小倉百人一首には、季節の情感を素材にしている歌がたくさんあります。その中から、「春」への情感を歌の素材にして、恋や人生の悲哀を詠っている事例を解説いたします。
春
ブロックのひとつは、
「春」という言葉そのものを歌に詠み込んで、恋や人生を詠んでいる歌です。
そして、もうひとつのブロックは、
使われている言葉から春が想起され、それらを素材にして恋や人生を詠んでいる歌です。
※当時の暦では、春は1月2月3月、夏は4月5月6月、秋は7月8月9月、冬は10月11月12月であることも念頭に置いてお読みくださいませ。
なお、解釈については、意訳【Free translation】を試みました。理由は以下のとおりです。
①直訳は、世間に沢山存在していて手に入れやすいけれども、意訳した解説は少ないからです。
②意訳は、詩歌の味わいと楽しみを広げてくれる最高の手段だと、私は思っているからです。
目 次
1.「春」を素材にして、春や、世の中・人生、恋などを詠んでいる短歌、三首
(1)百人一首〔第15番歌〕/君がため 春の野に出でて 若菜つむ~
(2)百人一首〔第33番歌〕/久方の 光のどけき 春の日に~
(3)百人一首〔第67番歌〕/春の夜の 夢ばかりなる 手枕に~
2.春の情景を素材にして、春や人生の悲哀を詠んでいる短歌、六首
(1)百人一首〔第 9番歌〕/花の色は 移りにけりな いたずらに~
(2)百人一首〔第35番歌〕/~ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
(3)百人一首〔第61番歌〕/いにしえの 奈良の都の 八重ざくら~
(4)百人一首〔第73番歌〕/高砂の 尾の上の桜 咲きにけり~
(5)百人一首〔第66番歌〕/~山ざくら 花よりほかに 知る人もなし
(6)百人一首〔第96番歌〕/花さそふ あらしの庭の 雪ならで~
1.「春」を素材にして、春や、世の中・人生、恋などを詠んでいる短歌、三首
第15番歌

君がため 春の野に出でて~
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
【意訳】
そろそろ春が来るね。君のために若菜を摘んで、君に届けようと思ってね、野山に来たんだ。そうしたら、春といってもまだ寒むくて、雪がちらちらと降っていて、わたしの袖にも雪が降りてきたよ。でもね、君のことを思えば、こんな雪なんか平気さ。春の若菜、沢山摘んだよ。君の元へ届けるからね、待っていてね。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「若菜」:セリ、ナズナなど食用になる春の草。無病息災を願って粥にして食べる風習があったそうです。後の「七草粥」の元になった春の草のようです。
・特に難しい語句や修辞はなく、言葉の通りに解釈していい歌だと思います。既存の解説は横に置いておいて、語句の通りに解釈すれば「君がため」と詠っているところから、恋歌といえなくはないと思います。(※百人一首の恋歌は四十三首とする通説の中には数えられていません)

雪がちらちら降る、まだ寒い春の日・・なのに、君のためを思って若菜をつんでいるんだよ・・という作者の健気な気持ちを想像して味わいたい歌ですね。
ただ、既存の資料はそういう自由な発想を邪魔するかのように、作者のことや歌を詠んだ背景などを解説しています。
それはそれでかまわないのですが、私としては、詩歌の味わい、詩歌の解釈というものは、言葉だけから想像していくところに、その楽しみがあるのだと思っています。
なので、意訳のような解釈をしてみました。
◆ ◆ ◆
第33番歌

