百人一首/「秋」を詠んだ五七五七七、和歌十二首


鎌倉時代の初め頃、藤原定家によって編纂された「小倉百人一首」

そこには、秋を詠んだ歌が16首以上も選ばれています。

「秋」という語句そのものを詠みこんだものが12首、「紅葉」「もみじ」を詠みこんだ歌が4首、・・その他です。(12首の中には「秋」と「紅葉」の両方を詠みこんだ一首、第5番歌を含みます)

この記事では、「秋」という語句そのものを詠みこんだ12首を取り上げて、それらの歌に表現されている「秋の趣」を味わってみたいと思います。

何故なら、秋を形容するものは数多くあるのに、なぜわざわざ「秋」という語句そのものを詠み込もうとしたのか? ・・秋を表現することは、そんなに難しいことなのか? という疑問を、私は持ったからです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

百人一首は、天智天皇飛鳥時代)から鎌倉時代初期までの歌(五、七、五、七、七音の合計31文字からなる日本の定型詩)の中から集められていますが、当時の人々は、秋をどのように感じて、どのように表現していたのでしょうか。それらは、もしかしたら、現代の私達にも脈々と繋がっている「秋という心象風景の原点」なのかもしれません

それでは、百人一首の中から「秋」を使った12首を詠んでみたいと思います。そして、歌に詠みこまれた、秋の風景、秋に感じるもの、秋の情緒・・・などを見ていきましょう。

1. 秋を詠んでいる歌(12首)

※ 百人一首の各々の意味については数多くの資料が世の中にあります。なので、ここでは直訳や修辞などの解説は除き、【意訳】(Free translation)を試みて広く自由な解釈をしてみました。ご了解くださいませ。

※ 「秋は感じるもの」という視座から、どのような言葉が五感を刺激するのかという視点で、秋という情景の表現方法を考察しています。

第1番歌

秋の田の~

秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手に 露はぬれつつ

【意訳】間近に迫った秋の稲刈り。農作業をするための仮小屋で、稲の見張りをしていたのだけれども、小屋は粗末な作りだったので、夜露が落ちてきて着物は濡れてしまいました。農民のみなさん、ご苦労様です。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】百人一首には、この歌よりも、もっともっと情感に溢れた感動的な歌が沢山あるのに、何故このような、ただ情景を描写しただけの何の変哲もない歌を第1番歌にもってきたのだろう・・という素朴な疑問を私は抱きます。その答え・・実はこの歌が、天智天皇(626‐671年)であることから推測できます。

天皇が自ら仮小屋で稲の見張りをするとは思えません。でも、見張りをしたことにして、その時の苦労を歌にすることによって、農民への労いを伝えたいつもりだったのかもしれないと、私は想像しました。露が落ちるのは気温が下がった頃・・夜明け前・・なのですから、読み手としては、天皇が仮小屋に夜通し居たということも情景として想像できます。夜通し~夜露に濡れた・・・大変でしたね・・と、その苦労を理解するわけです。

そして、これを第1番歌に選んだ藤原定家の思惑は、鎌倉に幕府は開かれたけれども京都に居る天皇のことは決して忘れていませんよ・・というメッセージなのかもしれません。つまり、百人一首という歌集の評価を期待する藤原定家の思惑の結果なのです。これは、あくまで、私の推測です。

<秋の情景を想像させるもの>

「秋の田の」<視覚>:この冒頭だけで、秋は十分に伝わってきますね。垂れた稲穂でいっぱいの田んぼ、一面の黄金色の景色が想像されます。

「露はぬれつつ」<視覚><聴覚><触覚>:晩秋を感じさせます。「露→濡れる→冷たい」から、さらに、”朝方の冷っとした空気”も想像できれば、視覚、聴覚、触覚を生かした想像へと発展させることができます。

第5番歌

~秋は悲しき

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

【意訳】山の奥深くに、降り積もった紅葉の葉を踏み分けながら、雌鹿を探して鳴く牡鹿がいた。紅葉が落ち切ってしまえば秋は終わり冬が来る。牡鹿は、秋が終わる前に相手を見つけなければと、必死に鳴いているのだろう。その鳴き声に、待った無しの秋の悲しさを感じたよ。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】動物が鳴く時は、求愛の時です。それを思い出せば、この歌の鹿は牡鹿だと想像できます。そして、牡鹿の鳴く声(求愛)の声を聞いたら、何故に、秋は悲しいと感じたのでしょうか。そこが、鑑賞のポイントだと思います。

