百人一首「恋の歌」/ 漢字「命」を詠み込んだ恋歌四首から恋を知る


(画像はイメージです/出典:photoAC)

百人一首に見られる、ある特徴

鎌倉時代の初めに生まれて現代に至るまで、歌集の代表作として引き継がれている「小倉百人一首」には、ある特徴があります。

その特徴とは、同じ文言がいくつも使われていることです。文言とは「言い回し」や「語句」のことです。

たとえば、「~すれば」という仮定表現を使った短歌は19首もあります。これは動詞の例ですが、名詞についても同じように、たとえば、「月」が使われている和歌は11首もあります。「恋」については10首に使われていて(その内の8首が恋歌)「秋」という言葉は12首に登場します。

このことは、”小倉百人一首の選者である藤原定家の好みの結果である” という解釈はあると思いますが、果たしてそれだけでしょうか。

私は、それらの短歌を詠んだ当時の人達の 、仮定表現が好きだとか、月、恋、秋・・という言葉が好きだとかについて、それらは”当時の人達の感情の発露の特性”であると考えています。(ちなみに、小倉百人一首の歌は、飛鳥時代から鎌倉時代初期まで(6世紀頃~12世紀頃まで)の歌から選ばれています)

つまり、それらの短歌を味わえば、その時代に生きた人達の”心の模様”を垣間見ることができるのです。このことは「古典を読んで当時の人々のことを知りましょう」という学校の授業にもよく出てくる普遍的テーマの合理性を証明することでもあります。

そして、私としては、以下のように考えます。

それら ”心の模様” は、その時代の人達だけの個性なのか、それとも、今も生きる人にも共通のものなのかということです。もしも共通のものであるのなら、そこにひとつの普遍性を見出すことができて、今を生きる私達への ”人生を生きるヒント” になるのかもしれない・・・と思うのです。

そのようなことを想いながら、この記事を書いています。

今回は、「小倉百人一首」に詠み込まれている「命」という言葉を調べてみました。

「命」が使われている短歌は、全部で5首あり、そのうちの4首が恋歌でした。当時、恋と命はどのような関係として認識されていたのでしょうか。そして、「命」という言葉はどのように使われていたのでしょうか。さらに、それは現代にも通用することなのでしょうか。もしも現代にも通用することなのであれば、これらの短歌を味わうことによって”人生のヒント”を推察をすることができるはずです。

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「命」を歌に詠んでいる恋歌、全5首

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人のの 惜しくもあるかな 〔第38番歌/詠み人:右近(生没年不詳)〕

君がため 惜しからざりし さえ 長くもがなと 思いけるかな 〔第50番歌/詠み人:藤原義孝(954-974年)〕

忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの ともがな 〔第54番/詠み人:儀同三司母(生没年不詳)〕

思いわび さてもは あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり 〔第82番歌/詠み人:道因法師(1090年-没年不詳)〕

※ここまでが、「命」という語句を詠み込んだ恋歌4首です。

※そして、もう一首、「命」を使っている歌があるので、ここに一緒に紹介いたします。小倉百人一首で「命」という語句を使っているのは、上記の四首と次の一首、併せて五首です。冒頭に「契り」とあるので恋歌を想起させますが、恋歌ではありません。

契りおきし させもが露を にて あはれ今年の 秋もいぬめり 〔第75番歌/詠み人:藤原基俊(1060-1142年)〕

それでは、これらの歌の意味を追ってみましょう。

ここでは、直訳ではなく意訳をいたします。そして、【解説/連想ゲーム】と題して、若干の解説と語句から連想される事柄を加えました。

正解をひとつ追求するのではなく、解釈をいろいろ広げてみることは詩歌を味わう楽しみだと、私は考えているからです。

忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

あなたは、私のことを忘れてしまったのですね。悔しいですけど、私は自分の身を心配することなく、あなたとの恋を諦めます。ただ、あなたが誓った永遠の愛は、どこへ行ってしまったのですか? 誓いを破ったあなたには天罰が下るかもしれませんよ。もしもそうなって、あなたが命を落とすとしたら、それは、私にとってもあなたにとっても、とても残念なことです。

【解説/連想ゲーム①】「忘れる」から「忘れない」が連想できて、そこに「誓う」という動詞が加わることによって、人と人との感情的な繋がりに関することがテーマになっている短歌だと推察できます。そして、もしも小倉百人一首には恋歌が多いという知識があれば、この歌は ”男女間の感情のもつれ” かもしれないと連想できます。

