徒然草|172段|若者と老人|あやしうこそものぐるほしけれを検証

(画像はイメージです/出典:photoAC)

兼好法師はその著「徒然草」の序段で、

高校の古文の教科書で学んだ、あまりにも有名な書き出しですね。

〔※「ものぐるほし」は「もの狂ほし」と表記している資料もあります。〕

なぜなら、

兼好法師徒然草に書いたことは「よしなし事」であり、

さらに、その内容は「そこはかとなく」書き綴ったものだと、兼好法師は書いているからです。

〔※「よしなし事」/とりとめもないこと。目的やまとまりはなく、また結論もない話や考えのこと〕

〔※「そこはかとなく」/あてどもなく。目的も目標もなく、のらりくらり…といった様子〕

そしてさらに、

そのようなことを書いていると、

心は「あやしうこそものぐるほしけれ」になってしまうとも、兼好法師は書いているのです。

〔※「あやしうこそものぐるほしけれ」/妙にばかばかしい気持ちがすることだ〕

学校の教科書に採用されているのですから、さぞかし大事な事が書かれているのかと思いきや、その内容はそうでもなさそうです。

〔参考:語句の意味と参考資料〕

・この記事に使った資料は、以下の出典で記した図書三点です。

※以下の出典:「新訂 徒然草」(岩波文庫/発行2003年第108刷)の注釈によります。

「よしなし事」:とりとめもないこと。

「そこはかとなく」:特に定まったこともなく、あてどもなく。

「あやしうこそものぐるほしけれ」:妙にばかばかしい気持ちがすることだ。

※以下の出典:「徒然草」(角川書店:ビギナーズクラッシックス 日本の古典/令和 7年 78刷)の意訳によります。

「由なしごと」:気まぐれなこと。

「そこはかとなく」:なんのあてもなく。

「あやしうこそもの狂ほしけれ」:なんだか不思議の世界に引き込まれていくような気分になる。

※以下の出典:角川 必携古語辞典(角川書店/平成9年初版)によります。

「ものぐるほし」:「物狂ほし」/ふつうではない。あきれるほどだ。気が変になりそうだ。

※名詞には「ものぐるひ(物狂ひ)」があります。意味は ①狂気。乱心。また、その人。狂人。②能楽で、ふだんは正気であるが、何かの対象(たとえば亡夫など)を思い浮かべると、たちまち狂気となる人。または、それを演じる人。

 

 

日常のなんでもない事柄を綴っていたら「あやしうこそものぐるほしけれ」になってしまったのさ! ということなのですから、書き綴っている兼好法師にとって、これはもう麻薬的な効果があったのだと言ってもいいのかもしれません。

つまり、そこにこそ随筆の書き手としての楽しみがあったのかもしれませんね。

ちなみに、

徒然草(成立は1349年頃)は、

鴨長明が執筆した方丈記(成立は1212年)、

清少納言が執筆した枕草子(成立は1001年頃)と並んで、

日本三大随筆のひとつとされています。

<この記事のテーマ>

時代背景、社会環境などが異なるので単純な話ではないかもしれませんが、徒然草を読んだら「あやしうこそものぐるほしけれ」な気分になるのだろうか? という視点にて、徒然草の172段を読んでみたいと思います。

<とりあげるのは172段です>

この段を斜め読みすると、その内容はともかく、冒頭に「若き時は、血気内に余り~」とあり、改行した後半の頭に「老いぬる人は、精神衰え~」と綴られているのを見つけることができます。

つまり、若者は〇〇である、老人は◇◇である・・と、「そこはかとなく」綴られているようです。

<172段をとりあげた理由1>

172段をネットで調べると「若者と老人の比較論」という評価が多々ありました。

でも私は、そんなたいそうなことではないと思っています。なぜなら「つれづれなるままに」書き綴った「よしなし事」が、論という程のものになるとは思えません。

元より、徒然草の序文に照らし合わせれば「若者は〇〇である、老人は◇◇である・・」という内容も著者の兼好法師にとっては「よしなし事」のはずです。

なので、きちんと読んでみて、

という実感を得たいと思いました。

<172段をとりあげた理由2>

172段の後半「老いぬる人は~」をさっと斜め読みした限りでは、私としては「違う!今風の高齢者とは違う!」という思いを抱きました。

私は老人ホームで介護士として働いております。私が老人ホームで介助させて頂いている高齢者や日常的にコミュニケーションをとらせて頂いている自立の高齢者と、徒然草172段の後半に書かれている「老いぬる人」とは、かなりの隔たりがあるのです。