こんなふうに想像してみることもできます。

牡鹿は孤独、自分も孤独・・という共感。だから悲しい。②秋が過ぎたら冬になり、相手を探すことができなくなるので(発情期が過ぎてしまう)、紅葉を踏み分けるほども落葉した秋も終わりの頃になっても、なお相手がいないことへの悲しさ。・・・つまり、望みが叶っていないことへの焦りや辛さが悲しさを生んでいます。

<秋の情景を想像させるもの>

「紅葉踏み分け」<視覚><聴覚>踏み分けるほどに地面に紅葉が落ちている、晩秋を感じさせます。落葉した落ち葉を踏み分けるときの音が聞こえてきたら、さらに想像ははっきりしますね。

「秋は悲しき」<視覚><聴覚>:「秋は悲しいもの」という感慨が人々の心の中にあったことがわかります。そして、”落葉した紅葉があって”、”そこを踏み分ける鹿がいて”、”その鹿が鳴いている”ことが、「秋は悲しいもの」を裏付ける要素として認識できます。

第22番歌

~秋の草木の~

吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ

【意訳】山から強く吹き下ろしてくる風は、冬を前にして一生懸命に咲き、そして茂っている草木を、なぎ倒して台無しにしてしまいますね。ああ・・わかりましたよ。だから、山から吹き下ろしてくる風は、山の風と書いて「嵐」と云うのですね。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】秋には、草木を萎れさせてしまう山風が吹くことがわかります。「嵐といふらむ」から、その風は秋台風の突風なのかもしれません。そしてこの歌は「山」+「風」=「嵐」というように、秋の情景を味わうというよりも、〔言葉の遊び心〕を詠んでいます。

<秋の情景を想像させるもの>

「秋の草木のしをるれば」:<視覚><聴覚><触覚>:秋の草木があって(視覚)、風の吹く音があって(聴覚)、そして肌に感じる風の強さと冷たさがあります(触覚)

第23番歌

秋にはあらねど

月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど

【意訳】また秋が来た。秋の夜空に浮かぶ月を見ていると、いろいろなことが悲しくなってくる。ただ、秋は私ひとりだけに来たものではないんだよね、みんなにも同じように秋は来ているんだ。きっと、みんなも私と同じように、もの悲しく感じているのだろうなぁ・・・この月を見て。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】月を見て、何故物悲しくなったのでしょうか。万物が人間に与える感慨は、さまざまな表象となってアウトプットされるわけですが「月を見る」→「もの悲しい」という「インプット」→「アウトプット」の構図は、日本人のDNAに埋め込まれたものなのでしょうか。この感慨は日本人だけのものなのでしょうか。

この歌からは「ああ中世の人は月を見て物悲しくなっていたんだなぁ・・」ということが分かると同時に、何故そう感じたのかを想像することによって、歌の解釈や味わい方に広がりができると思います。

<秋の情景を想像させるもの>:全部が秋の塊みたいな歌だと私は感じています。

「月見れば」:<視覚><聴覚>:下の句に「秋」とあるので、この月は「秋の月」だとわかります。これが、もしも「秋」ではなく、他の季節だったら・・たとえば「冬にはあらねど」と詠んだら、この歌の感慨はどのように変化するのか? そういう遊びをすると、この歌の趣が尚一層強く感じられます。

第37番歌

~秋の野は~

白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

【意訳】秋の野に広がっている草の葉は、どの葉にも露が降りて、キラキラと輝く玉で飾られているような美しい様相を呈しています。そこへ吹いてくる秋の風。風は葉を飾っている白露を一斉に躍らせています。その様子は、まるで繋がっていた真珠の玉が解けて、パーっと散りばめられたように美しい。秋の野はキラキラ光る真珠のような玉の数々に彩られていました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】白露が秋の野に広がる葉の上で、玉のように揺れているのです。なぜ揺れるのかといえば、そこに風が吹くからです。秋の風ですから少し冷たい風です。目の前に広がる秋の野に白い玉が踊るようにしながらキラキラ輝いている様子は、そこに絵画的な美しさを感じます。

