【プロローグ】
春三月・・。
日本では国民の祝日である”春分の日”を過ぎる頃から、各地で桜の開花に関するニュースが飛び交い始めます。
日本気象協会は”桜の開花予想(2025年)”を発表。テレビでは連日アナウンサーが「今日は〇〇で開花しました!春が来ましたよ、みなさん!」と声を上げ、桜開花のニュースが連日続きます。
そして、桜の木の下には何処からともなく人が集まり、皆で酒を飲みご馳走を食べ、桜が散るまで宴会が続いていく、日本の春。
桜の木は秋になると・・葉は全て落ちて枝だけ。枝だけ見ると…枯れてしまったような寂しい姿です。でも、そこに葉が芽吹いてから花が咲くのではなく、突如として花が咲いて木全体を覆うのです。枯れてしまったような枝に花がいっぱい! これはもう驚くしかありません。しかもその姿は一面穏やかな薄桃色。美しく綺麗な薄桃色が心を和ませてくれます。桜の開花が喜びと称賛を持って人々の愛でる対象になるのも当然のことなのかもしれません。
そのように、春の訪れとともに開花する桜は皆の楽しみであり、また嬉しいことと位置付けられています。お花見は一年の中でもビッグなエベントなのです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
さて、そのように素晴らしい喜びと楽しみをもたらしてくれる桜。
昔も今と同じように、楽しみの対象だったのでしょうか・・。
昔の日本人は、桜の花に対して、どのような気持ちを抱いていたのでしょうか・・。
その気持ちを、全てとはいわないまでも、少しだけでも紐解いてみたいと思い、題材として百人一首を取り上げました。百人一首は学校の学習教材としても使われており、分かりやすく親しみやすい素材だからです。
百人一首には桜の花を詠んだ歌が六首あります。
それら六首の詠まれた時代を辿ると、凡そ10世紀~13世紀頃に詠まれていることがわかります。

この頁では、それら六首を解読することにより、10世紀~13世紀頃の日本人の桜に対する意識を、垣間見てみたいと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
目 次
【桜を詠んだ歌/六首】
百人一首より
<9番歌>
花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身よにふる ながめせしまに
小野小町/古今和歌集/成立は905年
<33番歌>
久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
紀友則/古今和歌集/同905年
<61番歌>
いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな
伊勢大輔/詞花和歌集/同1150年頃
<66番歌>
もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし
大僧正行尊/金葉和歌集/同1124年
<73番歌>
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ
大江匡房/後拾遺和歌集/同1086年
<96番歌>
花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
藤原公経/新勅撰和歌集/同1235年
〔注釈/詞書から分かること〕
※「詞書(ことばがき)」というのは、その和歌を詠んだ時の事情を短い文章で説明したものです。
ずっと昔のこと・・和歌で「花」と詠んだ場合、その「花」は「梅の花」を指していました。でも、古今和歌集(成立は905年)辺りから、「花」と云えば「桜」を意味するようになったとされています。
・・というようなことが多くの資料に散見されます。

実は、百人一首には「花」を詠んだ和歌が、上記以外にもうひとつ存在していて(35番歌)、そこで詠まれている「花」は桜ではありません。その「花」は「梅」なのです。・・以下に説明いたします。
35番歌
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の香に にほひける
紀貫之/古今和歌集(905年)
〔意訳/Free translation〕
あなたは心変わりしてしまったのでしょうか。私はあなたの心の中のことまでは、さあどうでしょうか…分かりません。でも、今こうして訪れた昔栄えた奈良の地には、梅の花が色艶やかに美しく、香り豊かに咲いています。昔も美しく咲いていた梅の花のことを思うと、嗚呼・・梅の花は変わらないのに、あなたの心は変わってしまったのですね・・悲しい。
〔語句の意味〕
「ふるさと」:古語では、現代語の「故郷」の他に、”古くなって荒れた土地/旧都/古跡”という意味があることから、ここでの「ふるさと」は京都の前の都である「奈良」と解釈するのが一般的です。
「にほふ」:「美しさや、よいにおいが周囲からそれとわかるほどに現れる」という嗅覚に訴える意味の他に「色が美しく染まる」「美しく照り映える」「美しさが満ちている」という視覚的な意味もあります。なので「香ににほひける」は、”香り豊かに、色艶やかに美しく咲いている”という解釈になります。
さて、ここで「詞書」を説明いたします。
「梅の花を折りてよめる」
この和歌の「花」は、作者が故郷で愛でていた「花」であることが想像できます。
ただ、「花」と詠んでも世の中にはいろいろな「花」があるので、読み手には「ふるさとで、何の花を愛でていたのだろう?」と疑問がわきます。もしも疑問が解決されなければ、欲求不満が残ります。そして、欲求不満が残れば、歌は評価されなくなってしまうでしょう。
そこで作者は、この和歌で詠んだ「花」を読み手に伝え、かつ作者が感受した視覚的イメージと嗅覚的イメージをきちんと読み手に伝えるために、この和歌の詞書(作品の事情を示した前書き)に「梅の花を折りてよめる」と記したのです。
作者が残した詞書によって、この「花」は「梅の花」であることが判っているのです。
*

