百人一首/恋の歌/「恋し」を詠み込んだ恋歌八首から、恋心を知る


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この記事では、小倉百人一首の中から、漢字の「恋」を詠み込んだ和歌を全てとりあげています。

【「恋」を詠み込んだ詩歌】

恋の詩歌には、恋心を形容する様々な表現が多く見られます。

多くの人が「好きだ」とか「恋してる」という直接的な言葉だけではなく、「まるで〇〇のようだ」と云うように、恋をする気持ちを比喩で表現したり、形容詞を多用したり、恋心による行為や行動を恋する気持ちの表れや象徴として伝えたりしてきました。「恋」という言葉を直接使わすに、恋心を伝えようとしてきたのです。

たとえば、島崎藤村(詩人、1872~1943年)には、詩集「若菜集」に発表された有名な詩「初恋」があります。「まだあげ初めし前髪の」の出だしが有名で、教科書にも多く掲載されているのでご存知の方は多いのではないでしょうか。この詩、タイトルは「初恋」ですが、その詩の中に登場する漢字の「恋」は「たのしき恋の盃を」の一か所のみで、熱を帯びた直接的な表現は何ひとつありません。

百人一首でも同じことがいえます。たとえば・・・、

「君がため 惜しからざりし命さえ 長くもがなと 思ひけるかな」(第50番歌、詠み人:藤原義孝 954-974年)という歌は、

”人には寿命があって、いつかは死んでしまうもの。だから、命は惜しくはないと、私はずっと思っていました。でも、あなたと会った今、私はあなたの魅力の虜になり、あなたと一緒にいつまでもいつまでも生きて、あなたと一緒に人生を楽しみたいと思うようになりました。それくらい、私はあなたが好きになってしまったのです」という気持ちを詠っている恋歌です。

この恋歌のように「恋」という言葉を使わなくても、恋の歌であることがわかる詩歌が沢山あります。

【「恋」という言葉詠み込んだ詩歌】

それでは、その逆に、「恋」という漢字を詠み込んだ恋歌には、どのようなものがあるのでしょうか。「恋」という漢字を使うくらいですから、そこには「恋の特性」がより分かりやすく表現されているのではないかと思います。

それを百人一首の中に求めてみたいと思います。

なぜ百人一首かというと、百人一首には、恋歌がたくさん集まっているので、探しやすいと考えたからです。・・・調べると、100首のうち43首が恋歌だと伝えているレポートが沢山ありました。43首もの恋歌がまとまってあるのなら、「恋」という漢字を直接詠み込んでいる恋歌も沢山ありそうです。

また、百人一首が詠まれた奈良時代、平安時代、鎌倉時代というその昔に、日本人は「恋」というものをどのように感じていたのでしょうか。日本人の感情の有様の一面を探ることができる興味深いテーマでもあります。

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【 漢字「恋」を詠み込んだ百人一首の恋歌】

「恋」という漢字を使うことによって恋歌であることが一目瞭然である和歌、百人一首にはいったいいくつあるのでしょうか。・・・探ってみると・・以下のとおり、8首ありました。

筑波嶺の 峯より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる(第13番歌、詠み人:陽成院 868-949年)

みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ(第27番歌、詠み人:中納言兼輔 877-933年)

浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき(第39番歌、詠み人:参議等 880-951年)

由良の戸を わたる船人 かぢをたえ 行方も知らぬ 恋の道かな(第46番歌、詠み人:曾禰好忠/生没年不詳)

恨み侘び ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ(第65番歌、詠み人:相模 998?-1061?年)

難波江の あしのかりねの 一夜ゆゑ みをつくしてや恋わたるべき(第88番歌、詠み人:皇嘉門院別当 生没年不詳)

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで(第40番歌、詠み人:平兼盛/生年不詳-990年)

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか(第41番歌、詠み人:壬生忠見 生没年不詳)

これら8首の恋歌には、相手に迷うことなく、恋する思いをきちんと確実に単刀直入に伝えたかった・・という読み手の意志が感じられます。

そこで、各々の恋歌を味わってみたいと思いますが、この記事では、背景にある事情や、使われている和歌の技法については、極力その解説を減らしました。なぜなら、そのような理解については、既存の解説に沢山あるからです。

主眼を「なぜ恋という漢字を用いたのか?」「恋という漢字の重さが歌全体にどのように影響しているのか?」について解き明かすことに置いて、歌の解釈については意訳を試みました。