【解説/連想ゲーム②】「私に永遠の愛を誓ったのに、私を忘れて他の女の所へ行ってしまうだなんて、あなたにはきっと天罰が下るわ。ああ、可哀そうに・・・」という皮肉たっぷりの歌なのかもしれません。「罰が当たる」程度のことではない、「命」という重い言葉を「惜しい」という悔恨に繋げることによって相手に事の重大さに気が付いてほしい、そこに「命」という言葉を使った意味があると思います。

君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思いけるかな

(1)あなたをひと目見て、私はあなたに心を奪われてしまいました。私はあなたとの愛が成就するのであれば、この命だって惜しくはないと今日まで思い続けてきました。でも、あなたとの愛が叶った今、一日でも長く長く、末永く、あなたと一緒に生きていきたい、そう思っている私です。どうか、私と一緒に末永く一緒にいてください。愛しています。

(2)人の命はいつかは絶えてしまうものです。鶴や亀のように千年や万年も生きてはいけません。どうせいつかは死んでしまうこの身ですから、今まで私は、自分のこの命を惜しいとは思っていませんでした。でも、あなたと出会った今、その考えは変わりました。私はあなたと一緒に末永くいつまでも生きていきたいのです。それくらいあなたを愛しているのです。

【解説/連想ゲーム①】「あなたとの愛が成就するなら死んでもかまわない」について。あの世とこの世との間で恋愛は、できたとしてもこの世からあの世への片思い以外はできそうもありませんから、”愛の成就”は、冷静に考えると無理な話です。なので、この言い回しは、相手を口説くための方便のようです。この詠み人は、恋愛経験豊かな口説き上手で、ともすればプレイボーイやプレイガールを連想させる人だったのかもしれません・・ということが連想されます。

【解説/連想ゲーム②】「惜しからざりし命」という文言には、無常観のような雰囲気が感じらます。なので、それを元に、もうひとつの意訳(2)を書いてみました。

ただ、”自分の命は惜しくはない” という無常観がどこから来ているのでしょうか・・・? 調べてみると作者の藤原義孝の生きた時代954年~974年は平安時代の真ん中辺りで、権力争いはあったと思われますが、歴史に残る大きな騒乱は起きていません。なので、世の中の争乱から想起される無常観はあまりないようにも思えます。だとしたら、作者が思う無常観は俗にいう仏教の教えから来るものなのか? それは、作者本人に尋ねてみないとわからないことです。

無常観を説いている「ゆく河の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」の書きだしで有名な方丈記、冒頭部分で世の中は「諸行無常」と書かれている平家物語、それらの出現はずっと後、鎌倉時代の初期です。でもきっと、「惜しからざりし命」という死生観が育つような社会環境は、私達の知らない所で、歴史に残されていない所で、沢山あったのだと推察されます。

このように、この歌に使われている「命」は、①口説くための方便として、②無常観の表れとして、二つの解釈ができます。詩歌を味わう楽しみが詰まった歌ですね。

忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

あなたは「君のこと、ずっと忘れないよ」って言ってくれるのですが、それは本当ですか? そのうち、他の人のところへ行ってしまうことだってあるのではないですか? そう思うと、わたしは不安でなりません。だから、わたしは今日、死んでしまいたい。そうすれば、先々に悲しい思いをすることはなく、愛は永遠になります。

【解説/連想ゲーム①】「行く末まで(この先ずっと)」「忘れじ(忘れない)」という思いは、どのような状況で想起されるのでしょうか。そう考えると、それは人間関係、もしかして恋する人のことを云っているのかもしれない、と連想されます。

さらに、その思いが「かたければ」命は今日限りにしたいと述べているのです。「かたければ」は「難し(がたし)」つまり「困難」という意味ですが、「硬い/固い」から「柔らかくするのが難しい」だから「困難」という連想があっても繋がります。

ここでは「行く末まで」「忘れじ」は「困難であるのならば~」という仮定をしています。

そして、下の句で「今日を限りの 命ともがな」と歌っています・・・命を今日限りにするなんて、尋常な状態ではありません。でも、この歌が恋歌であるのなら、幸せの絶頂にある時に死んでしまえば、幸せは永遠だ、という思いがあっても不思議ではないと推察できるので、つまりこの歌は恋歌だと判断できるのです。

【解説/連想ゲーム②】永遠は難しいことだからと思ってしまうのは、通い婚(妻問婚(つまどいこん)とも云います)があたりまえであった時代背景を考慮しないといけません。女性からみて、男が自分の所へ来なくなってしまうことは、ありえたのです。

