名 月
百人一首には月を詠んだ和歌が11首あります。
一般的には第三十番歌「有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし」を含めて十二首とされています。「有明」は”月が残ったまま夜があけたその時分”であり、この歌に「月」は視覚的に見えるのですが、”有明=暁は憂きもの”ということが主題になっていて「月」に対する感慨を謡ってはいません。
なので、第三十番歌を除き、「月」という語句を使い「月」を主題にして「月」に感慨を抱いている歌11首を解説しました。
百首のうちに11首も「月」が登場するということは、当時の日本人が「月」にとても関心があったという証拠でしょうか・・・? それとも百人一首の選者である藤原定家が「月」を詠んだ和歌が好きだったからでしょうか。
それを証明するためには、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの主だった歌集に詠まれている「月」の和歌の構成比を調べる必要があります。ただ、それは莫大な作業量になり今の私には現実的ではありません。なので、別の視点から推測をしてみたいと思います。(※月の画像はイメージです。出典:photoAC)
百人一首が鎌倉時代の初めの頃に生まれ、今日まで読み継がれ、学校の教科書にも教材で扱われている事実からは、そこに詠まれている和歌が和歌として価値あるものだから・・という解釈が導かれます。
ならば、そこに詠まれている「月」が多いことは、多くの人達に支持されてきたという理由の中に内包されるのであって、「月」は関心の対象ではなかったと、否定することはできないのではないでしょうか。
ということは、つまり、
「日本人は、今も昔も、月が日常における関心の対象であった」と想定できます。
なので、月の和歌を集めて詠めば、日本人が「月」とどのように関わってきたのかが分かり、その心の有り様にも近づけるのではないかと思いました。
一首一首を、
【意訳/Free translation】という鑑賞も
また楽しいものであるという観点から、解説しています。
今日は、そのまとめです。
以下に、百人一首に「月」が詠まれている和歌11首を並べてみます。
(※月の画像はイメージです。出典:photoAC)
名 月
第7番歌 「三笠の山に いでし月かも」:その月に何を思い何を感じたのでしょうか。
第23番歌 「月みれば~」:月を見るという条件下に、何が起きるのでしょうか。
月みれば 千々にものこそ 悲しけれ 我身ひとつの 秋にはあらねど
第36番歌 「雲のいづこに 月や宿るらん」:擬人化している月があります。
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
第59番歌 「かたぶくまでの 月を見しかな」:なぜ月は傾いてしまったのでしょうか。
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
第79番歌 「もれ出づる月の 影のさやけさ」:もれ出づる月は、何を象徴しているのでしょうか。
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
第86番歌 「月やはものを 思はする」:自分の感情を月のせいにしています。
🌕「夜半の月」が2首あります。
第57番歌 「雲がくれにし 夜半の月かな」:雲に隠れた月に、何を思ったのでしょうか。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
第68番歌 「恋しかるべき 夜半の月かな」:恋しいと思う月は、どんな月なのでしょう。
心にも あらで憂き世に ながらえば 恋しかるべき 夜半の月かな
🌕「有明の月」が3首あります。
第21番歌 「有明の月を 待ち出でつるかな」:なぜ、待つことになったのでしょうか。
今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
第31番歌 「有明の月と 見るまでに」:月は登場しませんが、準主役として扱われてます。
第81番歌 「ただ有明の 月ぞ残れる」:空に残っている月に何を感じたのでしょうか。

以下の頁は、30番歌も含めて、月を素材にしている十二首全部を一同に観賞することができます。是非、ご一読くださいませ。
お読みくださり、ありがとうございます。