
(画像はイメージです/出典:photoAC)
この記事では、”百人一首の中から同じ言葉を詠んでいる複数の和歌” を題材にしています。
今回は「花」を詠み込んでいる六首について解説しました。
花
既存の解釈にとらわれず、自由な発想で鑑賞を楽しむという視座に立ち、意訳【Free translation】を試みておりますこと、あらかじめご了承くださいませ
目 次

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1.百人一首に数多く詠まれている「同じ言葉」
(1)視点:百人一首に多く登場する「同じ言葉」
百人一首を詠むと、「同じ言葉」が複数の歌に使われていることに気が付くと思います。
たとえば・・「君がため」
君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ〔第15番歌/光孝天皇〕
君がため 惜しからざしり 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな〔第50番歌/藤原義孝〕
「同じ言葉」が複数の歌に使われているということは、当時の人々はその「言葉」に多くの関心があったということです。そのように考えれば、百人一首に詠まれている「同じ言葉」を調べて、「同じ言葉」を使っている歌を鑑賞すれば、そこに当時の人々の心の拠り所を垣間見ることができるのではないでしょうか。(※当時の人々:百人一首を構成する和歌の成立時期=奈良時代~鎌倉時代の初期)
反論として、”百人一首は藤原定家が選者であるゆえ、「同じ言葉」の歌が偏って多いのは藤原定家の好みである” という意見があると思います。ただ、藤原定家も当時の人々の中の一人なのですから、決して全てが否定されることではありません、と考えました。
以上のように考えて、「同じ言葉」が何首に詠まれているのかを探ってみました。すると、以下のことが明らかになりました。
普通名詞では、たとえば・・・
「秋」:12首に詠まれています。
「月」:10首に詠まれています。
動詞では、たとえば・・・
「思う」:20首に詠まれています。
「見る」:10首に詠まれています。
動詞と地名の両方では・・・
「逢う」は6首に、「逢」は「逢坂の関」「逢坂山」「逢坂」の 3首に、各々詠まれています。
どうしてこのように「同じ言葉」が多く使われているのでしょうか。「同じ言葉」の中には歌を詠む心に、何かとても日本人的な感性が潜んでいるようにも思えます。
(2)「花」を選んだ理由
上記の事実を踏まえて、私は「花」が何首に詠まれているのかを調べてみました。
なぜ「花」かといえば・・・「花」は、
「花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに」〔第9番歌/小野小町〕であまりにも有名であり、高校時代に初めて百人一首と出会ってから、この歌の「花」が印象深く記憶に残っていたという、私の個人的感想がひとつあります。
また「花」という具象は、美しいもの、眺めるもの、癒されるもの、愛でるもの・・などの対象であることから、当時の人々が「花」にどのような興味を抱いていたのかを検証してみたく思いました。
そして調べると、「花」という言葉は、百首の中の六首に詠まれていました。いろいろな歌を選んで百首にすることを前提に考えれば、六首に「同じ言葉」が使われていることは、先に挙げた「秋」や「月」「恋」のように偏っているなと思います。きっとワケがあるのでしょう。
※「いにしえの~」で始まる第61番歌に詠まれている「八重ざくら」、「高砂の~」で始まる第73番歌に詠まれている「尾の上の桜」も花ではありますがここでは除いております。あくまで「花」という言葉にスポットを当ててみました。

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2.「花」を詠んでいる六首、一覧
※ 各々の下線部分・・・「花の色は」「白菊の花」「花の散るらむ」「花ぞ昔の」「花よりほかに」「花さそふ」の句に、「花」が詠まれています。
花の色は
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに
〔第 9番歌、小野小町(生没年不詳)〕
白菊の花
心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどわせる 白菊の花
〔第29番歌、凡河内躬恒(生没年不詳)〕
花の散るらむ
久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