なので「二人の仲は今最高潮にあるのだから、ここで死んでしまえば、愛し合うこの関係は永遠になる」と考えるのは、とても刹那的で胸が痛くなります。

元々、上の句で ”ずっと忘れないことは困難なことだ” と歌っていること自体、人の世の儚さを知り、人生を達観しているようにも思えます。

そういう意味では、この歌は夢を追うことのない悲しさが、滲み出ていると思います。

思いわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり

いろいろと辛いことや思い悩むことがあるこの身でも、死んだりはしないで、私はこうやって生きています。でも、生きてはいるけれども、この辛さに耐えきれない私は、今日も涙を流して心を痛め続けているのです。ああ、辛い。

【解説/連想ゲーム】この歌は恋歌のひとつに数えられています。でも、この語句からだけでは恋歌だとは直ぐには思えませんね。判断は「思いわび」の内容にかかっています。

「思いわび」ているけど「命」はある・・そういう状況での「思いわび」です。さらに「憂きにたえない」「思いわび」でもあるのです。いったい、どのような状況の「思いわび」なのでしょうか。

「思いわび」の内容・・・もしかしたら、大事な人の死であるかもしれません。もしかしたら、何かの事件があって全財産を失ってしまったのかもしれません。

【古典の解釈】古典というものは、資料を読みながら解釈すると、想像力をへこませてしまう場合があります。さらに、言葉が持つ力を評価することができなくなってしまう場合があります。なので、できるだけ資料は読まずに、使う資料は古語辞典だけという方法で読むことをお勧めいたします。すると、そこに新しい発見が見えてきます。

学校の試験では不正解になってしまいますが、学校のテストで〇×をつけているよりも、想像力を膨らませることの方が楽しいと思います。同じ古典に触れるのであれば、学校のテストで正解とか不正解とかにとらわれず、ただ読んで味わうことに楽しさを見出したいものです。

【さても命は あるものを】いろいろ資料をあたってみると、この「思いわび」は「恋煩い」「思い通りにならない恋」のようです。「恋に悩んでいるけれど、死んではいない」というような意味です。なんとも、呑気であり、命という言葉が軽い気持ちで使われているように思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

※そして、恋歌ではなくて「命」を使っている、もう一首。

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

あなた様は約束をしてくださいました。その約束は「させもが露」のように尊いもので、私はずっとその約束を頼りにしてきました。でも、その約束は果たされないまま、今年の秋も去っていくようです。ああ、悲しい・・・。

【解説/連想ゲーム】この歌は、「契りおきし(中略)あはれ今年の 秋もいぬなり」の部分から「約束したのになぁ・・、今年もまた秋が過ぎていってしまうよ・・」という、おそらくこの歌の主文が読み取れます。

でも、分からないのは「させもが露を 命にて」の部分です。これは連想のしようがありませんでした。なので古語辞典を元にして、いろいろな資料を当たるしかありませんでした。そして分かったこの歌の状況は次の通りです。

【この歌の背景】

・詠み人である藤原基俊(1060-1142年)の子は興福寺の僧侶でありました。

・興福寺では毎年秋に「維摩会(ゆいまえ)」という法要が執り行われていました。

・「維摩会」では維摩経を説く講師の役があり、講師になると出世の道が約束されていました。

・藤原基俊は、自分の子である僧侶を「維摩会」の講師にして欲しいと主催者に願いでていました。

・主催者は一旦は約束したものの、何度もその約束を反故にしてしまいました。

・藤原基俊は、悲嘆にくれてしまいました。

小倉百人一首に選ばれた短歌というのは、語句からだけで意味を連想して状況を推察できる歌もあれば、このように特別な状況を詠んだ歌もあるのですね。

【させもが露】藤原基俊は、「維摩会」の主催者から「なほ頼め しめしが原の させも草 我が世の中に あらむ限りは」という返事をもらったことがあるそうです。この歌から引用して藤原基俊は「させもが露」と歌ったそうです。「露」は自然現象の中の美しさでありますが、その姿の短さから”無常”や”悲哀”を象徴するものとして、短歌の中にもいろいろと詠まれています。つまり、頼りにしていいのだぞ、と言ってくれたのに嘘ばっかり・・辛い、悲しいという思いを、歌に込めたようです。

【命にて】古語の「命」には、二つの意味があります。ひとつは現代と同様の生命という意味。もうひとつは「頼みとするもの/よりどころ」という意味です。この短歌では、後者の意味で使われています。

以上が、小倉百人一首に詠まれている「命」を詠んだ五首です。命は重たいものですが、このように詩歌の中に詠まれると、その歌の思惑によって様々な「命」として捉えられて「命」の重さは多様な側面を見せ、「命」の表情は実に様々です。

そこに、今を生きる私達への”生きるヒント”があるのかもしれません。

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かとうあきら

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百人一首/意訳で楽しむ/恋、人生・世の中、季節・花、名月など

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