この歌は視覚的要素が明確で、しかもその視覚が動的であることから、とても生き生きした風景を想像させてくれます。

<秋の情景を想像させるもの>

「白露」:<視覚>葉の上で白く光っている露の粒粒。

露は太陽が昇り気温が上がれば、やがて消えてなくなります。そのことから、露は儚い命を代弁している場合もあります。この歌の場合、その露の玉は「散りける」のですから、露の玉を思い通りにならず色々な力に翻弄される人生と見立てれば、そこに深い意味を見出すこともできます。

「秋の野」:<視覚><聴覚><触覚>「秋の野」と耳にしただけで、秋の野の風景、そこに吹く秋の風、ひんやりとした体感・・が思い起こされます。

この歌は、既成の解釈にとらわれずに、自由な解釈を楽しめる歌だと思います。

第47番歌

~秋は来にけり

八重葎 しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり

【意訳】草が生い茂り、草の蔓がいたるところにはびこり、廃墟のように荒れ果ててしまった住まいには、もう誰も訪ねてはこないのです。この住まいが人で賑わったのは、もう過去のことなのです。こんな場所なのに、それでも秋はやって来るのですね。秋が来るのなら、人も来てほしい。ああ、あの頃が懐かしい・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】荒れ果ててしまった住まいには、人はもう訪れません。なのに、秋は訪れたのです。かつて賑わった頃を思いだして、懐かしさに涙している人の姿が目にうかびます。

<秋の情景を想像させるもの>

「秋は来にけり」:<視覚> 八重葎(「葎」むぐら=つる状に伸びる雑草の総称)は、つるが幾重にも重なって生い茂っている様子です。

<聴覚>他の歌も同じですが、「秋」という音を読むことによって秋が認識されることから、そこには聴覚を刺激した効果があります。つまり、もしも「夏は来にけり」としても意味は通ってしまうのです。

だからこそ、きちんと「秋は来にけり」というように「秋」という文字を使わないといけなかった理由があります。つまり「人こそ見えね」です。「秋」と詠うことにより、”秋の寂しさ”だけでなく、”人が来なくなった寂しさ” も表現できているのではないかと思います。

第70番歌

~秋の夕暮れ

寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ

【意訳】ひとり家にいると、寂しい。この寂しさはいったいどこから来るのだろう。私は寂しから逃れるために、家の外へ出てみた。ああ、でも、どこもかしこも同じなんだなぁ。秋の夕暮れというものは、みんな寂しいんだ・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】秋の夕暮れ時の寂しさへ、冒頭から「寂しさに」と詠んでつなげています。秋の夕暮れは何故寂しいのかという問いは、ここでは考えずに、秋の夕暮れ/夕焼け色の赤い西の空/巣へ帰っていく鳥/枯木立ち/頬を撫でる冷たい風・・それらに寂しさを感じることが、この歌の鑑賞の大前提となっています。

家族揃っての晩御飯を思い出せば、寂しくはないと思うので、この歌では作者は独り身の寂しさも感じているように推察されます。

<秋の情景を想像させるもの>

「寂しさに」:<聴覚>「寂しさ」という音が表象に与えるものを想像してみれば、この冒頭の効果は聴覚に効果があると思われます。

「秋の夕暮れ」:<視覚><視覚><触覚>「秋の夕暮れ」から想像される視覚的情報が、この体言止めによって確定させられていることが、この歌全体を「寂しく」している要因だと思います。冷たい風、そこにもう夏はいない・・ことまで想像できれば、触覚も刺激するでしょう。

第71番歌

~秋風ぞ吹く

夕されば 門田の稲葉 おとづれて あしのまろやに 秋風ぞ吹く

【意訳】夕方になりました。門の前に広がる田んぼの稲の葉が、風に揺れてざわざわと音を立てています。稲の葉を揺らしているのは秋の風。その秋の風は、農作業のために建てた葦で屋根をふいた小屋にも、すーっと吹きこんできています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】門前に広がる稲穂を垂れた田んぼ。稲穂が波打つように揺れてざわざわする音。葦でふいた粗末な小屋。そしてそこに吹く秋の風。刈り入れ前の田んぼの様子を、秋の風と共に描写しています。それ以外には何もない歌です。

<秋の情景を想像させるもの>

「門田の稲葉」:<視覚><聴覚>「おとづれて」が無ければ、ただの”門の前の田んぼ”ですが、「おとづれて」が続くことによって、稲穂が秋の風に揺れてざわざわしている音が聞こえてきます。

