同じ語句
百人一首には「歌は異なるけれども、同じ語句を使っている歌が多い」という特徴があります。
たとえば・・・
「秋」:12首に詠まれています。
「月」:11首に詠まれています。
「恋」:10首に詠まれています。
これらは名詞を取り上げていますが、動詞に目を向ければ「思ふ」「逢ふ」なども多く使われています。今度、意識して詠んでみてください。すぐに目に留まると思います。
(画像はイメージです/出典:photoAC)

最初の五文字が同じ
そして、さらに・・全く同じ語句で始まるのに、異なる歌が存在します。
言葉にはそれぞれに意味がありますから、同じ意味を使えば同じような意味合いの歌になりそうです。でも、実際は異なる感慨の歌になっています。
それでは、それらの歌は、その言葉の意味にどのような解釈を与えようとしたのでしょうか。そして、その言葉を使ってどのような感慨を歌に込めたのでしょうか。これが、この記事のテーマです。
1.同じ出だしなのに、同じでない歌
小倉百人一首の中で、上の句の五文字が同じ「出だし」の歌は、以下の三通りです。

あさぼらけ ~ (第31番歌)
あさぼらけ ~ (第64番歌)

きみがため ~ (第15番歌)
きみがため ~ (第50番歌)

わたのはら ~ (第11番歌)
わたのはら ~ (第76番歌)
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【意訳 /Free translation】
※歌の解釈では、意訳〔Free translation〕をおこなっています。既存の解釈は多々簡単に入手できること、歌の意味の広がりを味わうところに鑑賞の楽しみを見出したい、という二つの理由によります。
以下の意訳は筆者によるものです。
2.あさぼらけ~(二首)

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

〔意訳:Free translation〕
朝がほのぼのと明けてきた頃にね、ずいぶんと明るい朝だったものだから、てっきり有明の月が出ているんだと思ったんだ。でもね、よーく見たら、辺り一面、雪が真っ白く積もっていたんだ。吉野の里に降り積もった白雪、なんだか感動するよね。

朝ぼらけ 宇治の川霧 絶えだえに あらはれ渡る 瀬々の網代木

〔意訳:Free translation〕
朝がほのぼのを明けて、宇治川にかかっていた霧がだんだんと所々に晴れてきたよ。ほら、見てごらんよ、霧の晴れたところには、網代木が見え隠れしている。この景色、冬が来たんだねぇー。

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【語句の意味】

語句の意味から紐解いてみましょう。私の手元にある〔角川 必携 古語辞典 全訳版(平成9年初版)〕には、以下ように解説してあります。(以下同じ)
あさぼらけ
「あさぼらけ〔朝朗け〕」:朝、空がほのかに明るくなること。夜明け方。「あけぼの」よりもやや明るくなったころ。
有明の
「有り明け」:月が空に残ったまま、夜が明けること。また、その時分。
網代木
網代に用いる杭のこと〔網代(あじろ):漁具の一首。川の瀬に竹や木を編んで先端がすぼまるように並べ、先端に簀(す)を置いて魚を捕らえる仕掛け。晩秋から冬にかけて氷魚(あゆの稚魚)などをとる〕
【解説】

〔叙景的〕〔経過する時間の、その一瞬を捉える〕
この二首は、目の前の景色をありのままに詠んでいる「叙景的な歌」です。そして、その景色の中に「刻一刻と変化していく時間」が詠み込まれています。
31番歌では「有明」という時間、それは夜明けというドラマチックな時間の経過の中のほんの一瞬です。さらに雪は有明の月の明るさと見間違えるほどに降り積もっているわけですから、そこにも時間の経過を感じることができます。
64番歌では「絶えだえに あらわれ渡る」という部分に、時間の経過とともに、とぎれとぎれに霧が晴れていく、そういう時間の経過が読み取れます。
もちろん「朝ぼらけ」という、同じ時間の景色を詠んでいることにも注視してみたいと思います。きっと「朝ぼらけ」そのものが感慨なのですね。

