(画像はイメージです。出典:phtotoAC)
これから記すのは、
あの有名な、茨城のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩です。
まずは、黙読玩味するのではなく、声に出して読んでみてほしいのです。
「自分の感受性くらい」 茨城のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(画像はイメージです。出典:phtotoAC)
【学校での詩の授業について・・・私の思い出】
詩というと、わかりにくい、何を言っているのか意味不明・・などのように敬遠されがちな場合があります。
その多くの原因はどこにあるのかを考えると・・・それは、学校の授業にあるのではないかと、私は思っています。
なぜなら、詩を読んだら、学校の先生は「意味と解説」をしようとし、生徒に「その詩の意味」への理解を求め、さらにそこに”正解”を求めようとするからです。少なくとも、私の高校時代、私はそう教わりました。
「意味」と「解説」をしてくれるのは、先生なのですから、それは役割のひとつです。ただ、「作者は何を思ってこれを書いたのでしょうか?」とか、「作者は何を言いたかったのでしょうか?」とか、そういうことに ”正解” を求めようとすることは、詩の鑑賞において出過ぎたことではないかと、私は思っています。
作者が何を思っていたとか、作者何を言いたかったとか、この語句の意味はとか、そんなことはどうでもよいと思っています。いちいちそういうことを考えるよりも、「読んで感じたこと」「読んでどんな気分になったか」というようなことに、その詩の意味があると、私は思っています。
作者はその時病んでいたとか、恋におちていたとか、時代環境はこうであったとか、作者を取り巻くそれらの背景は、もちろん詩の内容に影響しています。その結果がその詩なのですから、それらを知ることで、その詩への理解をさらに深めることができます。
ただ、
いちいち作者のプロフィールなどを調べないと詩の本意が求められないなんて、
そしてさらに、
詩の解釈に正解があるだなんて、
詩は言葉の芸術であるがゆえに、ナンセンスだと思うのです。
言葉によって表現されたことが、その詩の全てだと、私は思います。
なぜ、そう思うかというと、私の高校時代の、詩の授業での記憶です。
萩原朔太郎の詩でした。先生は「作者はこの一節にどのような思いを込めて書いたのでしょうか?」というような質問を出し、「加藤君」と私を指しました。
私は、自分が感じたことを述べました。
なのに先生は・・・「それは違います」と言ったのです。
私は私が感じたことを言葉にしただけなのに、何が違うというのでしょうか。
その先生は、当時NHK教育TVの講座にも講師を務めていたくらいですから、先生としての評価は高かったのだと思います。
でもその先生は、私が感じた私の返答に対して、「その答えでは、試験で×になります」とまでも言いました。私の感じた事柄では、その詩への読解力が不足しているというわけです。
そして私は、その一件で、詩から長い間遠ざかりました。
詩は、読んで感じるもの。
詩は、私が感じるもの、それで、いいではないですか。
詩の世界にテストの○とか×とかを持ってきたら、詩を味わえなくなってしまうと思うのです。
【 私は「自分の感受性くらい」をこのように感じて、そして味わっています 】
私は、この詩を、自分に言い聞かせるように何度も読み返しました。どのように言い聞かせたかといいますと、以下のようにです。
おまえは、自分の心がパサパサになって、繊細さを失っていくのを、
周囲の人のせいにしただろう!
自分で自分の心を見つめてケアすることもなく、誰か他の人のせいにするなんて、
おまえは、なんて、おおばかものなんだ!
(自分の言動に対して相手がどう心を動かすのか、それを慮る、そういう感受性が私にはないのか!)
おまえは、自分がだんだん気難しくなってきて、
イライラしたり、大きな声を出したり、時には喧嘩しそうになったり、
それをおまえは、友達のせいにしただろう!
友達が先に言ったんだなんて、いい訳をいいやがって!
心の柔軟性を失い、気配りも心配りも、忖度も斟酌も忘れていたのは、おまえの方だろう!
だから、そんなおまえは、おおばかものだ!
(自分の変化の原因を友達のせいにして、友達がどう思うのか、そういう感受性が私にはないのか!)
おまえは、イライラして、家族にあたったりしただろう!
上手くいかなかったのは、おまえに力がなかっただけじゃあないか。
それを、家族のせいにした。おまえは、おおばかものよ。
なにもかも私が下手でしたと、認めてしまえ!
(自分が原因を作っていることを横に置いておいて、家族に当たり散らしたりして、家族がどう思うのか、そういうことを考える感受性が私にはないのか!)
おまえは、初心が薄れて忘れがちになって、努力も工夫も怠るようになってきたのを、
生活に追われてしかたがないんだと、生活苦をいい訳にしただろう!
そもそも、おまえの初心なんて、すぐに挫けてしまう、弱いものだったんだよ。
きちんと反省しろ! このおおばかものが!
(自分のまずさを棚にあげて、いい訳している自分が情けなくないのか! 周囲のせいにするのではなく、おまえ自身が頑張れ!)
おまえは、上手くいかないことがあると、すぐに「今の時代は・・」と言うだけだ。
自分には工夫が足りなくて、努力が足りなくて、意志が弱くて・・と、何故認めないんだ。
まわりのせいにするな!
おまえは、上手くいかないことを全部、
ひとのせいにしたり、
友達のせいにしたり、
家族のせいにしたり、
生活苦のせいにしたり、
時代のせいにしたり、
しているだけだ。
おまえには、苦しくても胸をはって生きる ”誇り” とか、貫き通す信念とかはないのか!
おまえにだって、きっと尊厳は残っていたはずだ。
なのに、そのわずかに残っていた尊厳までも棄ててしまったおまへは、
”おおばかもの” だ!
感受性というものは、自分が感じる力だ。
それは自分の心にある、自分だけのものだ。
自分のものなのだから、自分で守って、棄てることのないようにしろよ。
大切にして、誇りをもって生きろよ。
自分の感受性を守れないから、尊厳を大切にできないんだ!
自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ!
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【詩「自分の感受性くらい」で自分を鼓舞し自分を見つめる私の方法】
このように、詩は、自分が感じるまま、思うままに読み込んでいくことに、意味があるのだと、私は思っています。
思うこと、感じることは、どこまでもどこまでも膨らませていってかまわないと思います。
そして、それらを勇気に変えたり、慰めに変えたり、自分の都合のいいように読み換えていいのです。
そうやって、気に入った詩を、自分の生きる肥やしに、自分の生きる力にしていけばいいのです。
詩というものには、そういう力があります。
私は「自分の感受性くらい」から、
「おまえ、しっかりしろよ。上手くいかないことを、周囲にせいにしていないかい? 感受性を大事にして、尊厳を守り、周囲に迷惑をかけないように、しっかり生きていけよ」
という勇気をもらっていました。
だから、
時々、声に出して、読み返しています。
声に出すと、
黙読よりも心の中に、
入っていくのです。
これが、私の、
詩「自分の感受性くらい」で自分を鼓舞し自分を見つめる私の方法です。
(画像はイメージです。出典:phtotoAC)
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【教科書で学んだ懐かしい詩歌】の記事一覧(目次)は、以下にございます。
ご一読いただけましたら、幸いです。
読んでくださり、ありがとうございます。