桜の花を詠んでいるとした六首のうち、9番歌、33番歌、96番歌の三首は、単に「花」と詠んでいます。それらの詞書には何が書いてあるのでしょうか?
9番歌:桜の花であると断定できる内容の詞書はありません。
33番歌の詞書:「桜の花のちるをよめる」
96番歌の詞書:「落花をよみ侍りける」
9番歌には「花」が桜であるという詞書は無く、33番歌の詞書には「桜の花」とあり、96番歌の詞書には「落花」と書かれています。
9番歌の「花」・・実は、
人口に膾炙している、小野小町の有名な「花の色はうつりにけりないたずらに~」という歌。ここに詠まれた「花」が桜であるという断定的な証拠は、実は無いのです。でも、歌の内容から、この「花」は「桜」であると推定断定されていて、その解釈が延々と続いているのです。
96番歌について云えば、詞書に「落花」とあり、歌の中では「花」が「あらしの庭の雪」を誘っているのですから、いわゆる強い風に舞い散る「桜吹雪」を詠んでいることに間違いはないでしょう。

それでは、古語における「花」の意味について、少しだけでも知っておきましょう。出典は、私の手元にある古語辞典〔角川 必携古語辞典 全訳版:平成9年初版〕によります。
【古語における「花」その意味】
古語辞典より…
「花」には、現代語でも古語でも、単に植物の花という意味の他にいろいろな意味があります。
そこで、古語における「花」の意味を古語辞典で調べてみました。
私が愛用している古語辞典には「桜は花の中の代表であることから、花といえば「桜」である」という主旨の解説がありました。これはとても興味深い内容です。でも、そのことは横に置いておいておいて、以下を参照くださいませ。
古語で「花」と云えば・・以下の意味のどれかです。
(1) ①植物の花
②桜の花
③梅の花
(2)ツユクサから採った絵具。また、その色。薄い藍色。
(3)①最も美しく栄えている状態。はなやかさ。栄華。
②実のない美しさ。うわべだけの美しさ。移ろいやすいこと。
③能楽や歌舞伎で、芸の最後美。観客を引き付ける芸の最高の魅力。
(4)芸人などに賞として与える金銭。祝儀。

それでは、百人一首から、桜を詠んだ和歌を一首ずつ解読していきましょう。
意訳をおこないましたので、意訳による解釈の楽しさも味わい下さいませ。詩歌鑑賞の醍醐味は意訳にある・・これは私の思いです。
【桜を詠んだ和歌/解釈】
百人一首より
(以下は、先に解読した35番歌についても同じです)
※和歌の現代語訳については、数多くの書籍が出版されています。インターネットでも簡単に探れます。
なので、ここでは意訳/Free translation をおこないました。
詩歌鑑賞の面白さや楽しさ、そして醍醐味は意訳にあると、私は思っています。もちろん、意訳をするためにはきちんとした直訳は必要です。意訳では、直訳をベースにして、言外にあるであろう作者の思いを言葉にしていくのです。
※語句の意味については「角川 必携古語辞典 全訳版/平成9年初版」を参照、又は引用しました。