「秋風ぞ吹く」:<視覚><聴覚><触感>「秋風」と詠むことで、目で文字を追う視覚からも、内耳から入るので聴覚からも、秋がインプットされます。そして、アウトプットは秋風が吹いている様子です。稲穂をザワザワと揺らす音、その秋風が小屋の中にも吹き込んでくるのです。そこにはきっと秋風を感じる体感、侘しさとか寂しさとか・・も、あったのでしょう。

第75番歌

~秋もいぬめり

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

【意訳】あなた様は約束してくれたのに・・。私は、その約束を、路傍の草の葉に降りた露を大事にするようにずっと思ってきたのに・・。あああ、その約束は果たされないまま、この秋も過ぎていくのですね、寂しい・・悲しい・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】この歌は特別な事情の元に詠まれていること、想像しづらい古語が含まれていること、この二つの理由から難しい歌だと感じます。古典の学習を敬遠しがちなのは、このような題材に当たったときなのかもしれません。「させも」は ”よもぎ” のことですが、意訳では道端に生えている草と、私は捉えました。

〔事情〕作者は、自分の親族をお寺の法要時の講師にしてもらえるように、法要の主催者に頼みました。主催者はそのことを約束したのですが、法要のある秋になっても、その約束は果たされませんでした。

和歌には、歌を詠んだ事情などが記されている「詞書(ことばがき)」という文章が前置きとしてあります。この歌の〔事情〕はそこに記されているそうです。

<秋の情景を想像させるもの>

「秋もいぬめり」:<聴覚>「いぬ」は「去る」の意味。「めり」は推量を表しています。「秋は過ぎ去ってしまうようだ」という思い、それを「秋もいぬめり」と詠いました。詠うことによって耳に入りますから、ここは聴覚情報です。

第79番歌

秋風に~

秋風に たなびく雲の 絶間より もれ出づる月の 影のさやけさ

【意訳】夜遅く、皆の寝静まった頃。そよそよと吹く秋の風にたなびいて、ゆっくりと流れていく夜空の雲。その雲の切れ間から月の光が漏れ出ている。その月の光は、なんて澄み切って美しいことだろう。秋の夜空って、美しいなぁ・・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】秋の夜空、流れる雲の切れ間から月がその明るさと共に漏れ出ていました。その月の光の澄み切った美しさを詠っています。この歌で分かりにくいと思うのは「さやけさ」だけだけではないでしょうか。「さやけさ」は「澄んだ美しさ」という意味です。

冒頭の「秋風」を「春風」と詠んだら、どうでしょうか。秋の方が空気が澄んでいるから、ここは秋風の方がしっくりくるよ・・という意見もあると思いますが、「春風」でも意味は通じます。なので、ここでの「秋風」は、秋を詠っていることを示す、とても重要な役割を果たしています。ここに掲載した他の「秋の歌」にも同じようなことが言えると思います。

<秋の情景を想像させるもの>

「秋風に」:<視覚><聴覚><触覚>雲がたなびく風ですから、地上で眺める身にはあまり強い風ではないと思われます。それでも、そよそよと吹いていることを想像すれば、その風は肌に感じるので<触覚>にも訴求していると、私は思っています。

第87番歌

~秋の夕暮れ

村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

【意訳】ザーッと雨が降りました。木々の葉には雨で濡れたしずくが残っています。それらの蒸気が薄っすらと立ち上り、辺りは霧が立ち込めているような幻想的な、秋の夕暮れです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】二句目の「ひぬ」は、「干(ひ)る」=「乾く」です。真木は杉などの常緑樹なのですが、それがわからなくても「真木という木の葉っぱ」だという理解で十分だと思います。

杉の森林に白い靄(もや)がかかっている、そんな日本画的な風景を謡っています。私は日本画家、東山魁夷の風景を思い起こしました。

「秋の夕暮れ」という体言止めは、余韻を残す役割を果たしています。

「秋の夕暮れ」を結句とする歌は、百人一首以外に多くあるようです。新古今和歌集には「秋の夕暮れ」を結句とした歌が三首あり、「三夕の歌(さんせきのうた)」と言われています。これらの歌も参考にしてみてください。

