きっと」と、言いたかったようです。
<原文>
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり。
[言葉]
・「限りなし」:「限り無し」で古語辞典に掲載されていました。/①限度がない。無限だ。②最高だ。この上なく… ③はなはだしい。
・「めでたきもの」:「めでたし」広く賛美と賞美の気持ちを表します。①素晴らしい。優れている。②ほれぼれするほど美しい。③祝うべきだ。喜ばしい。
・「思ひ分かざらん」:「思ひ分く」①判断する。分別する。②分け隔てする。/ここでは「(いろいろな月の良さの)見分けがつかない人」という意味。
・「無下に」:①むやみやたらに。②ひどく。はなはだ。③紛れもなく。まったく。そのとおりに。④(下に打消の語を伴って)まったく。全然。
・「心うかる」:「心憂し」①情けない。心が辛い。②いやだ。不愉快だ。
・「べき」:これは助動詞「べし」の連体形。「~べし」は現代語では当然の義務として「~しなければならない」という意味ですが、古語には推量の意味もあります。ここでは推量の意味で「とても情けないことなのでしょうね」という訳が妥当です。
<意訳>
秋の月は、最高に素晴らしいものです。いつでも月はこんなものだと思って、他の季節の月とその良さを判別できないような人は、とても情けないことなのでしょうね。

<まとめ>
直訳と意訳
「折りにふれば、何かはあはれならざらん」
➡よい時機にあたれば、何か感動する心を起こさせるものです。
➡ 物事には、それが一番光り輝くいいい時機というものがあるのです。
「月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ」
➡ 月は満月になれば欠けていきます。物事は最盛期を過ぎれば衰えていくのです。
➡ 物事は最盛期を過ぎれば衰えていくのが道理なのですから、後悔しないように、今この時を一生懸命に生きていきましょう。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは.」
➡ 花は満開の時だけが、月は満月の時だけが、鑑賞に値するものなのでしょうか・・。いいえそんなことはありません。
➡ 物事にはいろいろな側面があります。それぞれの価値というものを評価することだって必要なことではないでしょうか。
➡ 人だって同じこと。ある一面だけで評価せずに、いろいろな側面をよく知り敬うこと、それをお互いにすることによって、世の中は今よりも、もっと穏やかに、もっと平和に、もっと幸せになるのです。
「花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる」
➡ 花が散り、月が傾き沈んでいくことに心を惹かれ、恋しく懐かしく思うというのは世の中の常としてあるでしょう。ただ、特に頑固で融通の利かない野暮ったい人に限って「あ~あ、この枝の桜も、あの枝の桜も、全部散ってしまった。これじゃあ、もう見る価値は無いねぇ…」と、口にされているようです。そのような気持ちを持たれるのは、残念なことのように思われます。
➡ 何かを評価する時、ひとつの評価だけを取り上げてこだわるのは、頑固で野暮な人がすることです。
➡ 物事は、いろいろな角度側面から見ましょう。そして、いろいろな良さを知りましょう。多様性を知り、多様性を受け入れることで心穏やかになるのです。
「思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり」
➡ 物事の良し悪しの分別できない人というのは、本当に情けないということなんでしょうね。
➡ ひとつの事に凝り固まって排他的にはならないようにしましょうね。

つまり、物事っていうのは、多面的に見ていきましょうね・・っていうことなんですね!

そうなんです。そうすれば、
自分の思いだけにこだわって他の人と言い争いをしたり、
求めるものの唯一無二を主張して排他的になったり、
そして、
望んでいることを得ることができないからといって苦しむようなことも、
今よりもっと少なくなるのではないでしょうか。

争いが無くなり、排他的なこともなくて、苦しみも少なくなるのなら、そんな穏やかで幸せなことはないですね。とっても平和です。

みんながそのように思って、みんながお互いにその思いを敬い大事にしあうことによって、世の中は今よりも、もっと穏やかに、もっと平和になると思いますよ。

読んでくださり、ありがとうございます。
<追記>

137段は上記の続きに、男女の恋愛について語っています。
<原文>
「万の事も、始め・終りこそおかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは」
<意訳>
全てのことにおいて、始まりと終わりにこそ味わいがあるというものです。男女の恋愛においても、ただ逢って愛し合うことだけが恋愛だと言えるのでしょうか。そうではないと思いますよ。
・この一行にも、そして実はこの続きにも、含蓄のある言葉が並んでいます。熟成した結果なのか、達観なのか、それとも失恋への慰めなのか・・いろいろ解釈できて面白いところです。
この辺りのことは、次の機会の記事にしたいと思います。