〔第33番歌/紀友則(生没年不詳)〕
花ぞ昔の
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
〔第35番歌、紀貫之(生年不詳-945年〕
花よりほかに
もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし
〔第66番歌/大僧正行尊(1055-1135年)〕
花さそふ
花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
〔第96番歌/入道前太政大臣(1171-1244年)〕
「白菊の花」は「白菊という名の花」という意味で花を詠んでいる以外、言外に深い意味はなさそうに思えます。それでは、これ以外の五首に目を向けてみましょう。
「白菊の花」以外の五首については、それぞれに、”時間の推移” と、それに逆らえない ”人生” が見えてきます。
そして、〔時間の推移に逆らえないからこそ、花にも、人生にも、”唯一の美しさ” がある。でもそれは時間の推移に逆らえずに衰えていくのだ〕という ”嘆きのようなもの” を感じさせます。
この ”嘆きのようなもの” こそが、これらの和歌が内包しているテーマではないかと思われます。
これらの五首から読み取れるテーマは、「時間の推移」「人生」「唯一の美しさ」「嘆き」 です。それでは、次の段落で各々の歌を鑑賞してみましょう。
3.「花」を詠んでいる六首、解説
※ 意味は意訳〔Free translation〕、解説は「花」の扱われ方に焦点を当てました。
花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに
〔意訳〕花はどんなに美しくても、いつかは虚しく色褪せ、そして衰えていくのです。私の美しさも、この世に生きていろいろな人と出会いそして過ごし、物思いにふけったりしているうちに、虚しくも衰えてしまいました。ああ、生きるとは、なんて切ないものなのでしようか。
〔解説〕平安時代の頃は花といえば桜を指すらしいのですが、何の花なのかは問題ではないと私は思っています。この「花」は「私」であり、私を花に見立てていることが、この和歌の大事なところです。そこには、作者の自信と高い自尊心が垣間見えます。
そして「花にように美しかった私。私の美しさが衰えたのは、私は美しい花と同じだから」と云うことによって、衰えた「私」への悔しさや嘆きを、少しでも和らげようとしているように感じます。
・「ふる」は ”月日を経る” と ”(雨が)降る” を掛けています。
・さらに「ながめ」は ”長雨” と ”眺める” を掛けています。
雨が降れば「花」はダメージを受けやすくなるように ”月日を経るということは辛いこともいろいろ経験をして、それが心身にダメージを与えてきた” という解釈もできるのではないかと思います。
どちらにしても、衰えた美貌への言い訳をして、衰えた自分を嘆きたいのだと思われます。これらのことから、「花」を「自分の一番美しい時の象徴」として理解していると思われます。
心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどわせる 白菊の花
〔意訳〕あなたが白菊を欲しがるのなら、私が当てずっぽうに摘んでみせましょう。でも、ご覧なさい。初霜が降りて辺り一面が真っ白ですよ。初霜なのか白菊の花なのか、見分けがつかなくなっています。
〔解説〕霜が降りて白菊の花の在処がわからなくなっているようです。もしも絵に描いたら、真っ白く塗りつぶすことになるのでしょうか。雪が積もらない限り、霜でそんなことは無いと思われるので、”初霜も白菊も、その白く輝く姿が同じように美しかった” という理解が妥当だと思われます。
ここでの「花」の扱いは ”白菊という名の花” であり、花という具象への特別な思い入れはないようです。
久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
〔意訳〕今日は、穏やかな春の日差しが射して、のどかな春の一日ですよね。なのに、花は、この春の日の穏やかさを分かっているのでしょうか。花は、どうして、あんなふうに落ち着きなく散っていこうとするのでしょうか。私は残念でなりません。でも、現実というものは、何がどうあれ、時がくれば花は散っていき、そして、人も変わっていくのですね、ああ・・。
