
(画像はイメージです/出典:photoAC)
<プロローグ>
「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」という書き出しで有名な徒然草。(成立は1349年頃)
執筆者の兼好法師は、次のように書いています。
「よしなし事を」
訳:とりとめもないことを、
「そこはかとなく書きつくれば」
訳:あてどもなく書きつけてみれば、
「あやしうこそものぐるほしけれ」
訳:妙に、ばかばかしい気持ちがするものです。
訳:わけがわからなくなって、気が変になりそうです。
訳:心は迷い、普通の感情ではいられなくなってしまいます。
・・など、ここはいろいろ解釈できる一文です。
Q:それでは、それを読む私達の心もまた、
「あやしうこそものぐるほしけれ」な気分になっていくものなのでしょうか。

第七段をざっと読むと、
”人は長生きするものではない。長生きをしても恥ずかしいだけだ・・”
というような内容が書かれています。
具体的な文言でいうと、
「世は、定めなきこそいみじけれ」
〔意訳:人はいつ死んでしまうか分からないところに価値があるのです〕
「命長ければ辱多し」
〔意訳:長生きしても、ただ恥をかくことが多くなるだけです〕
「もののあはれも知らずなりゆくなむ、あさましき」
〔意訳:(年寄りが)感慨や情緒を分からなくなっていくのは、なんとも驚き呆れることだ〕/これは現代でいう認知症の類のことかもしれません。
このように、第七段には、”長生きしないで早めに死んだ方がいいですよ”というような事が書かれているんですね。
なんだか、
「あやしうこそものぐるほしけれ」
というような気分になりそうな気がします。
それでは第七段を読みながら、
「あやしうこそものぐるほしけれ」な気分になるのか否かを、確かめてまいりましょう。

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目 次/参考図書
1.<プロローグ>
※段落で区切り、その段落毎に記述しました。
※三つの段落に分かれています。
*
〔参考図書〕
・「新訂 徒然草」/発行:岩波書店/2003年4月4日 第108刷
・「徒然草」ビギナーズク・ラシックス日本の古典/発行:KADOKAWA/令和7年78刷
・「角川 必携古語辞典 全訳版」/発行:角川書店/平成9年初版
※<意訳>とは、語句の直訳や文法に囚われず、書き手の意図を汲み取りその意図を優先して、自然で分かりやすい表現に訳したものをいいます。/意訳しずぎるのはよくないと思いますが、意訳は直訳より書き手の意図は伝わりやすいと思います。直訳はAIに任せて、自分なりの意訳を楽しみたいと思います。
※この記事に記した<原文>は「新訂 徒然草」から引用しました。
※<注釈>には「新訂 徒然草」に掲載の注釈、及び上記の古語辞典を参考にしました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
<第七段:意訳/原文/注釈>
<意訳>
命というものは、あだし野の墓地の露が消えていく瞬間も分からないほどに儚いものです。
そして、鳥部山の火葬場にいつも煙が立ち昇っているのは、人の死は絶えることがないことを物語っています。私たちは火葬場に昇る煙が空に消えていく様子を見て、ああまた一人死んでいったのだな・・と思い、悲しみと感慨に包まれるのです。
もしも火葬場に立ち昇る煙が空に消え去ることなく辺りに漂い続けるとしたら、深い感慨や情緒というものが残るでしょうか、いいえ残らないと思いますよ。人は煙になって消えていくからこそ、そこに深い感慨があるのです。
人の生き様というものは、いつ死ぬか分からないように明日のことは定まっていないからこそ、そこに味わい深い良さというものがあるのです。
<原文>
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
<注釈>
※「あだし野」:京都市の嵯峨の奥、愛宕山の麓にあった昔の墓地。
※「時なく」:「時無し」/定まっていない。いつもだ。
※「鳥部山」:京都市の東山にあった、昔の火葬場。
※「のみ」:限定の副助詞ですが、ここはもうひとつの意味「強調」という理解の方が素直だと思います。「煙立ち去らでのみ」”火葬場の煙は絶えず出ていて死者は決してなくならない”という意味。
※「果つる」:「果つ」/終わりになる、死ぬという意味がありますが、「~しとおす」という意味もあります。なので「住み果つる習いならば」は”住み続ける習い”、つまり「この世に住み続けることが決まっているのならば」という解釈がよいと思います。
※「~ば」:「習ひならば」の「ば」は現代語と同じく順接の仮定条件を表します。なので意訳の中には「もしも~」という表現を用いました。
※「いかに」:「如何に」/ここは”はなはだしさを感嘆する意味”「なんとまあ」でも、程度を表す言葉として「どんなに」「どれほど」などの意味でも両方ともに通じます。そしてもうひとつ「反語」にも使われます。この意訳では反語として解釈しました。
※「世」:いろいろな意味がある語句です。ここでは「人の生きている間」「生涯」「人生」などの意味で解釈するのが妥当だと思います。
※「いみじけれ」:「いみじ」/程度の多さを表現する形容詞で、良い意味にも悪い意味にも使います。〔良い意味〕すばらしい。りっぱだ。〔悪い意味〕たいへんだ。おそろしい。