久方の 光のどけき 春の日に~
久方の 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ
【意訳】
春が来たよ。春の陽光は、ポカポカしていて、穏やかで、落ち着いているなあ。なのに、桜の花ときたら、この間まできれいに咲いていたと思ったていたのに、もうハラハラと急ぐように散っていくよ。まったく、桜の花は、どうしてそんなに先を急ぐのだろう。春が終わってしまうじゃあないか。でもなあ、桜が散っていく様子は、世の中が常に変わっていくものっていうことを教えてくれているんだろうなぁ・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「久方の」:これは、和歌の修辞に使われる枕詞(まくらことば)のひとつです。なので、この言葉自体に訳を求める必要はありません。「久方の」の場合は「日、天、月、雲、光・・」などに掛かります。
「光のどけき」:「のどけき」は「長閑けし(のどけし)」⇒ 気持ちが落ち着いている、ゆったりしている。⇒ 「陽光が落ち着いている」という意味です。
「しづこころ」:「静心」、静かな心、落ち着いた心。

どんなものにも命があって、そのい命には必ず終わりがあります。美しく咲く桜も、またしかり。
桜の花がハラハラと散り、風に舞いながら地面に落ちて、そして土にまみれていく・・その姿には寂しいものがありますね。
でも、そうやって終わるからこそ、新しい葉が芽吹き、季節は次の季節へと移り変わっていくのですね。
終わりは悲しいけれども、終わりは始まりでもあります。
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第67番歌

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に~
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそ惜しけれ
【意訳】
まあ、びっくり。貴方は、わたしに手枕をしてくださるのね。そんな素敵なこと、まるで春の夜の夢のようです。でも、わたしが、もしも貴方の手枕を受け入れたら、貴方との噂が立ってしまうわ。そんなつまらないことになってしまったら、わたし、とっても悔しいです。わたしはね、儚い夢のような恋ではなくて、もっと真剣な恋がしたいのよ。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
この歌は詞書(ことばがき)に頼らないと、言葉だけでは分からない歌です。なので、私の手元の資料を元に、この歌の詞書(ことばがき)を要約してみます(参考:「百人一首」ちくま文庫/2010年第15刷)
詞書の要約:【春の夜に、女房たちと世間話に興じていた作者は、物に寄り伏して「枕が欲しい」と言った。それを傍らで聞いていた藤原忠家という男が「これを枕にどうぞ」と、すだれの下から自分の腕を差し出してきた。その行為に対して、作者はすかさずこの歌を詠んだ。】
「かひなく」:「甲斐無し」のこと ⇒ 無駄だ、役にたたない、つまらない、などの意味。⇒ 何がつまらないかと云えば「私に腕枕を差し出してきた男との噂が立つこと」です。
「たたむ」:「たつ」+「む」(仮定)。「たつ」には様々な意味があります。ここでは「人に知れ渡る」という意味です。現代語にも「噂がたつ」という言い方がありますね。
「む」:この助動詞は重要です。仮定を表し「もしも~ならば・・」という意味を作り出しているからです。つまり「かひなくたたむ」は次のような意味になります。
「かひなくたたむ」: 「もしも、つまらない噂が立ってしまったら・・・」という意味です。

「春の夜」はこの歌の肝だと感じます。なぜなら「春の夜」は「春の短い夜の夢」のように儚いものとして例えられていたからです。秋の夜の反対ですね。
男が腕枕をさっと差し出した、その行為には自分を心から思ってくれる真摯な愛情はなく、ちょっとした遊び心でしかないのだ・・・つまり儚い夢なのだと、作者は思ったのかもしれません。
つまり、相手の男はチャラ男ですね。作者としては、チャラ男との噂が立つことが、自尊心を傷つけることだったのだと、私は感じています。
しかも「春の夜の夢」なのです。
そんな儚い夢のような出来事から、チャラ男との恋の噂が立ってしまったら、それは作者によって、とても口惜しいことなのです。
さらに想像すれば、作者は真剣な恋に憧れていたのだと思います。だれだって、真剣に愛して真剣に愛されたいですからね。
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※第7番歌にも「春」の字が使われていますが、これは「春日(かずが)」と読み、奈良にある地名です。そこには、有名な春日大社があります。季節の春のことではありません。
〔第 7番歌〕天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
この歌については、〔日本の名月⑧/天の原~三笠の山にいでし月かも/百人一首7番歌〕で解説しましたので、こちらを参照願います。
花と春
2.春の情景を素材にして、春や人生の悲哀を詠んでいる短歌、六首
第9番歌