さらに、こんな共通項を見つけることもできます。
・地名を詠んでいる。
・いづれも、冬である。
・第三句が、いづれも動詞(「見るまでに」「絶えだえに」)
・第五句は、いづれも体言止め(白雪、網代木)
このように理解してみると「朝ぼらけ」という語句を使って、まだまだいろいろな歌を詠めそうですね。歌の世界が広がっていきます。・・このような理解の仕方が、私がお勧めする ”詩歌を楽しむ、ひとつのコツ” なのです。

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3.きみがため~(二首)

君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ

〔意訳:Free translation〕
あなたのことを思って、私は春の野にきましたよ。まだまだ寒くて舞う雪が私の衣手に積もっていきます。でもね、私はね、あなたに春の若菜を召しあがってほしいのです。若菜を召しあがれば元気を頂けます。わたしにとって大事なあなたですからね。雪も寒さも関係ありません。

君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

〔意訳:Free translation〕
私は貴女が好きで、貴女に逢いたい一心で、貴女に逢うためならばこの命だって惜しくはありません・・と思っていました。
でも、こうやって貴女に逢うことができた今、私は貴女の素晴らしさ、貴女の魅力を益々この胸に感じるようになりました。
私は今、貴女と一緒にいつまでもいつまでも、末長く生きたいと思っています。ずっと一緒に生きていきましょうね、大好きです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】

「君がため~」という感情から、一方では「若菜を摘む」という行為を伝え、一方では「長生きしたい」という願望を伝えようとしています。
同じ「君がため」という言葉なのに、求めるところは大きな違いです。
つまり「君がため」は、とても幅の広い、奥行きも深い「意味」を沢山内包している言葉だと言えるでしょう。

たとえば、大好きな〇〇さんのことを思いながら「君がため~」と想像してみてください。・・・さあ、いったい何を思い浮かべましたでしょうか。
それが何なのかによって、今の〇〇さんへの思い入れの性質や強弱がわかるかもしれませんね。
詩歌の鑑賞は、自身の状況に照らし合わせて考えてみる、いい機会を与えてくれるときがあります。詩歌の楽しみ方のひとつです。

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4.わたのはら~(二首)

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出ぬと 人にはつげよ あまの釣船

〔意訳:Free translation〕
どこまでも広がっている蒼い海。沢山の島々があっちにもこっちにも浮かんでいる。ああ、私の乗った船は、いよいよこの海原に出ていきます。ああ、そこを通る漁師さん、お願いです、どうか家族に伝えてください・・私は独り、この海原に浮かぶどこか遠くの島へ行ってしまうのだと。

わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白浪

〔意訳:Free translation〕
広い海にひとたび出れば、見てごらん。遥か沖には、空に流れる雲と見間違うかのような、白い波が踊るように立っているよ。美しいねぇ・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【語句の意味】
わたの原:(海の原)「原」は広い所の意味。広い海。うなばら
八十 :(やそ)はちじゅう。また、数の多いこと。たくさん。
八十島 :「多くの島」という意味になります。
あま :(海人)漁夫、漁師。
雲居 :(くもい)雲のある所。空。
久方 :(ひさかた)天、日、月、雲などにかかる枕詞。(枕詞なので訳す必要はありません)
【解説】
第11番歌には理由があり、その理由を知らないと分かりづらい歌だと思います。
〔理由〕作者はわけあって、当時の嵯峨上皇により隠岐の島へ流罪になります。この歌は、隠岐の島へ出発する時に詠まれたものだそうです。この歌の「人」は、おそらくは、とても親しい人、つまり家族、恋人、友人だったと思われます。

ただ、詩歌というものは、あまり解説などは読まずに、表現された語句だけで味わいたいものです。
そう思ったとき・・・私は「人にはつげよ」の部分に、ある詩の一節を思い出しました。佐藤春夫の「あはれ秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ」です。(佐藤春夫「秋刀魚の歌」)
人は、自分が自分の意に沿わない状況にあるとき、大切な人を思って「ああ、今のこの私の状況を、あなたにだけは知ってほしい」と思うのだと思います。
そういう感慨を感じさせる、悲しくて孤独で痛々しい歌なのです。

76番歌は、ただただ目の前に広がる大海原を十七文字に表現した、飾り気はなく豪快な歌ですね。体言止めが感慨を強めてくれています。
参考

読んでくださり、ありがとうございます。