方丈記/無常観と無常感/人生の無常をどのように生きたらよいのか


方丈記を読む

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の冒頭で有名な方丈記。

13世紀の初め頃に鴨長明によって書かれた、「無常」をテーマにした随筆です。

清少納言が記した「枕草紙」(10~11世紀初頃)、兼好法師が記した「徒然草」(14世紀前半頃)と併せて、古典日本三大随筆のひとつに数えられています。

また、後の文芸作品に影響を与えた優秀な和漢混淆文(漢字と仮名を混ぜた文章)としても有名です。

この度は、方丈記を読みながら「無常」を知り、人生の「無常」をどのように生きていったらよいのか、そのヒントを方丈記から頂きたいと思います。

今回は、その第1回目です。

ここでは、

・無常の真理を、自然界の営みを例にして数行にまとめた、有名な冒頭の「第一段」

・無常の具体例を、人間界の営みを例えにして述べた「第二段」

・そして、無常の源流を求めながらも「わからない」と述べ、住まいと人間の儚さは、朝顔や朝顔に宿った露と同じだと説いている「第三段」、

以上、方丈記冒頭の三つの段を取り上げます。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

※〔語句の意味〕「角川 必携古語辞典 全訳版(平成 9年11月初版)」からの引用です。

第一段(原文)

〔語句の意味/読み方〕

「しかも」:なお、その上に。

「うたかた」(泡沫):水のあわ。消えやすいので、はかないもののたとえに用いることが多い。

「例なし」:読み方「たとえなし」

「人と栖と」:読み方「ひととすみかと」(栖:鳥の巣、生き物の住む所⇒人々の住い)

第一段(現代語訳)

〔※ 言外に想定される意味も含めて記述しております〕

(画像はイメージです/出典:photoAC)

〔解説〕

無常ということ

自分自身を振り返ってみましょう。

:昨日の自分と、今日の自分・・変わりません。

:でも、昨年の自分と、今年の自分は・・少し変化がありました。

:さらに、10年前の自分と、今の自分とでは・・大きな変化がありました。

10年前の自分に、10年後の今の自分を想像できたでしょうか? 

たとえ10年前に10年後の自分を思い描くことはできても、それは願望や想像であり、いい当てることはできません。

人は常に欲望を持ち、夢や目標を描きながら生きているので、変化は当然にように生まれます。そして、予期せぬ変化も起こります。

なぜなら、一定の速さで流れる時間そのものは「不変」ですが、時間の流れは自然にも人間にも「変化」をもたらすという真理があるからです。

この変化が「常は」は「無い」、つまり無常ということです。

そして、人生の無常には、もうひとつ大事なことがあります。

それは、無常は「生きている間」は、「生きている」という「不変」も併せ持っているということです。「不変」が有るからこそ「変化」は強調されるのです。

つまり、

この二つが合わさったものが「無常」です。

「不変」は時間軸、「変化」はその時々の現象です。まるで、数学の積分と微分のようですね。

私達は「変化している」ことだけを「無常」と捉えがちですが、「変化」には視覚的な訴求があり、私達が体感しやすいからに他なりません。人生の「無常」は「不変」も併せ持っているのです。

そこに「無常」があります。

方丈記の冒頭、

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」は、このように、河の流れという自然界の不変の営みの中に「連続する変化」を見つけて、その「連続する変化」は「人と住処」にも同じことが言えると述べています。

「無常」という言葉は使っていませんが、「久しくとどまりたる例なし」の中に「はかなさ(儚さ)」は読み取れます。つまり、鴨長明は「久しくとどまらない儚さの中を、いったいどのように生きていけばいいのだろうか…」という問いを、ここで投げかかているように思えます。そこに「無常」というテーマが見いだされるのです。

そして、次の第二段では、

京都の町を「美しい玉を敷き並べたような都」と形容して、それらの住処と、そこに住む人の儚さを述べて、それらも水の泡と同じだ(つまり「無常だ」)と書き連ねていきます。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

第二段(原文)

〔語句の意味/読み方〕

「玉敷」:(たましき)玉を敷き並べたように、美しく立派なこと。また、その所のたとえ。

第二段(現代語訳)

〔※ 言外に想定される意味も含めて記述しております〕

(画像はイメージです/出典:photoAC)

〔解説〕

朝に死に、夕べに生まるる…

第一段では、河の水の流れに「無常」を見出しました。

第二段では、その「無常」を具体的に説明するために、京都の町に建ち並ぶ家々と、そこに住む人々を例に挙げています。

昔も今も、家々は同じように建ち並び、人々は同じようにそこに住んでいます。でも、よく見れば、いつの間にか、その中身は変わっている、つまり変化しているというわけです。