それでは「あやしうこそものぐるほしけれ」になるかもしれない、その世界へと入っていきましょう。

・必要に応じて※注釈をつけました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

<前半:若者について>

「若き時は~」から入ります。

<意訳> 若い時は、意欲が身体中に漲り、何か物に触れれば心は高揚して、情欲だって多いものだ。

※この一文の語句と語句の連なりは、古語辞典を引くこともなく、語句を追うだけでなんとなく意味が想像できるのではないでしょうか。それでよいと思います。言葉は語感が大事なのです。

<意訳> 自身を危険な場面に投じて失敗しやすい様子は、宝石を激しく転がすのに似ている。

※若者は、猪突猛進、危険を顧みない、失敗することも多い、失意や失望も若者の特権だ・・というようなことを言いたかったのではないかと思います。

※若者を宝石(それはまだ輝いていない原石なのかもしれません)に例えています。普通、宝石を激しく転がしたりはしません。そんなことをしたら傷がつくかもしれないからです。宝石は大事なものだからです。でも、若者の行動には宝石を転がすような無茶苦茶なところがあると言っているのです。この例えは、実に「そこはかとなく」書かれているように私は感じます。

※古語の「走る」には現代語の「走る」の他に「激しく転がる」という意味があります。

<意訳> 外見の美しさだけに囚われて大事なお金をそこへ注ぎ込んだり、かと思うと、その態度を捨てて出家してしまいみすぼらしい姿にも平気でいたりする。意欲に溢れて奮い立ち争いごとの渦中にいたかと思えば、それらを恥じて自身を卑下し他人を羨ましく思ったりもする。若者には、思うことが定まらない心の不安定さがあるようだ。

「苔」:苔には植物の苔の意味の他に、「僧侶や隠者などの苔で作ったような粗末な衣服」という意味があります。古語辞典には「苔の袂」は「苔の衣」と同義語であると書かれていました。

「窶れ」:「窶す(やつす)」/①目立たないように姿を変える。みすぼらしくする。②出家して姿を変える。

<意訳> 恋愛情事に溺れて、恋心を好み、迷いのない行動をするけれども、その先の長い将来を台無しにしてしまうことがある。命を落としてしまうような美談として語られている恋愛話に憧れてしまい、自身の身の安全や長生きしようなどとはこれっぽっちも思っていない。心の向くまま好きなことに夢中になり、長い間に渡って世間の語り草になってしまうこともある。

「行いを潔くして」:「潔し」には①清らかだ。②心や行いがきれいだ。③思い切りがよい。未練がない。・・という意味があります。ここでは文脈から③の意味とし、”恋愛について思い切りのよい行動をとる”という意味に解釈しました。ただ、それは間違いの元になることもあることが、次に繋がる「百年の身を誤り」という文脈から分かります。

「命を失へる例」:具体的に何を指しているのかは分かりません。それを願うのですから、おそらくは、世間に美談として流布されている心中話などのことだと、私は想像して意訳しました。

<意訳> 若い時には、自身の将来を見誤ったりすることがあるものです。

※「しわざ」は「仕業」で、行為とか仕事という意味です。ここでは”若者の行動”という意味です。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

<後半:老人について>

「老いぬる人は~」から入ります。

<意訳> 年老いた人というものは、気力は衰えて、淡白で何事にも適当である。そして感情の起伏はなくあっさりしている。

※「疎か」:「おろか」/①いいかげんなさま。粗略だ。通りいっぺんだ。②頭の働きが鈍い。賢くない。③劣っている。へただ。

<意訳> 心は自然と静かになっています。なので、無益な行いをすることはありません。また、自分自身を大切にして心配事を抱えるようなことは無く、周囲に迷惑や心配事をかけないようにして生きています。

