世阿弥「老後の初心」/失禁は老後の人生への新たなステージのきっかけ


老後の初心

「老後の初心」という聞きなれない言葉があります。日本の室町時代に、日本の伝統芸能である「能」を大成させた世阿弥は、その書き残した芸術論「花鏡」の中で「老後の初心」という心境について言及しているそうです。

この本の冒頭の数頁に、そのことが書かれています。

「能-650年続いた仕掛けとは」/著者:安田 登/発行:(株)新潮社

これは能楽師である安田登さんの著作です。この本の中で安田登さんは「能」の魅力を語り、室町時代に「能」を大成させた世阿弥の言葉「初心忘るべからず」の「初心」について解説し、初心には「時々の初心」があるのだと記しています。

このことは、私の先の記事『世阿弥「初心忘るべからず」の初心の意味を知る、それは時々の初心』にて紹介しました。

そしてさらに、安田登さんは著作の中で、世阿弥は ”初心には「老後の初心」もあると説いている” と解説しています。

「老後の初心」・・私がこれを知って思ったことは、次のようなことです。

人生の長い時間軸の中で「老後の初心」という理解の仕方を学ぶことは、人生において乗り越えていかなければいけない、壁というか山というか、もしかしたら谷かもしれない、人生の節目でもある老後への意識のあり方をどのように理解していけばいいのかという課題の解決について、いいヒントになるだろう・・ということです。これは、嬉しい発見です。

ただ、「老後の初心」を考察するといっても、自分はまだ老後ではありませんので考えが及ばないことが多々あると思います。なので、介護の仕事で得た私の経験を元に「老後の初心」を考察してみたいと思います。

最初に「初心」について振り返ってみましょう。

1.「能」における「初心」の考え方

「能」における「初心」については、先にも述べましたが、この記事のひとつ前の記事『世阿弥「初心忘るべからず」の初心の意味を知る、それは時々の初心』で考察しましたので、これも合わせて読んでみてください。

「能」における「初心」を要約すると、このようになります。

「初心」とは、単に「何かを始めた時の初々しい気持ち」でありません。「能ー650年続いた仕掛けとは」の著者である安田登さんの言葉を借りれば、「初心」とは 『「意志をもったイノベーション、それこそが「初心」の特徴です』(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」16頁)なのです。

「初心」とは、ただ「最初の思い」ではない、「意志をもったイノベーション」なんですね。

イノベーションとは「それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすこと(出典:wikipedia/イノベーシ)」です。

なので、これを人生に当てはめると、たとえば「それまでの生き方や生活習慣に対して新しい考え方を取り入れることによって人生に新たな価値を生み出し、人生に大きな変化を起こして生きやすくすること」だといえるでしょう。

この理解の仕方は、人生を切り開き自己を奮い立たせるためにとても有効だと、私は思いました。

それでは、「老後の初心」について意志を持つこと、「老後の初心」について意志をもったイノベーションとは・・、いったいどのようなことなのでしょうか。

私が、介護の仕事で得た経験を元に考察していきたいと思います。

2.介護現場での、私の体験

私の介護の仕事場所は住宅型の老人ホームです。そこでは、少しだけ手伝えば日常生活に支障なく自立して生活できる高齢者から、要支援1~5、要介護1~5まで、実に様々な身体事情をかかえた高齢者の方々が生活されています。そして、ご家族の希望があればターミナルケア(=看取り介護)にも対応しています。

私は介護の仕事を始めてまだ3年なのですが、その介護現場の中で「今、ここにこそ、老後の初心が必要だ」と思うようなことを経験したことがありました。その実際を題材にして「老後の初心」を考察してみたいと思います。

【介護の現場にて】

入居者の中に伊藤さん88才(仮名)という女性の方がいらっしゃいました。この方、介護に必要なのは掃除やベッドリネンの交換などの力仕事だけで、その他の日常生活については、その動作はゆっくりゆっくりですが、ほとんど自分でできていらっしゃいました。

ある日のことです。掃除のため訪問すると、伊藤さんはベッドの端に腰かけて俯いていました。そして両手は太腿の間にだらりと下げて、頭は完全に意志を無くしたかのように垂れていました。いわゆる落胆している恰好です。私は、いったいどうしたのかと思って、すぐに駆け寄って伊藤さんの隣に座り、顔をのぞきこみました。すると、伊藤さんは目に涙をいっぱい溜めていました。そして漂ってきたのは糞尿の匂いでした。