第一段の自然を題材にした話から、第二段ですぐに人間の営みの話を展開したのは、「無常」を感じるのは人間であり、人間の生活の中の「無常」への観察無しに「無常」は語れないからだと思われます。

そして、住居とそこで暮らす人々が変わっていく有り様は、第一段で述べた「水の泡」に似ているということを「朝に死に、夕べに生まるるならひ」という印象的なフレーズで語っています。

次の第三段では、

冒頭の「知らず」という言い切りが、とても印象的です。

そして、初めて「無常」という言葉を使っています。

そしてさらに、第一段と同じように自然の中の儚さを引き合いに出して、「朝顔の花とそこに宿る露」と「人の生死」とは似ていると書いています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

第三段(原文)

第三段(現代語訳)

(画像はイメージです/出典:photoAC)

〔解説〕

無常を争うさま、

~朝顔の露に異ならず。

第三段目にして、鴨長明は早くも核心に言及しました。

ひとつは、冒頭の「知らず」~「また、知らず」です。

鴨長明は「人の生死の理について、私はわからない」と言い放ちました。さらに「人生は仮の宿なのに、何故、苦労して家を建てたり、それを飾って競いあったりするのか、私はわからない」とも書き連ねます。「知らず」を二度。「わからない」ということを、強調したかったのでしょう。

ひとつは、「無常」という言葉を用いたことです。

「その主と栖と、無常を争うさま、いはば朝顔の露に異ならず」と説きました。家を建てて飾り、それらを競うことは「無常を争うさま」であり、「すぐに消えて無くなる朝顔の露」と同じだと言っているのです。

言い放たれた「知らず」「また、知らず」は、「自分はわからないと宣言すること」によって「自分は無知であることを自覚しています」と言っているようです。これらは鴨長明の「無常」に対する姿勢の表れという意味においてもキーワードになると思います。

鴨長明は、「無常な人生」を生きていく術を見出すためには、全ての先入観を捨てて、自分は無知であるという前提に立つことが大事だと、直観的に感じていたのかもしれません。・・・と、私はそんなふうに思っています。

「無常」は「はかない」という意味ですが、

方丈記の第三段で使われている「無常」は仏教用語の「無常」です。「無常観」に通じるものです。

私達が単に「せつないなぁ…」などのように使う、いわゆる「無常感」とは異なります。

「無常」を古語辞典で引くと、

①〔仏教語〕「全てのものが絶えず変化して、永久不変でないこと」 

②「人の世のはかないこと。特に、死。

と説明されています。

第三段に使われている「無常を争うさま」は「はかなさを争う様子」と訳してよいと思います。

そして、その様子は「はかない」わけですから、朝顔の花や朝顔に宿る露と同じだと説いているのです。

苦労して家を建て、人の目を引くように飾り立てて、人々は競いあっている。そのようなことは、朝顔の花に宿った露が消えたり、残っていた朝顔が萎んでしまったりする・・自然の営みと同じように「はかない」ことだ

これを、もしも、自分に言い聞かせるために言葉にしたのだとしたら・・。

自分も「はかない」存在のひとつでしかない・・という自覚が大事だと、鴨長明は思っていたかもしれませんね。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

◆自然界も、自然界の中に存在する人間界も、河の流れのように「連続した変化」の中にある。

◆人も住処も、河に浮かぶ泡沫のように出来ては消えて、消えては出来て、同じであることはない。

◆何故そうなのかは、分からない。

世の中の人とその住処は、例えば朝顔に宿る露のように、儚いものだ。

〔ここからは私の思い〕

かとうあきら(筆者)

私の今日まで培ってきた人生観と重ね合わせると、以下のような ”生きるヒント” が浮かんできます。

人生は「無常」だからこそ、その時々に生きる喜びが生まれる。

◇だから「無常」だからといって人生から逃げてはいけない。

◇「無常」と共に生きることが、人生に喜びをもたらすのだ。

・・・と、わたしは、思いたい。

次回は、方丈記後半の冒頭にあたる第24段を取り上げたいと思います。

第24段は「すべて、世の中のありにくく~」(訳:この世を生きていくこと自体が、なかなたいへんなことなのだ)で始まります。

読んでくださり、ありがとうございます。

筆者

以下は、今までに書き連ねた記事です。

発見、再発見ノート