山中問答/李白/漢詩の授業では教えてくれなかった鑑賞の方法/色と動静


(画像はイメージです/出典:photoAC)

高校生になると国語の授業は「現代文」と「古典」の二つになります。そして「古典」は、日本の中世以前のいわゆる古文と呼ばれる物語や短歌を学ぶ授業と、中国の詩つまり「漢詩」を学ぶ授業、この二つの授業によって構成されています。

この記事では、それらの教科書で学んだ「漢詩」の部分を取り上げて、授業ではあまり教えてくれなかった鑑賞の方法について解説していきたいと思います。(注:「教えてくれなかった」というのは、あくまで私自身の高校時代の授業での話です)

私の経験した授業では、漢詩の授業は主に文法の学習が優先されていていました。正しい文法の理解によって漢詩を正しく解釈することが授業の柱であり、「詩」という文学への「主体的な解釈」を導く授業ではありませんでした。きっと先生には、そこまで教える時間的な余裕がなかったのだと、私は思っています。

もしも、それらの「漢詩」に詠み込まれている詩作への観念みたいなものに「主体的な解釈」を加えるような授業がおこなわれていれば、そしてそれらの「漢詩」にもっともっとじっくり向き合うことができていれば、漢詩の授業がもっと楽しくなっていたと思います。・・・というのが、後年になって漢詩をじっくり味わうことを始めてから思うことです。

この記事は、私がもう40年以上も思い続けている「詩の主体的な解釈」について、きちんと整理して文章に残しておきたい、そのような意図で書いたものです。

題材にした「漢詩」は、李白(701~762年、盛唐の詩人)の「山中問答」です。

目 次

1.本文(横書)

2.読み方

3.主な語句の解説

4.解釈:ここでは意訳〔Free translation〕してみました。

5.授業では教えてくれなかった鑑賞の方法

(1)視覚的イメージを大事にする:「色」を意識してみる

(2)「動」を包み込む「静」

(3)異なる価値観の対比

(画像はイメージです/出典:photoAC)

1.本文(横書)

問余何意棲碧山

笑而不答心自閉

桃花流水窅然去

別有天地非人間

2.読み方

【読み方】

余に問ふ 何の意ありて 碧山に棲むと

笑って答えず 心自ずから 閑なり

桃花流水 窅然として去る

別に 天地の人間に 非ざる有り

【ふりがな】

よにとふ なんのいありて へきざんにすむと

わらってこたえず こころおのずから かんなり

とうかりゅうすい ようぜんとしてさる

べつに てんちのじんかんに あらざるあり

3.主な語句の解説

【碧山(へきざん)】

碧は「緑に近い青緑色」を意味しています。「緑に近い青緑色の山」ということは、遠くに見える山・・・つまり「山奥」のことです。私は、次の画像のような遠くの山を想像しました。

(画像は碧山のイメージです/出典:photoAC)

冒頭は「あなたは何故人里離れた山奥に棲んでいるのですか?」という意味ですが、例えばこの画像のような遠くに見える青緑色の山奥を想像してみると、この後に続く色彩の視覚的美しさが益々生きてきます。

【桃花流水(とうかりゅうすい)】

桃の花びらが、ひらりひらひらと風に舞い、流れる青緑の川面に浮かび、そして川の流れに乗ってゆっくりゆっくりと流れていく様子です。

※ここには、三つのシーンが登場しています。

(1)ひとつは桃の花。桃の花を間近で見るのか、遠景で見るのか、それとも間近と遠景を行ったり来たりするのか・・によって趣が異なります。それは、この詩を読む人の想像でかまわないと思います。なぜなら、詩の解釈に正解を求めることはナンセンスだと、私は思っているからです。

以下の二つの画像をご覧ください。綺麗ですね。山奥にこのような綺麗な桃の花が沢山咲いているのです。

(画像は桃の花を間近に見たイメージです/出典:photoAC)
(画像は桃の花を遠景で見たイメージです/出典:photoAC)

(2)二つ目は”流水”と表現している川の流れです。「桃花流水」の4文字で、桃の花たちのすぐ傍を、川がゆっくりと流れている景色が見えてきます。

(画像は流水のイメージです/出典:photoAC)

(3)そして三つ目は、桃の花が川面に落ちて、ゆっくりと流れていく様子です。

(画像は川面に落ちて、今まさに流れていこうとする桃の花びらのイメージです/出典:photoAC)

このように、色を含む視覚的なイメージを描いてこの詩を読むと、この詩はとても生き生きしてきます。複数の色をイメージすると、鑑賞する者の心に動きが出てくるからです。

【窅然(ようぜん)】

奥深くて遠い様子を表しています。なので「桃花流水 窅然として去る」は、桃の花びらが川面に落ちて、川の流れにゆっくり運ばれて、どんどんどんどん遠くの方まで流れていって、そして小さくなっていく様子を表しています。