伊藤さんは、失禁されたのでした。

それは、伊藤さんが経験する初めての失禁でした。

「間に合わなかったのよ・・・。わたし、もう、いや! 早く主人のところへいきたい・・」

ベッドサイドの小さいサイドテーブルの上には、亡くなられたご主人の遺影がいつも笑顔で伊藤さんを見ていました。

介護士としては、失禁にでくわすことは日常なのですが、ご本人様にとってはとてもショッキングな出来事です。特に、初めての失禁は、なおさらショックな人生の一大事のような出来事なのです。

排泄をコントロールできない自分を知るショック、そして着衣を汚すだけでなくシーツやベッドパッドまでも汚してしまっているショック、そして、それらを洗濯して新しいものに取り換えることができない自分であるというショック、そして嗅覚に響くショックは部屋に充満している異臭・・・。

それらが一気に本人に襲ってきて、ご本人様は、もうどうしていいのか分からない混乱に陥ってしまうようです。

介護スタッフが「大丈夫ですよ」とお伝えしても、ご本人様にとっては大丈夫なことなど、何一つないのです。

(1)「間に合わなかったのよ」

伊藤さんは「間に合わなかったのよ」と口にされました。

実は伊藤さんの場合、時々尿漏れがあったので、以前より給水パッドの使用をお勧めしていました。でも、ご本人様は「大丈夫、大丈夫」と言って、普通の布パンツをはいていました。

ご利用者様の中には、尿漏れの頻度が増していくにつれて自分の身体の変化をよく理解し、念のために給水パッドを利用している人もいらしゃいます。そのことを考えれば、伊藤さんは、ご自身の身体の変化を頭では理解していたけれど、尿漏れするようになった自分の変化を肯定したくはなかったのだと思います。

もしも伊藤さんに「初心」の心得があれば、尿漏れしなかった頃の自分を潔く捨て去って、給水パッドを活用することにより、「給水パッドをしていてよかったわ」となっていたのかもしれません。

(2)「わたし、もう、いや!」

伊藤さんは「もう、いや!」と口にされました。

「もう」はこの場合、同じことをこれ以上繰り返したくはないという気持ちを強調して使われています。

このことから推測すると、伊藤さんは入居した老人ホームでの生活そのものに、半ば嫌気を感じていた可能性があります。だとしたら、介護するスタッフは、伊藤さんのこの老人ホームへの入居が心理的に上手くいっていないという理解をして、失禁だけにとらわれずに、伊藤さんの生活全般について見直す必要が求められます。

もしも伊藤さんに「初心」の心得があれば、老人ホームに入居した時点で、それまでの生活は潔く過去のものとして捨て去り、老人ホームでの生活を楽しもうという気持ちになっていたかもしれません。

仮に失禁したとしても「じゃあ、どうしようか」と冷静に対応できていたかもしれません。少なくとも、「もう、いや!」という言葉は出なかったかもしれません。

(3)「早く、主人のところへいきたい・・・」

伊藤さんは「早く、主人のところへいきたい・・・」と口にされました。

この伊藤さんの事例に関わらず、ご自身の体調が不調になったときに「死にたい」「早くお迎えにきてほしい」などの気持ちを口にされる方は、私の経験ですが老人ホームに1割位いらっしゃいます。

ただ、「初心」を心得てれば、この思いは発想されないのか・・というわけではないと思います。「初心」を心得ていようがいまいが、老後に体調不良が続けば心を体調の不良という苦痛から遠ざけるため自己否定は当然な思いであると、私はそう思っています。

「死にたい」は、むしろ苦痛を遠ざけるための方便に近いのかもしれません。死んでしまえば苦痛から解放されるわけですから、「死にたい」と口にすることが不安を遠ざける、一時避難的な役割を、心理的には果たしているように思えます。

なので、このような言葉を口にされた時、私は次のように対応しています。

まずは「そうですよね、そう思う時もありますよね」と、相手様に共感を示してさしあげることで、まずは相手様の承認欲求を満たします。それから、本当にそれが正しい選択なのか・・という疑問を投げかけてコミュニケーションを繋いでいき、話題をずらしていきながら、心の中の自己否定が薄らぐようにしています。