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【 意訳 free translation 】

筑波嶺の 峯より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

【意訳】 山の峯から湧き出た水。その水は、最初はちょろちょろと少ないけれども、やがて川となり、そしてあるところで溜まり、深くなって淵となっていきます。私のあなたへの恋心も同じです。あなたの魅力に心震えて湧き出るように起こった恋心は、あなたを思うたびにどんどんと膨らんでいき、今は大きな大きな塊となって私の心を支配してしまっているのです。ああ、あなたに早く会いたい・・。

【解説】「私の恋心は積もっていく、ああ早くなんとかして・・この恋を成就させたい」という気持ちを詠っています。「恋は積もっていくもの」という重さがこの恋歌のテーマです。なので、もしも「恋」を他の語句に置き換えると、恋という重大さが薄れてしまうように思えます。「恋は積もるもの」そして「積もるのは恋」というわけです。なので「恋」という文字を抜きにして、この恋歌は成り立ちません。

「みなの川」は「男女川」とも書きます。つまり、峯の間を流れる川が二本あって、ひとつが男の川、ひとつが女の川。なので、みなの川は下流の方でひとつになって淵となる(愛しあう)という解釈があっても面白いなと思います。

みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

【意訳】どこからともなく流れでてくる泉川は、みかの原を二つに分けるように流れています。ですから、向こうの岸のことを知りたくても、よく見えず想像するしかありません。その様子と同じように、あなたのことを、いつ見たというわけではないのですが、あなたの素敵な評判を耳にしているうちに、私はあなたのことがだんだんと恋しくなってきてしまいました。そして、今では、まだ見ぬあなたに恋をしている私です。

【解説】恋心の中には、相手のいい評判を聞いただけで、興味が湧き出てくるように想起されて、それが恋心の発端となる場合があります。そして、その思いは、まだ見ても会ってもいないのに、だんだんと膨らんでいって、相手のことをもっと知りたい、早く会いたい・・とさらに強く思うように変化していきます。この恋歌は、そのような「まだ見ぬ恋」を詠っています。

そして、まだ見ても会ってもいないのに恋する気持ちばかりが膨らんでいく、そのような恋心の発生と膨らみを、どこからともなく湧くようにして流れている川の流れ/草原を分けるようにして流れる川によって意識される両岸の岸、というような自然の営みに喩えているのです。

”わたしは、あなたに恋をしているのです”という気持ちを、相手にきちんと分かってほしい・・「恋」という漢字を使うことによって、自分の胸の内を相手にきちんと伝えたかったのだと思います。

浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

【意訳】ああ、あなたが恋しい。わたしは、なかなか成就できないあなたへの思いを、今日まで小野の篠原のように、ずっと耐え忍んできました。でも、私はもう我慢できません。わたしのあなたへの思いは、我慢の度を過ぎてしまいました。ああ、あなたに会いたい!あなたに会って、この恋を成し遂げたいのです。

【解説】古文は、古語の扱い方によって、難しくなったり、意外と簡単になったりします。一般的に、古文が苦手だという学生さんの意見は、古語の意味が分からない、いちいち辞書を調べたりするのは面倒だ・・です。そう思って、そこから先へ進まなくなってしまいます。でも実は、そのハードルを越える解決策があります。それは「古語は全部知らなくてもいい」と思うことです。

この恋歌の場合、「浅茅生」って何? 「小野」って地名? 何処のこと? 「篠原」って何?「あまりてなどか」ってどういう意味? と考えてしまいがちです。でも、そのような捉え方をすると、わからないことだらけになってしまうので、古文って難しいなあ・・と思ってしまいます。ここは、全部わかろうとしなくていいのです。分かる言葉だけ、じっくり追ってみましょう。

この恋歌をじーっと見ていると、現代語として理解できる「しのぶれど」⇒「人の恋しき」が見えてきます。「がまんしてきたけれど、あなたが恋しい」というこの恋歌の主題です。これがわかれば、もう十分、この恋歌を味わっていることになります。

そしてさらに、じーっと見ていると、「人の恋しき」は「あまりてなどか」によって修飾されていることが分かります。「あまりてなどか?」って何?・・・・こういう時は、解説書を開かずに「あまりてなどか」を古語辞典で調べてみましょう。

「あまり」は「余り」つまり「度を過ぎたこと」という意味です。・・・〔例〕あまりにも美しくて言葉を失った。・・・つまり、この恋歌の下の句は、次のような意味だとわかります。