〔解説〕「花が散る」そこには時間の推移があります。「花が散る」それは自然の摂理です。そして、人の世も同じこと。穏やかな春の日にだって人は死ぬのです。つまり、 ”時間の推移” ”自然の摂理” には逆らえない「嘆きの象徴」として「花」を理解しいるようです。
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
〔意訳〕人の心っていうものはさ、変わるものなんだよね。自分が思っているように、いつまでも相手が思ってくれているなんて大間違いだよ。人の心なんて分からないものさ。でもね、知っているかい? 故郷の花はね、昔のままでいてくれるんだよ。嬉しいね~。私が行けば、昔と同じように香って、私を迎えてくれるんだ。いつでも変わらない花って、いいよね。
〔解説〕花は色あせて枯れていくものです。でも、次の年にまた同じように咲くんですね。そういう意味では、花は変わらないものなのです。人はどうでしょうか。人は心変わりすることもあります。そして、人は年をとれば老けていくだけです。若返ることはありません。
毎年同じように咲くという意味では「花はいつも同じ」・・その美しさ、その心地よい香りを毎年楽しませてくれます。花は、人の心のように裏切らないのです。つまり、「花」は唯一安心できる、心の拠り所なのです。
もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし
〔意訳〕山ざくらよ! 山の中に誰にも愛でられることなく、ひっそりと咲く美しい山ざくらよ! 私がおまえを「あはれ」と思うように、おまえも私を「あはれ」と思っておくれ。私のことを分かってくれるのは、山ざくらよ、おまえしかいないんだ・・、ああ「あはれ」だ。
〔解説〕ここに詠まれている「花」は、言葉の通り「山ざくら」であることが分かります。それでは、山ざくらにはどのような特性があるのでしょうか・・。それは「山の奥にひっそりと誰にも知られずに美しく咲いている」という特性です。そこがこの和歌の大事なところです。
意訳では「あはれ」を敢えて訳さずにそのまま「あはれ」としました。「あはれ」には微妙に異なるニュアンスが多くがあるので、読む人の感性に任せて「あはれ」は「あはれ」と理解した方が適切であると考えたからです。
ちなみに、私の手元にある古語辞典(角川 必携古語辞典 全訳版 平成九年 初版/発行:㈱角川書店)を開くと、「あはれ」は「しみじみと深く感動したときに発する語」という説明を冒頭に、それに類する意味が辞書の約一頁に渡って長々と書かれています。
・「もろともに あはれと思へ」の「もろともに」は「諸共」で、「私も山ざくらも共に」という意味です。山ざくらを擬人化していて、上の句は次のような意味と思われます。
「山ざくらよ、美しいおまえに私が「あはれ」を感じるのと同じように、おまえも私を「あはれ」と思ってくれているのだね」
ここで立ち止まり意識してほしいことがあります。〔山ざくらを擬人化して、山ざくらが自分のことを「あわれ」と思っている〕としていることは、作者の都合のいい自分勝手な思いだということです。
つまり、この和歌は、”山ざくらに自分のことを「あはれ」と思わせる” という、自己中心的な発想を是とした上になりたっているのです。
そして、そこから想像を膨らませると、次のような解釈も生まれます。
「本当は実力も自信もあるのに、ある理由があって山の中で隠遁生活をしている私。私の本当の良さを分かってくれるのは、山ざくらよ、おまえだけだよ。ああ、山ざくら。おまえだけが私の慰めだ・・」と、山ざくらに救いを求めているようです。
人は、自分のことを分かってくれたら嬉しいものです。この和歌では「花」を自分のことを分かってくれる唯一の相手として描いています。作者の思考の中で、作者自身に都合よく描いている結果です。
そして、この和歌を詠む時、そのことを気にもせずに肯定的に鑑賞できるということは、人は皆、自分の思いに都合よく生きている証でもあります。なので、たいして気にもせず、次のような「花」への理解が生まれます。
自分のことを分かってくれる唯一の存在・・・大事で、愛おしくなりますね。
つまり ”「花」=唯一の愛すべきもの” なのです。
花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
〔意訳〕春の嵐のような風が、桜の花を誘うようにして吹いています。花びらは風に舞いながら、辺り一面まるで吹雪いているように散っていきます。ああ、でも、よく考えてみれば、私だって、桜が散っていくように、老いぼれていつかは死んでしまう身なのです・・悲しい。
〔解説〕「花さそふ」を「桜誘う」と読み換えると、分かりやすくなります。桜を誘うのは「嵐(のような風)」であり、風に舞って散っていく桜吹雪が「雪」のように見えているのです。