9番歌
花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身よにふる ながめせしまに
<意訳/Free translation>
あんなに綺麗に咲いていた桜の花だったのに・・。あの綺麗な色が、長雨にもあって色褪せてしまいましたね。ああ、虚しい・・。私も長く生きているうちに、今はこんな姿・・ただぼんやりと物思いにふけって日々の暮らしを眺めているうちにね。人生っていうのは、あっという間。虚しいものなんですね。
<語句の意味>
「いたずらに」:「いたずら(徒ら)」形容動詞の連用形/主に「むなしい」という意味。
※この和歌には”掛詞”という和歌の修辞法が二か所使われています。掛詞は、ひとつの音に二つ以上の意味を持たせて、歌の想像世界を広める役割を果たしています。
「ふる」:雨が「ふる(降る)」、年をとる意味の「ふる(古る)」
「ながめ」:「長雨(ながめ」/文字の通り長く降り続く雨のことです。「眺め(ながめ)」/ぼんやりと眺めたり、物思いに沈むことを意味しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
33番歌
久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
<意訳/Free translation>
今日は、陽の光が穏やかに射しこんで、とてものどかで、のんびりとした春の日ですよ。なのに、桜の花はどうしてのんびりとしないで、忙しくはらはらと散っていくのでしょうね。
こうやって、穏やかにのどかな時を過ごしているときでさえ、万物は生まれ来て、そして死んでいき、時は流れていく。桜の華やかさは邯鄲の夢、生者必滅なんですよねぇ・・。
(※邯鄲の夢、生者必滅/前者は中国の故事由来、後者は仏教由来。両方とも“儚さ”を意味する言葉です)

前半は凡そ直訳に近いと思います。後半は、言外には作者のこのような感慨があるのかもしれないなぁ…という私の想像です。意訳する楽しさ、意訳の奥深さは、例えばこのような味わい方(訳し方)にあります。
<語句の意味>
※この和歌には、”枕詞”と呼ばれる修辞法が使われています。枕詞は特定の言葉を修飾したり、全体の音調を整えたりという役割をもっています。言葉自体に意味は無いので訳すことはありません。
「久方の」:「ひさかたの」/天、空、日、月、雨、雲、光、夜…などに掛かる枕詞です。
「のどけき」:「のどけし(長閑けし)」の連体形。意味は「静かだ」「のどかだ」
「しづこころ」:「静心」で古語辞典に載っています。静かで落ち着いた心。
「らむ」:推量の助動詞。「らむ」には単なる「~だろう」という推量の他に、「どうして〇〇なんだろう?」という意味もあります。この歌では後者の意味で使われています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
61番歌
いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな
<背景/事情>
※ある春の日、奈良に咲いていた桜が宮中に献上されました。その時、天皇に仕えていた一人の女房は一首詠むように命じらたのです。そして、その女房は「いにしへの~」と詠みました。その女房に求められたのは、その八重桜を称えながら天皇に良い印象を与えることと、歌人としての力量を発揮して賞賛される歌を詠むことでした。
<意訳/Free translation>
この八重桜は、遠い昔に栄えていた奈良の都に咲いていた桜ではありませんか!その桜が今日この宮中に美しく咲き誇っているだなんて、この宮中も奈良の都と同じくらいに素晴らしい都でございます。
<語句の意味>
「九重」:「九重(ここのへ)」/①幾重にも重なること ②皇居、内裏、宮中(昔、中国の王城は門を九重に造ったことによります)
「奈良の都」:奈良時代は645年~。都は現在の奈良県奈良市辺りに造られた平城京です。奈良時代の次が794年に始まる平安時代。その都は現在の京都に造られた平安京でした。この歌は平安時代中期、一条天皇(在位は986年~1011年)頃の作品です。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
66番歌
もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし
※この和歌には「あはれ」が詠まれています。「あはれ」は「をかし」と共に、平安時代文学の代表的な美的理念です。なので、この和歌の解釈は、この「あはれ」をどのように解釈するかにかかっていると思います。
鍵は、作者が山の中に入ったその理由にあるかと思います。その理由をあれこれと想像することによって、意訳の幅は広がっていくと思います。それを言葉にするのか言外に含ませるのか…私は言外に含ませてみました。
<意訳/Free translation>
桜よ。この人里離れた山の中に、ひっそりと、でも一生懸命に美しく、咲くことに誇りを持って咲いている桜よ。私がなぜこのような山の中にいるのか、嗚呼、わかってくれるだろうか。いいや、おまえなら、私のこの切ない心とひとつになって、わかってくれるよな。おまえより他に、私の切ない心をわかってくれる者はいないんだよ。
<語句の意味>
「もろともに」:「諸共に」/そろって、一緒に。
「あはれ」
①しみじみとした情緒がある。趣深い。
②感にたえない。感慨深い。感無量だ。
③いとしい。恋しい。
④心がこもっている。情が深い。関心だ。
⑤悲しい。寂しい。つらい。
⑥気の毒だ。かわいそうだ。
⑦すばらしく立派だ。優れている。
※以上は形容動詞としての意味です。名詞としても同じような意味があります。
このように「あはれ」には多くの意味があり、なんとなく分かるけれども、具体的な言葉ではなかなか上手く説明できない..という性質があるようです。
手元の古語辞典には ”その語源は深く感動したときの声〔「ああ」+「はれ」)であり、心の内面にしみじみと染みこむような感動を表す”と書かれていました。そして、次のようにも解説されていました。
<以下、引用>
「うれしいにつけ、悲しいにつけ、心の底に深くしみじみとわき起こる感動であり、また、それを引き起こすしめやかな情緒をいう。自然・人事にわたり広く用いられ、悲哀をも含めて、優美で調和のとれた趣として重んじられた。」<引用、ここまで>
〔出典:「角川 必携古語辞典 全訳版/平成9年初版」〕