「がまんしてきたけれど、そのがまんは度が過ぎて、もうとても我慢できません。あなたに会いたい。会ってこの恋を成就させたい。ああ、あなたが恋しい!」

このように解釈すると、上の句の「浅茅生の小野の篠原」は、我慢をする比喩として使われている何か・・漢字から想像するに何かの植物であると想像できます。「浅茅生の小野の篠原」は何か我慢をして生育しているような、そんなことを想像させる植物なんだな・・・上の句の理解はそれくらいで十分だと、私は思っています。

この恋歌の主題は、”堪えきれなくなってしまったた恋心”です。それを味わえれば、いいのです。そして、それを相手に伝えるとき、「恋しい」という言葉以外では、きっとうまく伝わらないと恋歌の送り手は思ったのでしょう。

由良の戸を わたる船人 かぢをたえ 行方も知らぬ 恋の道かな

【意訳】私は今、私の心を支配しているあなたへの恋の行方に、とても不安を抱いています。なぜなら、この恋が、なかなか思うようにならないからです。

この不安は、たとえば・・・激しい流れの由良の戸を渡る渡し舟。そこを漕いで舟を向こう岸まで渡そうとしている船頭。でも、船頭は流れの激しさに、とうとう舵を流されてしまいます。この先、舟はどうなってしまうのでしょう・・難破してしまうのでしょうか? どこか知らない島へ流されてしまうのでしょうか? 不安でいっぱいです・・・というような不安なのです。

私のあなたへ恋は、まさしく舵を無くした船のようです。あなたとの恋は、これから先いったいどのように進展していくのでしょうか、あなたも一緒に考えてください。もしも、あなたにお会いできれば、この恋はうまくいき、もう迷わずにあなたとの恋を成就できると思います。

【解説】恋歌はラブレターです。恋する相手を口説かないといけません。なので、上記のように、大げさにさえ見える「恋の道」という言葉を使い、その「恋の道」に不安を覚えていることを伝えることによって、”会いたい”という思いを言外に伝えたい、そのように私は解釈しました。

下の句「行方も知らぬ 恋の道かな」は、半ば強引な口説きのようにも感じられます。

「この先、この恋はどうなっていってしまうのでしょうか」という不安を相手に投げかけることによって、あなたへの恋心はとても狂おしい状態にまでなっていることを伝えているのです。そして「恋の道」という、その表現は大袈裟かもしれないけれども、進めば幸せな未来を想起させる言葉であり、既に二人一緒に「恋の道」を歩き始めていることを、相手に想起させようとしています。

上の句はその状態を修飾しています。そこでは、船頭が舵を無くしてしまったようです。「由良の戸」が何なのかわかりませんが、次の動詞が「わたる」であることから、海峡なのか川なのかは別にして、とにかく舟で渡るような場所が想像できます。

つまり、このような解釈が成り立ちます。・・・由良の戸を舟で渡っていたけど、舵を操る船頭が、舵を無くしてしまったよ・・・。

何故、舵を無くしてしまったのか? 想像するに、海なら潮の流れや渦を巻いている、川なら急流、だからです。つまり、”恋の激しさ” を暗に示していると解釈すれば、この恋歌に深みがでてきます。

そして「恋の道」という言葉を使うことによって、二人は既に愛し合っているという状態であることを、相手に暗示でもかけるようにして分からせたい・・作者はそのように考えたのだと、私は思いました。

恨み侘び ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

【解説1】ここまでの恋歌は、割合と分かりやすかったのですが、この恋歌は難しいと思うので、解説を先に書きます。

この恋歌、いきなり「恨んで」「侘しい」のです。いったい何があったのでしょうか。そして歌の最後は「惜しい」と締めくくられています。マイナス思考ばかりです。

”マイナス思考の恋歌”には、どんなことが詠まれるのでしょうか? そう考えると、想像が膨らんでいき、解釈を手助けしてくれます。

そして「名こそ」とは何でしょうか。歌全体が個人的な感情のように思えますので、想像するに、名は名誉のこと? かもしれません。そう考えると、”名誉が惜しい”・・自分のことが大事でしかたがない作者の思いが想起されます。

そしてさらに「恋に朽ちなむ」なのです。”恋に朽ちる”とは、いったいどのような状況なのでしょうか。”朽ちる”のですから、おそらくは、”失恋してやつれる”とか、”恋に振り回されて疲れた”というような感情ではないでしょうか。

そう考えると、「袖」「ほさぬ」と否定されていることは、”干せない袖”・・・つまり、涙で乾かない袖・・・つまり、泣いてばかりいる自分・・が想像されます。

【意訳】あ~あ、また失恋してしまった。あの人は私を裏切り、私をどん底に落として去っていった。恨んでも恨みきれない。世間からは笑いものにされて、自分のこの身が侘しくてしかたがない。私は毎日泣いてばかり・・袖は濡れたままで乾く暇もない。ああ、私は、恋のために、自分の身を落としてしまうのでしょうか。私の名誉はいったいどこにあるのでしょうか。

