少年老い易く学成り難し
冒頭「少年易老学難成」で始まる 朱熹の ”偶成” というタイトルの漢詩。
何度も読んでいたら、これはもしかして、循環している詩ではないかしらん、と思いました。そこで、循環していると思った、そのワケをきちんと説明してみたいと思います。
読んでいただければ、この漢詩の味わい深さ、そしてその楽しみ方が、いっそう増えるのではないかと思います。
(漢詩は縦書きですが、ここでは横書きにしてあります。ご了承くださいませ)
偶成
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
各々の句の解釈については、以下の通りです。ここは、恐れ多いとは思いますが、朱熹になったつもりで、私の感じ方を元に私の言葉で書きました。
① 少年老い易く学成り難し(しょうねんおいやすく がくなりがたし)
人というものは、今は少年であっても、あっという間に成長して、そして年老いていく。でも、学問というものは、なかなか大成することができない難しいものだ。
② 一寸の光陰軽んずべからず(いっすんのこういん かろんずべからず)
だから、一寸した時間でも大事にして、勉学に勤しんでいかないといけない。
③ 未だ覚めず池塘春草の夢(いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ)
春の日、池のほとりにユラユラ揺れる春の草花を見ながら、夢に思いを馳せ続けているうちに・・・
④ 階前の梧葉己に秋声(かいぜんのごよう すでにしゅうせい)
庭先の梧葉は、もう秋風に吹かれて黄色くなってしまったよ。なんて月日が経つのは早いものだろう・・・。
というふうに、この漢詩を読み解くことができます。
さて、本題です。
この漢詩、最後の句 ④ 階前梧葉已秋声 (夢ばかり追っていたら、もう秋になってしまった)を読み、その次にまた ➀ 少年易老学難成と読んでいっても、意味がつながっていくと思いませんか?
以下、視点を読み手において、解釈してみました。
④ 階前梧葉已秋声 から ➀ 少年易老学難成 へ循環する。
・・・夢ばかり追っていたら、もう秋になってしまった。時間の流れの速さと同じように、人というものもまた、たとえ今は子供でも、その成長は速く、いつの間にか成人に、いつの間にか熟年を過ぎて、気が付いたら、いつのまにか老人になっている。なのに、学問というものは、ちっとも成し遂げることができないものだ。
↓
② 一寸光陰不可軽(いっすんのこういん かろんずべからず)
・・・時間というものは直ぐに過ぎ去っていってしまう。だから、ちょっとした時間でも大事にして、勉学に勤しんでいかないといけないな。
↓
③ 未覚池塘春草夢(いまださめず ちとうしゅんそうのゆめ)
・・・さっきから、ずっと、私は池のほとりに揺れる春の草花を眺めて、ああでもない、こうでもないと夢を見続けている。
↓
④ 階前梧葉已秋声(かいぜんのごよう すでにしゅうせい)
・・・あーあ。夢を見ている間に、気が付いたら、庭先の梧葉はもうとっくに秋の風に当たり、色づき始めていた。時間の流れとは早いものだ。
(※梧葉というのは青桐という落葉高木の葉のことです。青桐の樹皮は緑色をしていて、葉は桐に似ているので青桐という名がつけられたようです。公園や街路樹、学校など、注意していると見つかるかもしれません。画像は「青桐の画像」を参照して下さい。)
そして循環・・・➀ 少年易老学難成
・・・だから、思うのさ。少年といえども、すぐに年をとってしまう。それに比べて、今取り組んでいる学問というものは、なかなか成就できないものだ。
ねっ、循環していきますでしょう!
私は、この”偶成” をこのように理解しました。
➀ 少年易老学難成 ・・・これは結論。
② 一寸光陰不可軽 ・・・その根拠。
③と④でひとつ。未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声・・・その証拠。
なので、このような”偶成” も成り立ちます。
偶成
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
【解釈】
今度は語りかけるように解釈してみましょう。
春に池のほとりでユラユラ揺れる春の草花を眺めて続けていた、その夢を、まだ見続けているのかい。ほら、庭先の青桐を見てごらんよ。もう秋風に吹かれているよ。時の流れの速さは、少年といえどもすぐに年をとってしまうのと同じなんだね。なのに学問というものは、なかなか成し遂げられないものだ。だから、ほんのちょっとした時間も、無駄にしてはいけないね。
・学難成「学問はなかなか成し遂げられない」というくだりは、儒教を研究し、その中から新たに「朱子学」を大成させた、作者 ”朱熹” だからこそ、しみじみと思ったことなのかもしれません。
私は、実はこの並びが好きです。
何故なら、元々の”偶成”だと、
偶成
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
「未覚****夢」が心に響いてきて、
「おまえ、まだ、そんな夢を追っているのかい? いいかげん、諦めたらどうなの? もっと現実を見なさいよ。おまえのお友達や世間のみんなはもうとっくに、きちんと働いて所帯をもって、中にはもう孫がいる人もいるのよ・・・」
つまり「そんな夢は早く捨ててしまいなさい」と言われてしまう、そんな思いに駆られてしまうからです。
夢は追い続けてなんぼ。覚めたら(諦めたら)夢はなくなってしまいます。夢は死ぬまで追い続けていたいと思うのです。それが夢の良さだと思うのです。
なので、句の順番を入れ替えて、先に記述したように、
③④未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声 から読んでみました。
偶成
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
こうすると、一寸光陰不可軽 が強調されませんか?