「自ら」「おのずから」/①ひとりでに。自然に。人工を加えないで。②偶然に。たまたま。まれに。③いつの間にか。知らないうちに。④もしかして。ひょっとすると。

*「自ら」と書いて「みずから」という読みもあります。この場合の意味は①自分から。②自称。私。③自分自身・・という意味です。

<意訳> 老齢になり、判断力や物事の道理をわきまえる力が若者よりも優れていることは、若者の容姿や容貌が老人よりも勝っているのと同じことなのです。

「智」:「ちゑ/智慧」/物事の道理をわきまえ、事の是非・善悪を判断する力。物事の本質を理解して、適切に処理・行動できる力。

「かたち」:ここでは容姿・容貌のこと。

いかがでしょうか・・。「あやしうこそものぐるほしけれ」な気分になられたでしょうか。

気楽に読めば、ただのエッセイ。ただの戯言。そして、真剣に考えれば考えるほどに「あやしうこそものぐるほしけれ」な気分になってくるように、私は感じました。

おそらく、状況把握の内容を述べた後に、”だから〇〇なのです” とか、”だから◇◇した方がよいと思います”という結論の部分を書かずに、”どうしたらいいのか、これを読む人が勝手に考えて下さいね….と読者に丸投げしたいるからだと思います。

以下では、「老いぬる人」の記述について、原文を”今風の高齢者の実情”に合わせて改編してみました。

ここで意味する”今風の高齢者の実情”とは、私が介護職として得た経験をベースにしています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【考察:老いぬる人について】

改編:172段後半/例

<古語:ワンポイント>

「ぬる」:古語では色々な意味に使われていました。

完了の助動詞「ぬ」の連体形。「老いぬる」の「ぬる」はこの意味です。さらに”叙述の強調”という意味もあります。/なので(本当に・実際に)老いてしまった人」という意味で捉えると良いかと思います。

※ここでは文脈から間違えることはないのですが、古語には打消しの助動詞「ず」の連体形に「ぬ」があるので、これと混同しないように注意が必要です。/見分け方は、直前の動詞の活用形にあります。/「ず」の連体形の「ぬ」は未然形に付き、完了の助動詞の「ぬ」は連用形に付きます。

:「ぬる」は、他にも以下の意味で使われていました。

② ゆるんでほどける。

③ 濡れる。

④ 男女が情を交わす。

⑤ 「寝(ぬ)」の連体形。

私が老人ホームで介助させて頂いている高齢者や、日常的にコミュニケーションをとらせて頂いている自立の高齢者の方と、徒然草172段に書かれた「老いぬる人」とはかなり違います。

どのように違うのか・・・

その違いの部分を、徒然草の原文をベースに現代風にアレンジして、<改編:172段後半/例として書き綴ってみたいと思います。

   ⇩

改編:172段後半/例

老いぬる人は、精神衰へたるも、心頑なにて疎かなり。感じ動く所なしも有れば、由し無し事に感じ動く姿もあり。傍ら心憂しなり。

   ⇩

改編:172段後半/例

心自ら静かなれど、執心ある事有るが故に無益のわざを為すことあり。げに身を助ける思ひ多くありて愁い多し。人の煩ひなからん事を思う故に、かへりて人に煩はしく心苦しき思ひ与えることあり。

「げに」/①なるほど。いかにも。ほんとうに。②ほんにまあ。まったく。

「かへりて」:「却って」/逆に。反対に。かえって。

改編:172段後半/例

老いて、智の、若きにまされる事げに少なく、ありてもはかなしごとなり。また、老いの智まされるは、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如しと思ふこと、心あさしたはごとなり。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

だからどうなの? あなたはいったい何がいいたいの? 

そんなことを考え始めたとき、心は「あやしうこそものぐるほしけれ」な心境に陥っていくように思います。

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