
酒好きで有名な陶淵明(365~427年、六朝時代の東晋の詩人)の作品「飲酒」を取り上げました。
これは、私の先の記事「山中問答/李白:漢詩の授業で教えてくれなかった鑑賞の方法/色と動静」の続きに位置付けています。
この「飲酒」という詩は、表題に「飲酒」とありながら、本文には「飲」も「酒」も出てきません。ただ、表題にすることで、酒を飲んで気分よくなっている最中の出来事を題材にしていることが想像できます。作者はこの時、きっと酒を飲んでいるのでしょう。私はそう思ってこの詩を鑑賞しています。
なので、酒を飲む人が詠めば共感を得られることが多く、酒を飲まない人が詠めば”酒飲みというのはこのような感慨に耽るものなのか・・”という感想を持つのかもしれません。
この詩のテーマは、俗世間の煩わしさを拭い去った所に感じる、俗世間を達観した心持ちです。
そしてその心持ちは、後の唐代に活躍した李白(701~762年、盛唐の詩人)の作品「山中問答」のヒントになっているという様々な解説や、日本を代表する作家の夏目漱石がその作品「草枕」の中で紹介していることでも有名です。
夏目漱石は、その著作「草枕」にて「飲酒」の一節を紹介して、「飲酒」という詩を心地よく評価しています。以下にその箇所を抜粋いたします。なぜなら、この抜粋を読むだけでも、この「飲酒」がどのような詩なのか推測できるからです。
1.引用 :夏目漱石「草枕」より
” うれしい事に東洋の詩歌にはそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠然見南山 。ただそれぎりの裏に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。垣の向うに隣りの娘が覗いてる訳でもなければ、南山に親友が奉職している次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持ちになれる。” (引用元:夏目漱石「草枕」、発行/岩波書店、2003年4月24日 第97刷、14頁の中頃)
※一行目の「そこ」を指すものについては、説明すると長くなりますので、ここでは省略させて頂きます。実際に「草枕」を読んでご理解くださいませ。
陶淵明の「飲酒」について夏目漱石が抱いた感懐は以上の通りですが、私はこの「飲酒」という詩について、解脱、悟り、煩悩の無い世界、自由な境地、達観・・・などをイメージしました。
タイトルに「飲酒」とありながら本文には「飲」も「酒」も出てきません。作者は、”酒を飲んでこのような「境地」に浸っているのです” という情景と情感を、この詩に託したのかもしれません。それが、私の感想です。
それでは、本文をここに転記いたします。転記元は、書名「教科書でおぼえた名詩」/発行:㈱文藝春秋/2008年7月25日 第7刷 です。
2.本文(横書)
結 廬 在 人 境
而 無 車 馬 喧
問 君 何 能 爾
心 遠 地 自 偏
採 菊 東 籬 下
悠 然 見 南 山
山 気 日 夕 桂
飛 鳥 相 与 還
此 中 有 真 意
欲 弁 己 忘 言
詩のスタイルは”五言古詩”と呼ばれている、中国の六朝時代(222~589年)以前のものです。一句が五文字であること以外には、決まり事はありません。
ちなみに、唐(618~907年)に入ると、”五言絶句”〔五文字×4行〕、”五言律詩”〔五文字×8行〕と呼ばれ、起承転結や押韻などを含むように作る、約束事の多いスタイルが確立されていきます。
五言古詩は、スタイルに制約がほとんど無いことから、現代の随筆に近い書かれ方をしているという見方もできます。
ただ、詩の創作にスタイルが自由であることは、簡単なようでいてかえって難しい作業であることも確かだと思います。そこは、この詩の鑑賞のもうひとつのポイントかもしれません。それでは、実際に読んでみましょう。

3.読み方
廬(いおり)を結(むす)びて 人境(じんきょう)に在(あ)り
而(しか)も 車馬(しゃば)の 喧(かま)しき無(な)し
君(きみ)に問(と)ふ 何(いずくん)ぞ能(よ)く爾(しか)ると
心(こころ)遠(とお)ければ地(ち)自(おの)ずから偏(へん)なり
菊(きく)を採(と)る東籬(とうり)の下(もと)
悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る
山気(さんき)日夕(にっせき)に佳(よ)く
飛鳥(ひちょう)相与(あいともに)に還(かえ)る
此(こ)の中(うち)真意(しんい)有(あ)り
弁(べん)ぜんと欲(ほっ)して己(すで)に言(げん)を忘(わす)る
・主語は、私(作者)でよいと思います。
・場所は、人里(人境)にある、粗末な作りの我が家(廬)。
・行為は、庭に出て菊を採る。
・情景は、竹垣、菊、南山、飛鳥、夕日。
・感情は、心は俗世間からは離れている(心遠地自偏)
そして、最後の一句「欲弁己忘言」(言葉にしたいけれども、言葉がでない)に繋がります。
読むと分かるのですが、二行ずつがひとつの塊になって意味をなしています。なので、二行ずつ、五つのブロックに分けて、読み解いていきたいと思います。