<秋の情景を想像させるもの>

「秋の夕暮れ」:<視覚><聴覚><触覚>この結句に至るまでの絵画的な様子、秋の夕暮れと詠む音。これらに加えて、ひんやりとした秋の空気を肌に感じるように想像できたら、この歌は<触覚>にも秋の情景を想像させてくれると思います。

第94番歌

~山の秋風~

みよし野の 山の秋風 小夜更けて 故郷寒く 衣うつなり

【意訳】吉野の山から秋風が冷たく吹き降りてきます。夜は更けて、吉野の里はさらに寒く、空気は冷え込んで、辺りには衣を打つ砧の音が冷たく響き渡っています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察】みよし野の「み」は接頭語で美しさを強調しています。小夜の「小」は語調を整える接頭語です。

「衣うつなり」が分からない部分だと思います。昔は、着物の布を柔らかくするために、石の上に衣を広げて木槌で叩いていました。そこには、叩く音が聞こえてくるのです。

風の吹く音、衣を叩く音、聴覚に訴求している歌は珍しいです。

<秋の情景を想像させるもの>

「山の秋風」:<視覚><触覚><聴覚>吉野の里という風景、冷たい秋風を感じる肌、風の音、衣をたたく音。視覚、触覚、聴覚ともに秋を感じさせてくれています。

「衣うつなり」:女性の仕事として、晩秋におこなわれていました。中国の漢詩にも登場しています。李白の「子夜呉歌」に「長安一片の月 万戸衣を壔つの声 秋風吹いて尽きず(以下略)」とあります。

2.「秋」を他の語句に置き換えてみたら

秋を想起させる形容や、比喩や隠喩を使う他、「秋」という語句をそのまま使うことに、どのような意味があるのでしょうか。

もしも「秋」という語句を使わないで同じ情景を詠うとしたら、他にどのような語句を使い、どのような表現になりえるのでしょうか。

例:たとえば・・・

月を見て悲しい・・と詠った第23番歌を・・・

かとうあきら

月見れば 千々にものこそ 悲しけれ           わが身ひとつの 冬にはあらねど

:「秋にはあらねど」を「冬にはあらねど」に変えて詠んでみました。

【意訳】冬の寒々とした高い夜空に月が浮かんでいる。「ああ、悲しい。冬の空に浮かぶ月のなんと悲しいことよ。この悲しさは私だけはない、みんなも悲しく思っているのだろうな。

例:たとえば・・・

草木の生い茂る住まいにも秋はやってきた・・と詠った第47番歌を・・・

かとうあきら

八重葎 しげれる宿の さびしきに            人こそ見えね 夏は来にけり

:「秋は来にけり」を「夏は来にけり」と変えて詠んでみました。

【意訳】草木の生い茂る寂しい住まいには、客人は誰も訪れてはくれない。でも、夏だけはちゃんとやってきたんだよね。

【考察】

このようなことに考えを巡らせていくと、「秋」という語句を使わざるおえなかった作者の感慨や意図が分かるような気がします。

例えばこのように、ただ解釈するだけはない歌の世界へと入っていけば、歌の世界というものは、どんどん広がっていきます。

そこに正解はありません。もしも、そこに正解があるとしたら、想像する人がそれぞれに楽しんで想像したことが正解です。

黙読して味わい、声に出して詠んで楽しむ。読む人(又は詠む人)が、それぞれに解釈して楽しむ。それが、詩歌を読む(詠む)楽しさだと思います。

3.参考:「もみじ」「紅葉」を詠んでいる歌(4首)

「秋」を使わずに、この歌の季節は秋だな・・とすぐに分かる歌は、以下の4首です。

このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに (第24番歌)

小倉山 峯のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ (第26番歌)

山がはに 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり (第32番歌)

嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり (第69番歌)

これらの歌の意味や解釈については、既存の資料に優れたものが多々ありますので、そちらを参照いただければと思います。ここでは、勝手ながら「ちょっと差がつく『百人一首講座』を読んで勉強させて頂きたく思います。

4.まとめ/推察【中世の日本人が感じていた「秋」】

各々の歌を列記して、中世の日本人が感じていた「秋」を推察してみましょう。

秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手に 露はぬれつつ

かとうあきら

「春の田」も「夏の田」も「冬の田」も想像できますでしょうか。つまり四季の認識が「秋の田」と詠ませています。ここで「秋」を感じさせるものは「稲穂を垂れた田んぼの様子」と「露」ですね。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