・もうひとつのポイントは下の句の「ふりゆくもの」です。「ふる」は「降る」と「古る(昔のものとなる、年をとる)」を掛けています。つまり、「降る」のは桜吹雪だけではなく、「古る」のは衰えていく我が身なのです・・ああ、悲しい、という意味です。
ここには、「花(桜)」⇒ 散る ⇒ 時間の推移 ⇒ 我が身も時を経て散っていく ⇒ 悲しい ⇒ 嘆き・・という流れが読み取れます。
つまり、”自然の摂理には逆らえない「花」の命 = 自分の命” がそこにあるわけです。

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4.まとめ:「花」に感じる「時間の推移」「安心」「唯一」
※前節で解説した「花」への理解の仕方について、そこの部分だけを抜き出してみました。このように並べてみると、当時の人たちの「花」への思いがよく分かります。e
(1)「花の色は うつりにけりな~」から分かること
★「花」は「自分の一番美しい時の象徴」
どちらにしても、衰えた美貌への言い訳をして、衰えた自分を嘆きたいのだと思われます。これらのことから、「花」を「自分の一番美しい時の象徴」として理解していると思われます。
(2)「久方の 光のどけき~」から分かること
★「花」は自然の摂理には逆らえない「嘆きの象徴」
「花が散る」そこには時間の推移があります。「花が散る」それは自然の摂理です。そして、人の世も同じこと。穏やかな春の日にだって人は死ぬのです。つまり、 ”時間の推移” ”自然の摂理” には逆らえない「嘆きの象徴」として「花」を理解しいるようです。
(3)「人はいさ 心もしらず~」から分かること
★「花」は「唯一安心できる、心の拠り所」
毎年同じように咲くという意味では「花はいつも同じ」・・その美しさ、その心地よい香りを毎年楽しませてくれます。花は、人の心のように裏切らないのです。つまり、「花」は唯一安心できる、心の拠り所なのです。
(4)「もろともに あはれと思へ~」から分かること
★「花」は「唯一愛すべきもの」
人は、自分のことを分かってくれたら嬉しいものです。この和歌では「花」を自分のことを分かってくれる唯一の相手として描いています。
自分のことを分かってくれる唯一の存在・・・大事で、愛おしくなりますね。つまり、”「花」=唯一の愛すべきもの” なのです。
(5)「花さそふ あらしの庭の~」から分かること
★「花」も「私」も自然の摂理には逆らえない
ここでは、「花(桜)」⇒ 散る ⇒ 時間の推移 ⇒ 我が身も時を経て散っていく ⇒ 悲しい ⇒ 嘆き・・という流れが読み取れます。つまり、”自然の摂理には逆らえない「花」の命 = 自分の命” がそこにあるわけです。ここには「花」は美しいものだけれども、そこには「無常観」も感じられるものとして捉えられ、そこに「あわれ」が感じられるのだとしたら、それが日本人の持つ思考の特性なのかもしれません。
【内省】
これら六首の「花」を詠んだ和歌の中で、私が好きな和歌は、
「もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし」です。
この和歌は、私が、山ざくらと勝手に会話しています。
私には、山の中に居なければならない理由があり、孤独だったのかもしれません。私は、寂しさに我慢できなかったのかもしれません。私が詠う「もろともに あはれと思え」という冒頭は、独り善がりでもあり、ナルシストのような気配さえも感じられます。
でも、それでいいのです。それは私の自己内省の結果、自分を自分で慰めているからです。
この和歌では、そのための道具として「花」を使い、そして「花」にも「自分」にもスポットライトを浴びせたのです。なぜなら、私が世間に出ても、スポットライトを浴びることはないからです。
山の中でスポットライトを操作し「自分」に当てたのは、私という自分です。
誰にも迷惑をかけないという前提の上で、
人は、自身の幸せや安心を願うとき、ある程度 ”自分に都合のいい考えを持って”、”自分を愛していくこと” も大切なことなのかもしれません。そしてそれが、人生に多々ある困難を乗り越えていく”ひとつの手段なのかもしれない・・” とも思いました。
「もろともに あはれと思へ 山ざくら~」・・この和歌は、そのような「生きる工夫」を教えてくれているのかもしれませんね。
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読んでくださり、ありがとうございます。