<意訳>
生き物の中にあって、人間ほど長生きする生き物はいません。
かげろうは朝に生まれて夜には死んでいきます。夏に生まれる蝉は、春も秋も知らないうちに死んでいくのです。なのに、物思いにふけりながら1年をやり過ごしてしまうこともある人の生活とは、なんと呑気なものなのでしょうか。
「ああ、つまらない」とか「ああ、死にたくない」とか思いながら生きるのであれば、たとえ千年生き続けたとしても、それは一夜の夢のような、あっという間の時間に過ぎないと思います。
人はいつかは死んで、さよならするのが定めの世の中に生きているのに、年老いてよぼよぼになった身体を晒しながら、いったい何をどうしようというのでしょうか。
長生きすればするほど、恥をかくことは多くなります。
長く生きたとしても、四十歳そこそこで死んでいくのが見苦しくなくて良いと、私は思います。
<原文>
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
<注釈>
※「つくづく」:現代語では念入りな様子とか程度の甚だしいさまを表しますが、古語にはそのほかに ①物思いにふけるさま。しみじみ。しんみり。②することもなく、もの寂しいさま。という意味があります。
※「めやす」:「めやすし」見苦しくない。無難だ。感じがよい。


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<意訳>
人はその年齢を過ぎてしまえば、外見なんか気にしなくなります。
そして、人様の集まる所に行ってはお喋りをしようとしたりします。
さらに、沈んでいく夕日のように先のない老齢の身でありながら、溺愛する子や孫の晴れ姿を見るまでは生きていたいと望むのです。
その様子は、ただひたすら長生きを望んで、世俗の欲望にまみれているだけでしかありません。
そんなことだから、情緒とか人生の機微とか豊かな情感とか、そういった感慨に心を動かすこともなくなってしまうのです。
なんとも卑しくて興ざめたことでしょう。
人生、長生きするものではありませんね。
<原文>
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。
<注釈>
※「そのほど」:この「その」は前段落の末尾にある「四十歳そこそこ」を指しています。
※「さかゆく」:辞書には「栄行く」とあります。「栄えていく」という意味です。
※「あらまし」:予定とか予想という意味です。
※「あはれ」:辞書を引くと実に様々な解釈、何通りもの意味が書かれています。総じて「心の内面にしみじみと染み込む感動を表す」という理解でよいと思います。文脈に合わせて相応しい現代語に置き換えてみましょう。
※後半部分、ネットで見つけた吾妻利秋氏は以下のように現代語訳されているので、以下に引用いたします。
思い切った訳で、とても分かりやすい表現をされていらっしゃると思いました。
ただ、「ただの肉の塊でしかない」はシビアですね。もしも親を思う子の気持ちが重なったら、非難される表現かもしれません。
以下、引用
”没する夕日のごとく、すぐに死ぬ境遇だが、子供や孫を可愛がり「子供たちの晴れ姿を見届けるまで生きていたい」と思ったりして、現実世界に執着する。そんな、みみっち精神が膨らむだけだ。そうなってしまったら「死ぬことの楽しさ」が理解できない。ただの肉の塊でしかない”
以上、引用終わり。
徒然草 第七段。
吉田兼好は、”命を長らえても必ずしも長寿ではない” ということを言いたかったようです。
”長寿の祝い”というのがありますが、”長命の祝い”という言い方はしません。
「生きること」と「生き長らえること」の違いも同じ意味合いだと思います。
上手に年を取るというのは、難しいことなのですね。

徒然草の第七段を読んでみて、
皆さんは「あやしうこそものぐるほしけれ」な気分になられたでしょうか。
なにかしらの感想を抱いたとき、「ああ、これが”あやしうこそものぐるほしけれ”という感覚なのかもしれない」という思いを抱ければ、それでよいのかもしれません。
随筆というのは、”個人の心の発露”であり、個人的な感慨に支配された文章なのですから。
読んでくださり、ありがとうございます。