【解説2】「恋に朽ちる」・・もしも、他の言葉を使うとしたら。五七五七七の音で構成しなければいけないという制約の中、他の形容を私は見つけることができません。「恋に朽ちる」この五音に込めた思いが、この恋歌の最大で唯一のテーマなのだと思います。

そこには、滅びゆく美しさ、失われる美しささえ、私は感じます。

なので、言外に、こんなことも伝えたかったのだと思います。

「あなたは、こんなわたしを放っておいてもいいのですか! あなたは、そんな薄情な人なのですか!」

難波江の あしのかりねの 一夜ゆゑ みをつくしてや 恋わたるべき

【解説1】これも解釈が難しい恋歌だと思いますので、解説を先に書きます。

キーワードは「一夜ゆえ」「みをつくす(身を尽くす)」「恋わたる(渡る)」です。

恋という字から、これが恋歌だと想像しながら読むと「一夜」と「身をつくしてや」の意味が見えてきてきます。ポイントは、「恋」「一夜」「身をつくし」から、「かりね」が「仮り寝」かもしれない・・と気が付けるか否かです。

これに気が付くには、かなりの想像力が必要です。私は分かりませんでした。おそらく、ここだけは参考書に頼らざるおえないかと思います。

おおよその意味は、”私はあなたと一夜を共にしてしまいました。たった一夜だけれども、その一夜によって、これから先もずっと身を尽くして末永い恋へと二人寄り添っていくのですね” という確認です。おそらく、相手の気持ちを確認したいという不安があったのだと想像できます。

「あし」は植物の葦、葦を刈った後に見える葦の節を「あしのかりね」と表現していて、「刈り根」と「仮寝」は掛詞となっています。

【意訳1】あなたと共にした一夜が、わたしたちの恋のはじまり。この一夜が、これから先、心身を一生懸命に尽くして、永遠の恋へと育っていくのですね。嬉しいです。

・言外には「他の女性に目を移しては駄目よ」と伝えたい、という気持ちが垣間見えます。

【意訳2】この恋歌は、以下のようにも味わえます。詩歌というものは、作者の意図は横に置いておいて、いろいろな解釈をして味わえる・・そこに詩歌の楽しみがあります。

あなたに一目惚れしてしまった私は、あなたと一夜を共にしてしまいました。でもそのために、これから先もずっと身を尽くして、恋をし続けるのですね。昨晩のことは、難波江に生えている葦の刈り根の一節のように、たった一日だけの仮の契りではなかったのですね。

【解説2】一夜を共にしたけれど、恋の成就には、確信もあれば不安もあるわけです。なので、そういう気持ちを相手にきちんと伝えなくてはいけません。

「恋わたるべき」というように「恋」という漢字をここで使って、相手にはっきりと分かってもらわないといけない・・二人一緒に、これから先もずっと寄り添っていくのだと、念を押さないといけない。そういう思いが、「恋」という漢字に込められていると、私は思います。

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

【意訳】私が恋に落ちていることは、誰にも言わず、ずっと隠していたのですが・・。どうも、顔色には、私が密かに恋をしていることが出てしまっているようです。先ほどなんかは、会った人に「何か、嬉しいお悩みでもあるのですか?」と、質問をされてしまいました。恋というものは、隠そうとしても隠しきれないものなのですね。

【解説】「色」は表情や顔色のことです。これさえわかれば、あとは難しい古語は無いので、なんとなくでも、この恋歌の意味は分かると思います。ただ、さらに言外の意味を探るとすると・・、詠み人の本心は、”自分が恋をしていることを知ってもらいたかった” のではないでしょうか。そうでなければ、わざわざ和歌に詠んだりはしません。詠み人は、自己顕示欲が強い人なんだなぁ・・と思います。

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

【意訳】私が恋をしているという艶聞が、もう広がってしないました。誰にも言わずに、こっそりとひとり思っていたことなのに。

【解説1】ここには、ちょっと難しい古語があります。

難しい古語は「まだき」です。「まだき」という音は、現代語では未完の「未だ」のように思えます。でも古語では「早くも」とか「もう」という意味です。

私の手元にある古語辞典(角川 必携古語辞典 全訳版 /平成9年11月初版/発行:㈱角川書店)には「まだその時期に至らないのに。早くも。もう。」という意味であると書かれています。