この説明を読むと、「あはれ」とは「情緒」であり、「悲哀」であり、そこには「優美」と「調和」を併せ持っている・・ということでしょうか。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
73番歌
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ
<意訳/Free translation>
高い山の尾根にも桜が咲きましたね。里山辺りの霞よ、山の上の桜が見えなくなってしまうからね、どうか今だけは霞を立てないでくださいね。
<語句の意味>
「高砂」:「たかさご」/高く積み重なった砂、すなわち高い山のこと。
「外山」:「とやま」/人里に近い所にある山。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
96番歌
花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
<意訳/Free translation>
嵐のように吹く風が桜の花を誘い、その沢山の花弁は風に舞い散っていきます。その様子は、まるで雪が舞っているように降ってくるではありませんか。でも、それは雪ではありません。「ふりゆくもの」は・・私なのです。私もいつか、この桜のように舞い散り、そして年老いて命を終えるのです。
<語句の意味>
「花さそふ」:この主語は「あらし」/花を誘っているのは「あらし」つまり春の強い風です。
「雪ならで」:「なら」は断定の助動詞「なる」の未然形。/「で」は接続助詞、打消しの意味。
「ふりゆく」:「ふり」は「降る(花弁が舞い散る)」と「古る(年をとる)」を掛けた掛詞です。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【考察/発見再発見】
復習をすると、各々の歌に見えるテーマは以下のとおりです。
・ 9番歌:桜の花が色褪せていく様子は、容姿が衰えていく自分のようだ。ああ無常。
・33番歌:一見してのどかな時でも桜は散り、時は常に過ぎていく。ああ無常。
・61番歌:桜は主役のように見えるだけ。実は権力を称えている、おべっか・ごますりの歌。
・66番歌:桜の花は脇役、主眼は作者自身の境遇のあはれさ。
・73番歌:ただ桜が咲いている情景を詠んだ歌。
・96番歌:桜の花弁は舞い散り、私は年老いて古くなっていく。ああ無常。

これら六首の中には・・
・桜が開花するのを待ち遠しく思う歌は・・ありません。
・桜の花の美しさを称え、美しさを愛でる歌は・・ありません。
・桜咲く木のしたで飲み食いして花見を楽しむ歌は・・ありません。
これら六首の中には・・
・桜が色褪せたり、散っていく様子を詠った歌が三首もあります。
・そしてそれら三首は、そこに自身の人生が過ぎていくことを重ね、無常感を孕ましています。
百人一首の中には・・
「わあー!桜が咲いた!満開だぁ!」と楽しく明るく、そして騒々しい。桜をそのようにとらえて歌の題材にした歌は無いのです。
*
昔の人は、現代のような桜の花の楽しみ方は、しなかったということなのでしょうか。
(ここで云う昔とは、これら六首の和歌が詠まれた10世紀~13世紀頃のことです)
どなたか、上記の時代以外でもよいので、昔の詩歌で現代と同じような桜の楽しみ方を表現しているものをご存じでしょうか。教えていただけたら幸いでございます。
これら六首の桜を詠んだ歌の特性は、百人一首の選者である藤原定家(1162年~1241年)の好みであるという評価の仕方はあると思います。
ただ、ひとつの傾向として、
「散りゆく桜に感慨を抱く日本人」
「色褪せていく桜に無常を感じる日本人」
という評価は、ここで取り上げた三首の歌に見え隠れしていると言ってもよいのかもしれません。
読んでくださり、ありがとうございます。
以下も参考にして頂けたら幸いでございます。
・百人一首/春/花と春/春を題材にして歌っている五七五七七、和歌十首