4.主な意味(意訳 / Free translationを含みます)
(1)私は、粗末ながらも人里に我が家を構えています。でも、ここは人里なのに、馬車に乗って誰かが訪れるというような喧騒はありません。静かです。
(2)なぜ、そうなのか・・と問われれば、「心は俗世間から離れているから、人里にあっても辺境にいるのと同じなんですよ」と答えています。
(3)庭に出て、東側の竹垣の下で菊の花を摘みました。そして腰を上げると、南の方の山が目に入ってきました。
(4)山々は悠然として夕日に映えて綺麗に輝き、その方角へ鳥たちが仲良く一緒になって帰っていきます。
(5)この景色の中にこそ、人生の、生きるということの、本当の意味があるように私は感じます。私は、それを言葉にして発したいと思いましたが、言葉にできるほど簡単なものではなく、私は何と言っていいのか・・その言葉はついに出てきませんでした。私は言葉を忘れてしまったのです。
この詩の解説の多くは、五行目と六行目の「菊を採る東籬の下(採菊東籬下)、悠然として南山を見る(悠然見南山)」を取り上げて、この詩の象徴としています。夏目漱石もそうでした。
でも私は、九行目の「此の中に真意有り(此中有真意)」が心に残ります。
作者が感じた”真意”とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。作者は「弁ぜんと欲して己に言を忘る(欲弁己忘言)」と締めくくっていますが、本当に忘れたのでしょうか、それともあえて「忘れた」と記したのでしょうか。そこが、私の一番の興味です。
そう考えると、酒を飲んで酔っていたから「忘れて」しまったのかもしれないし、酒を飲んでいい気分になっていたから「忘れてしまったよ、そんなことは」と言い放つこと自体が自由奔放の心地よさであったのかもしれません。
この詩は高校の教科書に載っているのですが、酒を飲んではいけない高校生に「飲酒」という味わいを授業で教えるには、少し難易度が高いのかもしれません。それとも、大人に近い年代だからこそ「飲酒」という味わいも垣間見てほしいと、教科書の編纂者はそう考えたのでしょうか。
「飲酒」という行為と、その味わい(場合によっては、飲酒の弊害というのもありますね)を、どのように伝えていくのか、それらがこの詩にどのように関わっているのか・・・それが授業では教えてくれなかった事柄です。(ここでいう授業は、あくまで私が高校生の時の授業のことです)

5.授業では教えてくれなかった鑑賞の方法
・もしも私が教壇に立つとしたら、私はこのように生徒に伝えたいです。
「君たちが20才を過ぎて、お酒を飲んでもよくなってからの話です」
「君たちが、もしも、四行目にあるように「心遠ければ地自ずから偏なり」という心境を求めたいと思ったら、その時は、お酒を飲みながらこの詩を声に出してゆっくりと読んでみて下さい」
「そして、夕日の映える山に鳥が連なって帰っていく様子を想像してみて下さい。その時、作者陶淵明の心境を味わうことができるかもしれません」
「そしてその時、飛んでいく鳥は何羽ですか? 二羽ですか? 沢山ですか?・・・それによってもその時の自分の心境を垣間見ることができるかもしれませんね」
「そしてさらに、先生のこの漢詩の授業を思い出して下さい。一緒に学んだ友達のことも思い出してみてください。その時、君たちが何歳になっているかは分かりませんが、きっと思うでしょう。「此の中に真意有り」と・・・、先生はそう思います」
「そうなんです。この詩には、人生という長い歩みの中にあって「此の中に真意有り」という心境を、いつか味わうための、疑似体験を学ぶという意味があるのです」
こんなふうに教えてくれたら、よかったかも・・と、今思っています。
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読んでくださり、ありがとうございました。