なので、
「少しの時間でも大切にして、夢を追い続けていこう!」「よーし!がんばるぞ!」という気になるのではないでしょうか。つまり、とても前向きな ”偶成” になるのです。
もういちど、分解してみます。
➀ 少年易老学難成 ・・・これは結論。
② 一寸光陰不可軽 ・・・その根拠。
③と④でひとつ。未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声・・・その証拠。
こんどは、② 一寸光陰不可軽 から読んでみましょう。
偶成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
少年易老学難成
【解釈】
月日というものは、直ぐに経ってしまうから、ちょっとした時間でも大事にしないといけないね。その証拠にね、池のほとりで春の草花が揺れるのを見ながら、いろいろと夢を描いていたら、いつもまにか庭先の青桐が秋風に吹かれていたよ。人の成長は早い。少年であった者でも直ぐに年老いてしまう。それに比べて、学問というものは、ちょっとやそっとでは成し遂げられない、難しいものだ。
このように、 ”偶成” は、どこから読んでも繋がっていきます。
なので、循環していると思うのです。
ただ、読み始める句によって、意味が異なってきます。
ここは、詩を読む自由な心を大切にして、自分の心に勇気が湧いてくるような読み方を自分で見つける。それが、この”偶成” の味わい方、そして楽しみ方だと思うのです。
【語句からは分からない隠れた情報】
1.作者の朱熹(1130-1200年)は、古くは中国の南宋の時代(1127-1279年)の儒学者。儒学に、新たな考え方を見出し「朱子学」として大成させました。
2.朱熹が生きた時代、中国は、南に”南宋”、その北に”金”、金の西北に”西夏”、それぞれが領土を分け合っていました。そしてその北は、南下を虎視眈々と狙っている蒙古が支配していました。(1276~1279年、南宋はモンゴル帝国により滅ぼされてしまいます)
3.朱熹が生きた時代の日本はといえば、平安時代の末期から鎌倉時代の初期に当ります。
4.朱子学についていえば・・、簡潔に説明するのはどうも難しそうです。朱子学を100文字位で完結に説明した文章は見当たりませんし、ウィキペディアを参照しても、なかなか理解できません。なので、ここでは割愛をさせていただきます。どうもすみません。
ただ、朱子学を江戸幕府が正統な学問として認定したことについては、朱子学の日本への関わり方、そして朱子学の価値として捉えておいてよいことだと思います。
〔江戸幕府と朱子学〕
時は1790年です。老中の松平定信が、儒教の中で朱子学を正学、その他を異学としました。幕府の学問所で学ぶ儒学は朱子学だけを公認したそうです。時は寛政2年だったので、これを「寛政異学の禁」と呼んでいます。・・・評価として、朱子学の考え方が封建制度の維持に好都合であったという見方も一部ではあるようですが、定まった評価はまだされていないようです。
5.青桐のことについていえば、広島市の平和記念公園には、”被爆アオギリ” が生育しています。因みに「アオギリ」という名前の喫茶店が広島平和記念資料館の中にあります。
6.語句の順序を変えることによって、強調される、 又は読み手の印象に残る語句が変わります。これについては、心理学における「系列位置効果」で明らかにされています。相手先様に特に伝えたい語句を、文章のどの位置に入れるかによって、その効果が異なるというものです。広告コピーの作成では特に意識しておかないといけません。実は、”偶成” の4行(内容的には三つの事柄)の考察にも役立てました。
偶成
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
行の順番をいろいろ変えて、味わい方、楽しみ方を研究してみましょう。楽しみがまたひとつ増えていくと思います。
明日もいい日でありますように。
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【教科書で学んだ懐かしい詩歌】の総合目次は、以下にございます。
ご一読いただければ、幸いです。
読んでくださり、ありがとうございました。