(4)失禁 → 落胆 → 迷い → 生を取り戻す

失禁からの、①物理的な回復と、②その後の日常的な対策と、③そして精神的な回復、それらに介在してご本人様を身体的にも精神的にも援助するのが介護スタッフの役割です。

①着衣を脱がせ、身体を綺麗にして着替えをおこない、ベッドリネンを交換する、これが物理的な回復です。

②リハビリパンツ、給水パッドという便利な道具の存在を再度明らかにして、そのご利用にご本人様を向かわせること、これがその後の日常的な対策です。

③そして精神的な回復。ここにこそ「老後の初心」という心得が必要だと思います。

たとえば、リハビリパンツと給水パッドの使用は「衰えていく自分」ではなく、「老後の新たなステージ」だと理解できるように持っていくことが大切だと、私は思います。

それでは、先に紹介しました「能-650年続いた仕掛けとは」に書かれている「老後の初心」について紹介しましょう。

3.老後の初心

以下、抜粋です。

『そんなときに必要なのが「初心」です。古い自己イメージをバッサリ裁ち切り、次なるステージに上り、そして新しい身の丈に合った自分に立ち返る・・・世阿弥はこれを「時々の初心」とも呼びました。また、「老後の初心」ということも言っています。どんな年齢になっても自分自身を裁ち切り、新たなステージに上る勇気が必要だと』(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」17頁~18頁)

先の介護の事例でいえば、失禁した自分をなかなか認めることができない自分がいるわけですけれども、そういう自分を認めて、今日からはリハビリパンツと給水パッドの世話になるという自分を潔く受け入れる、これが「老後の初心」なんですね。

安田登さんは、さらにこう書いています。

『年齢とともに身に付いたものも多く、過去の栄光も忘れられない。同時に自分の生にも限りが見えてくる。いまこれを裁ち切ったら、本当にもう一度変容し得るだろうか、とも迷う』(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」17頁~18頁)

『それでも断ち切る。これが「老後の初心」なのです。なぜならば生きている限り、人は変化をし続ける存在だからです。自分を裁ち切るには痛みが伴います。今までの価値観が崩れ、地位や名誉、ひょっとすると友人や財産までも失う、今までの自分がガラガラと崩壊し、魂の危機さえ感じるかもしれない』(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」18頁)

「魂の危機」については、先にご紹介した介護の事例で、私は実際に感じました。その時、伊藤さんは「早く、主人のところへ行きたい・・」と口にした後、涙に暮れて「死にたい」を連発し続けたからです。

そして伊藤さんは食事をとらなくなりました。「食べたくありません」「もう死んだっていいんです」といい続けるばかり、それが数日続きました。そんなときこそ、老人ホームという介護環境と介護スタッフの役割が発揮されるときです。介護スタッフの様々な「寄り添い」によって、伊藤さんは徐々に現在置かれている自分を直視することができるようになり、落ち込んだ状態から回復してくださいました。

でも、世間には、上手く回復できない場合もあるそうです。私は、介護の仕事に就くための資格取得である介護初任者研修を受講したとき、講師の先生から聴いたことがあります。その時の講師の話を思い出してここに記します。

「失禁した自分を認められないまま食事をとらなくなり、衰弱していき、そのまま看取り介護に入って、とうとう他界されてしまった、そういう事例もあります」と講師の先生は話されていました。この事例は、ごくまれで、その講師は20年以上介護士を経験してきて、たった1回だけだそうです。でも、まれな事とはいえ、実際にあるのですから、その事実はしっかりと頭に留めておかなくてはいけません。

安田登さんは、こうも書いています。

『そんな「危機」こそまさに「チャンス」です。危機を避けていては成長はありません。自ら進んで危機を行け入れてこそ成長がある、そして、その選択を突き付けるのが「初心」なのです』(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」18頁)

でも、ここの部分・・・正直なところ、老後になって「成長」という言葉は相応しくない、介護現場にいる私としては受け入れがたい言葉だと思っています。

なので、ここは水平思考をして、もしも自分が失禁をしてしまったら・・・自分の人生が「新しいステージ」に移るんだという理解をして、いつも前向きに生きていきたいと、今思っています。

※挿入した各々の写真はイメージです