※誰にも邪魔されない、誰にも文句を言われない、自由気ままに川の自然な流れに身をまかせて、ゆったりとのんびりと流れていく・・この視覚的イメージが、次の句の「人間に非ざる有り」を自然と強調することに繋がっていきます。

【人間(じんかん)】

人の間と書いて「じんかん」 これは「人間の世界」や「俗世間」のことを表しています。

※これは、第一句の「何の意ありて 碧山に棲むと」と、”尋ねてきた人の俗世間的な価値観” を指して、俗世間を多少馬鹿にしたような言い方であるとも解釈できます。そして、俗世間を持ち出すことによって、その対比として「私が住んでいる碧山は俗世間からは遠く離れています ≒ あなたがいるような俗世間とは違うのです」ということが強調されています。

4.解釈(ここでは意訳〔Free translation〕してみました)

【1句】驚いたね。「あなたは、どうして人里離れた山奥に暮らしているのですか?」と、私に尋ねてきた人がいたよ。

【2句】私にとっては、そんな俗っぽい質問、とても馬鹿馬鹿しく思えてね、私は笑って何も応えませんでした。私は、人様になんと言われようとも、私の心はいつも静かで穏やかなんですよ。私に、かまわないでほしいですね。

【3句】そんな馬鹿げた質問をする俗人には、ここの素晴らしさを知って欲しいです。ほら、御覧なさい。綺麗な桃の花が、辺り一面に咲いていますでしょう。とても穏やかでありませんか? 

ほら、風に吹かれた桃の花びらが沢山舞って川面に落ちていきます。

そして、桃の花びらは川面に桃色の模様を描きながら、川の流れと一緒になって、ゆっくり穏やかに、遠くへ遠くへと小さくなるまで続いているではありませんか! 

なんて綺麗な、まるで夢のような景色です! その美しさに、私は見とれてしまいます。

【4句】ここはね、俗世間とは隔絶された、とても幸せなところなんですよ。

5.授業では教えてくれなかった鑑賞の方法

(1)視覚的イメージを大事にする:「色」を意識してみる

・表現されている色を細かく分けると、碧山の「緑に近い青緑色」

・咲いている桃の花の「桃色」

・川面に浮かぶ桃の花びらの「桃色」

・そして流水の色:ここでは表現されていませんが”窅然として去る”と書かれているところからは「深い青緑色」

・・・これら四つの色が想像できます。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

この詩は全体的に静けさの中にあるのですが、これらの色を意識することによって、静けさの中にある”静かな美しさが”際立ってきます。

(2)「動」を包み込む「静」

全体が静かに語られている詩です。「静か」を印象づけているのは、”碧山”からくるイメージであり、”笑って答えず”という黙ったまま動きのないことであり、”心~閑なり”という心理的にも穏やかであること、という三つの要素が連続しているからです。

でも3句目で「動」的になります。「桃の花びらは川面に落ちます」「川は流れていきます。川は桃花を遠くまで運んでいきます」

ただ、ここで「窅然」という語句を使うことによって、動いているのだけれども、静かな動きとなっています。「静」が「動」を包み込んでいますね。ここがとても美しく、この詩の鑑賞のしどころだと、私は思っています。

(3)異なる価値観の対比

例えば、上と下、右と左、表と裏、好きと嫌い~。対比することは、各々が強調されて、詩の骨格となりえます。この詩では、「俗世間」と「俗世間とは隔絶された世界」が対比されています。

「俗世間とは隔絶された世界」を「桃花流水窅然去」と表現していることは、とても印象的だと云えるでしょう。

いろいろな資料をあたると「桃花流水窅然去」の部分は、李白が、陶淵明(365~427年、六朝時代の東晋の詩人)の小説「桃源郷」を踏まえているという定説があるようです。

なので、次回の記事では、陶淵明の「飲酒」という詩を取り上げてみたいと思います。「飲酒」も教科書で学ぶ漢詩であり、俗世間を離れた処に住んでいる様子を詩にしていて、この山中問答と似通った心境にあると思われます。

〔次の記事〕飲酒/陶淵明:漢詩の授業では教えてくれなかった鑑賞の方法/此中有真意

<参考>

かとうあきら

なぜ酒を飲むのか?/李白「春日醉起言志」/和訳と英訳/漢詩の魅力

「日本の詩歌」「百人一首」「漢詩」に分けていくつかの詩歌を解説しております。

「教科書で学んだ懐かしい詩歌」

読んでくださり、ありがとうございます。