つまり、”私が恋をしているという噂が、早くも立ってしまったようだ” というのが上の句の意味となります。そして、”おかしいなぁ・・、誰にも言わずに隠しておいたのに・・。”という下の句につながります。

ここでも、ひとつ前の恋歌「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は~」の恋歌と同じようなことが想像されます。つまり、隠しておきたいのなら、歌に詠まなければいいのに・・ということです。詠み人は、目立ちたがり屋さんだったのでしょうか。

【解説2】和歌は通常、コミュニケーションの手段として用いられてきました。送る相手がいて、読んでもらうためにあったのです。なので、恋歌は、ラブレターでもあったのです。

一方で、より優れた和歌を競い合うための「歌合」という行事が定期的に宮中で行われていました。実は、「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は~」と「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり~」は、歌合で競い合った和歌でした。

つまり、本当に恋の相手がいるわけではない状況で、この恋歌は読まれているのです。先に紹介した6首の恋歌と、少し趣が異なるのはそのためです。

本当の恋歌というものは、本当の恋心からしか生まれない・・そう感じます。

恋というのは、いつの時代でも、人の心に潤いと不安と、失望と喜びと、そして様々な迷いを生じさせる、嬉しいんだけれど苦しい、苦しいんだけれど嬉しい・・不思議なものです。

このように、百人一首の恋の歌を詠んでみると分かるのですが、昔も今も、恋への思いというものは、あまり変わらないんですね。科学や医学など、文明が発達しても、恋への思いは変わっていないのです。

【恋、8つの特性】

上記のように、百人一首の恋歌から、恋について、以下8つの特性が想起されます。

左側が導かれる”恋の特性”、右側〔〕内はその特性がわかる恋歌の本文(一部)です。

1. 恋は、積もるもの。〔本文:「恋ぞつもりて 淵となりぬる」〕

2. 相手を見なくても、恋は起きる。〔本文:「いつ見きとてか恋しかるらむ」〕

3. 恋は、大きくなって耐えきれなくなる。〔本文:「あまりてなどか 人の恋しき」〕

4. 恋の道はけわしい。〔本文:「行方もしらぬ 恋の道かな」〕

5. 恋は朽ちて、心はやつれていく。〔本文:「恋にくちなむ」〕

6. 一夜の契りが永遠の恋となる。〔本文:「みをつくしてや 恋わたるべき」〕

7. 恋は、顔色に出てしまう。〔本文:「色に出でにけり わが恋は」〕

8. 恋は、噂になって広まる。〔本文:「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり」〕

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【「恋しさ」を詠んだ和歌】

※「恋」という漢字を詠み込んだ歌、百人一首の中に、実はもう2首あります。平安時代に詠まれています。

それらの2首は「恋」をloveではなく、nostalgic(懐かしい)という意味で使っています。

このことは、平安時代にも現代と同じく、「恋」という漢字にLoveとNostalgicの二つの意味を持たせていたという証拠でもあります。併せて、これらもここに記しますので、平安時代の「恋しい気持ち」を味わってみてください。

心にも あらで憂き世に ながらえば 恋しかるべき 夜半の月かな(第68番歌、詠み人:三条院 976-1017年)

【意訳】わたしの人生、いろいろ、よくないことが多すぎた。ああ、生きているのが辛いなぁ・・。でも、このまま生きていけば、きっといつかは、今夜の月のこの美しさを、懐かしく思い出すのだろうなぁ・・。よーし、頑張って生きていこう・・。

ながらえば またこのごろや しのばれむ うしと見し世ぞ 今は恋しき(第84番歌、詠み人:藤原清輔朝臣 1104-1177年)

【意訳】この先もずっと長く生きていったら、今の自分を懐かしく思うことがあるのだろうか。だったら、今少し頑張って、生きていかなくちゃあ・・。だって、あの頃の自分は、この世の中を嫌だ嫌だと思っていた。そんな自分が、今は恋しく思い起こされるだから・・。

これらを詠むと、Nostalgicは、思う通りにならない、手の届かないところにある、という意味においても、また、とても心躍る嬉しい気持ちがそこにあった”懐かしい思い出”という意味においても、「恋」に重なる部分があるうように思えます。

LoveとNostalgic、日本語の漢字では同じ「恋」を用いることから、その感情には共通する部分があり、その根底には同じ精神作用があるのかもしれません。

【百人一首に関する記事の目次は、以下にございます】

ご一読、お願いいたします。

百人一首/意訳で楽しむ/恋、人生・世の中、季節・花、名月など

読んでくださり、ありがとうございます。