かとうあきら

「紅葉踏み分け」が大事です。これをもしも「初雪踏み均し」なんて詠んだら「冬は悲しき」と詠うのでしょうね。この歌では「紅葉」に「鳴く鹿の声」を加えることによって「秋の悲しさ」を聴覚にも感じさせています。

吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ

かとうあきら

ここにも四季の認識が見えていますね。「春の草木」「夏の草木」「冬の草木」を知っているからこそ、「秋の草木」と詠めるのです。ここでは「秋であること」が大前提になっています。

月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらね

秋に月を眺めることが「悲しけれ」だったようです。春や夏や冬では「悲しけれ」ではないんですね。「秋」=「悲しい」という認識がここに読み取れます。

白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

かとうあきら

この歌も「秋」であることが大前提です。どのような「秋」かというと、「葉についた露が、秋の冷たい風に揺れる様子」です。そこに「秋」を感じているのです。末句の「散りけり」で視覚に動きが加わる感じが、私は好きです。秋の情景に心も揺れるからです。

八重葎 しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり

かとうあきら

この歌も「秋」が大前提です。直前の「白露に~」の歌と異なるのは「秋が来にけり」と詠んでいるだけで、「どのような秋」なのかは詠んでいないことです。わずかに、「さびしき」=「秋」という繋がりがありますが。

仮に「夏は来にけり」とすれば、葉が茂って活動的になるのに廃屋となった住居には誰も訪ねてこない・・夏が来ているのに・・という意味が成り立ちます。・・成り立ってしまう、だから「秋」という語句はことさら必要なのだと思います。

寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ

かとうあきら

「秋の夕暮れ」は「いづこも同じ」なのですね。これが人々の秋への思いです。つまり、春の夕暮れ、夏の夕暮れ、冬の夕暮れは、どこも同じではないという認識が想起されます。

「いづこも同じ」は、どのように同じなのでしょうか・・? 冒頭で「寂しさ」と述べていますが、どのような寂しさなのか、目の前にどのような情景が広がっていたのか・・それを想像すること、想像させることが、この歌の味わです。

夕されば 門田の稲葉 おとづれて あしのまろやに 秋風ぞ吹く

かとうあきら

夕方であり、広がる田んぼの稲穂があり、そこに秋風が吹いています。「秋風ぞ吹く」なのですから、稲穂は実が沢山ついて垂れさがっていて、それらが風に揺れてザワザワと音を奏でているのです。まさしく、秋の景色ですね。秋そのものです。稲穂が風に揺れる音も想像してみましょう。この歌の趣が増していきます。

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

かとうあきら

「今年の秋も去っていく」ことを「あわれ」と詠んでいます。ここに、秋に期待していた何かが、得られなかった、達成できなかった・・・その悔しさや悲しさ、落胆を想起することができます。秋は一年に一度しか来ないんだ・・という刹那的な思いが垣間見えますね。

秋風に たなびく雲の 絶間より もれ出づる月の 影のさやけさ

かとうあきら

「秋風」を「見上げれば」とか「春風に」としたら、この歌の趣はどのように変わるでしょうか。「秋風に」と詠み始めることによって、末句の「さやけさ」の度合いが増しているように思えます。秋の月は他の季節よりも、その輝きの澄んだ様子がより強いという認識が感じられますね。

村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ

かとうあきら

にわか雨が降って、露が霧のように立ち昇る自然現象は春にも見られます。その場合は「霞(かすみ)」と呼びます。この歌は「秋の夕暮れ」を「春の夕暮れ」に置き換えても意味は通じそうですね。

なので作者は「秋」を強調したかったのだと思います。だから「秋の夕暮れ」と、末尾を体言止めにしています。この体言止めによる情景の伝わりかたの効果を味わってまいりましょう。

【参考】秋の夕暮れベスト3

みよし野の 山の秋風 小夜更けて 故郷寒く 衣うつなり

かとうあきら

深夜に吹く冷たい秋の風に乗って衣を打つ音が聞こえてくる・・我が故郷よし野の里・・という情景です。秋風を深夜、寒さ、衣をうつ音で装飾することで「山の秋風」の厳しさ冷たさ寂しさが際立っていますね。

*

かとうあきら

ご一読、お願いいたします。

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読んでくださり、ありがとうございます。