花の色は 移りにけりな~
花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに
【意訳】
ああ、桜よ。おまえは、ついこの間までは、あんなに美しく咲いていたのに、春の長雨に打たれているうちに、すっかり色褪せてしまったね。なんて虚しいんだ。実をいうと、私もね、あれこれと物思いにふけりながら毎日を過ごしているうちに、昔の美貌はどこかへ行ってしまったよ。昔はもてたんだけどねぇ・・、今じゃあ誰も振り向かないよ・・。なんて虚しいんだろうねえ・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
※「花」が桜を指すようになったのは古今集(905年)頃からだそうです。それ以前は「花」といえば梅を指すものだったようです。この歌では、花=桜ですが、この次に解説している第35番歌では、花=梅です。
※以下の三つの語句の働きと意味を知ることで、鑑賞の活路が開けます。
「いたずらに」:意味は「むなしく」。この「いたずらに」は「移る」と「ふる」の二つの動詞に掛かっています。つまり、「いたずらに 移りにけりな」、「いたずらに 我が身世にふる」という理解をします。
「ふる」:「(雨が降る)ふる」と「(時が経る)ふる」という掛詞です。
「ながめ」:ここも掛詞。「ながめ」は「長雨」と「眺め(物思いにふける)」二つの意味があります。

作者は小野小町。百人一首は知らないけれども、耳にしたことはある、という人は多いのではないでしょうか。
小野小町はこんな歌も残しています。「移る」「変わる」「無常」ということを常に意識していたようですね。以下、古今集からです。
「色見えで 移ろうふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける」
(花の色の衰えは目に見えるけれども、人の心が変わってしまうのは分からない。心には、目には見えない心の花があるのよね)
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第35番歌

~花ぞ昔の 香ににほひける
人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
【意訳】
あなたの気持ちは、さあ、わたしにはわかりません。でもね、この故郷に咲いている梅は、昔と同じように変わらないで、美しく咲いて私を迎えてくれているんですよ。人の心は変わっても、美しく咲く梅の花は変わらないんです。人の心は残酷だけど・・、花は、いいなあ・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「いさ」:副詞であり、意味は「さあ・・どうだか」。多くはこの歌の使い方のように「しらず(知らず)」を伴って使われます。
「にほひける」:現代語の「匂う」「香る」ではなく、意味は「美しく映えている/美しく色づいている」という意味です。

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第61番歌

いにしえの 奈良の都の 八重ざくら~
いにしえの 奈良の都の 八重ざくら 今日九重に 匂ひぬるかな
【意訳】
今は昔となってしまいましたが、栄えていた奈良の都には八重桜が咲き誇っていたのですよ。その八重桜が、今のこの宮中に美しく咲き誇っているではありませんか。この宮中も、栄えていた奈良の都と同じように、ますます栄えていってほしいですね。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「匂いぬるかな」:「匂う」は直前の第35番歌でも使われていました。現代語の嗅覚に訴える匂いではなく「美しく映えている/美しく色づいている」という意味です。ここでは「美しく咲き誇っている」と解釈しました。
「九重」:読みは「ここのえ」。宮中のことです。昔の中国では宮中は九つの門で囲まれていたことから、九重=宮中という意味になるそうです。
「いにしえ(昔)」と「今日」という、過去と現在の対比、つまり時間の経過という感慨を、見逃さないようにしましょう。

八重桜は濃い桃色に色づき、花弁はふさふさしています。同じ桜でも、そめいよしのとは異なり、八重桜には豊潤に栄えている輝きがあるように、私は感じています。
そのような視覚的感慨を味わいながら、過去(奈良の都)や今の宮中に寄せる作者や万人の思いを感じていけたらいいな、と思います。
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第66番歌

もろともに あはれと思へ 山ざくら~
もろともに あはれと思へ 山ざくら 花よりほかに 知る人もなし
【意訳】
山桜よ、おまえはこんな山奥にひっそりと咲いていて、その姿は綺麗なのに、寂しいなぁ・・。山桜よ、私と一緒になって、私のことを寂しい奴だと思ってくれないかなぁ・・。私の寂しい心を分かってくれるのは、山桜を、おまえしかいないんだ。ああ、辛い・・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「もろともに」:一緒になって。
「あはれ」:様々な意味がありますが、おおよそは「しみじみと深く感動している様子」を表しています。この意訳では「寂しい」「辛い」などの意味を当ててみました。

「あはれ」の解釈によって、この歌の感慨は異なります。みなさんにおいては「あはれ」の意味を調べて、自分なりの解釈を楽しんでほしいなと思います。
私としては「あはれ」を「花よりほかに知る人はいない」と嘆いているように感じたので、「寂しい」という意味に理解して解釈してみました。
奥深い山の中、山桜を相手に一人語っている作者を想像すれば、孤独・寂しい・辛い・・などの言葉が想像されます。
◆ ◆ ◆
第73番歌

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり~
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ
【意訳】
見てごらんよ。向こうに見える山の高いところで、峰に沿って桜がいっぱい咲いているじゃあないか。きれいだなぁ・・。そうだ、手前の山にお願いしよう。霞を立てて、あの桜を隠して見えなくするなんてこと、ないようにね。お願いだよ。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「高砂」:砂を高く積み上げた状態、つまり高い山を表しています。
「尾の上」:峰の上。山の頂上の尾根の部分。「尾の上の桜 咲きにけり」で、尾根に桃色が群生して連なっている様子が想起されます。
「外山」:音は「とやま」。奥山や深山に対する山、つまり人里に近い山のこと。この歌では、桜の咲いている尾根よりも手前の山を指しています。
「立たずもあらなむ」:終助詞の「なむ」は、文末で使った時には願望を表します。

枕詞とか、掛詞とか、縁語とか、倒置法とか、歌の技法に凝るところはなく、春の山々の情景をそのまま詠っています。
技巧と云えば、唯一、霞を擬人化している所だけです。
ある春の日に、遠くの山を眺めたら尾根に沿って桜が咲いているのを見つけたのでしょう。その時、手前の山にお願いをしたのです。
遠くと近く、奥と手前、そういう対比は絵画で云う遠近法ですね。インプットされる情報は文字という平滑な道具なのに、アウトプットされる情景は立体的です。
遠くに見える桜の群生が、ますます際立ってきますね。
◆ ◆ ◆
第96番歌

花さそふ あらしの庭の~
花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
【意訳】
この庭の様子を見てごらんよ。春の嵐のような強い風が、桜の花を誘って沢山の花弁を中空に舞わせているよ。辺りはまるで、雪が舞いながら降っているようだね。でもね、雪のように舞いながら降っているのは、桜の花ではないんだよ。舞いながら降っているように見える桜の花びらは、実は、老いて衰えていく私そのものなんだよ。ああ、月日は長く経ち過ぎた。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【解説】
「ふりゆく」:この歌の要点です。「(花が)降りゆく」と「(自分の歳が)古りゆく」の二つの意味があります。掛詞です。
「ふりゆくものは」:末尾の「は」によって「ふりゆくもの」が強調されています。

舞いながら降って落ちていく桜の花。その花びらは、池に地面に落ちて無残な姿をさらします。作者は、そこまで想像しているように感じます。
「あらしの庭の」:嵐のような強風は、人生を翻弄する世間や人間関係、そして社会環境などの象徴として用いたのかもしれません。
桜の花弁が強風で雪のように舞う、その情景は綺麗だと思われます。綺麗だからこそ「ふりゆくわが身」がよけいに辛く感じられるのかもしれません。
人生に無常を感じ、人生を諦観した、その一瞬の想いなのかもしれませんね。
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読んでくださり、ありがとうございます。