方丈記を読む
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の冒頭で有名な方丈記。
13世紀の初め頃に鴨長明によって書かれた、「無常」をテーマにした随筆です。
清少納言が記した「枕草紙」(10~11世紀初頃)、兼好法師が記した「徒然草」(14世紀前半頃)と併せて、古典日本三大随筆のひとつに数えられています。
また、後の文芸作品に影響を与えた優秀な和漢混淆文(漢字と仮名を混ぜた文章)としても有名です。
この度は、方丈記を読みながら「無常」を知り、人生の「無常」をどのように生きていったらよいのか、そのヒントを方丈記から頂きたいと思います。
今回は、その第1回目です。
ここでは、
・無常の真理を、自然界の営みを例にして数行にまとめた、有名な冒頭の「第一段」、
・無常の具体例を、人間界の営みを例えにして述べた「第二段」、
・そして、無常の源流を求めながらも「わからない」と述べ、住まいと人間の儚さは、朝顔や朝顔に宿った露と同じだと説いている「第三段」、
以上、方丈記冒頭の三つの段を取り上げます。
目 次
(画像はイメージです/出典:photoAC)
※〔語句の意味〕「角川 必携古語辞典 全訳版(平成 9年11月初版)」からの引用です。
第一段
行く河の流れは絶えずして…
第一段(原文)
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。
〔語句の意味/読み方〕
「しかも」:なお、その上に。
「うたかた」(泡沫):水のあわ。消えやすいので、はかないもののたとえに用いることが多い。
「例なし」:読み方「たとえなし」
「人と栖と」:読み方「ひととすみかと」(栖:鳥の巣、生き物の住む所⇒人々の住い)
第一段(現代語訳)
〔※ より分かりやすくするために、言外に想定される意味も含めて意訳いたしました〕
河の流れというものは、一瞬たりとも休むことはありません。なお、その上に、今そこにあった水は直ぐに押し流されてしまい、ひとつの所に留まることはありません。
淀みを見れば、淀みは流れていないように見えますが、泡沫は浮かんでは消えていき、同じ所に同じ形で留まることはないのです。
世の中に生きる人も、その住処も、河の水や泡沫と同じこと。変化のないように見えていても、実は、河の水や泡沫と同じように連続する変化の中にあります。そして、そこによこたわっている世の中の真理が「無常」なのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔解説〕
無常ということ
自分自身を振り返ってみましょう。
:昨日の自分と、今日の自分・・変わりません。
:でも、昨年の自分と、今年の自分は・・少し変化がありました。
:さらに、10年前の自分と、今の自分とでは・・大きな変化がありました。
10年前の自分に、10年後の今の自分を想像できたでしょうか?
たとえ10年前に10年後の自分を思い描くことはできても、それは願望や想像であり、いい当てることはできません。
人は常に欲望を持ち、夢や目標を描きながら生きているので、変化は当然にように生まれます。そして、予期せぬ変化も起こります。
なぜなら、一定の速さで流れる時間そのものは「不変」ですが、時間の流れは自然にも人間にも「変化」をもたらすという真理があるからです。
この変化が「常は」は「無い」、つまり無常ということです。
そして、人生の無常には、もうひとつ大事なことがあります。
それは、無常は「生きている間」は、「生きている」という「不変」も併せ持っているということです。「不変」が有るからこそ「変化」は強調されるのです。
つまり、
「生きている」=「不変」、なおその上に、「変化している」
この二つが合わさったものが「無常」です。
「不変」は時間軸、「変化」はその時々の現象です。まるで、数学の積分と微分のようですね。
私達は「変化している」ことだけを「無常」と捉えがちですが、「変化」には視覚的な訴求があり、私達が体感しやすいからに他なりません。人生の「無常」は「不変」も併せ持っているのです。
「流れは絶えずして」=「不変」なのに、なおその上に、「もとの水にあらず」=「変化している」
そこに「無常」があります。
方丈記の冒頭、
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」は、このように、河の流れという自然界の不変の営みの中に「連続する変化」を見つけて、その「連続する変化」は「人と住処」にも同じことが言えると述べています。
「無常」という言葉は使っていませんが、「久しくとどまりたる例なし」の中に「はかなさ(儚さ)」は読み取れます。つまり、鴨長明は「久しくとどまらない儚さの中を、いったいどのように生きていけばいいのだろうか…」という問いを、ここで投げかかているように思えます。そこに「無常」というテーマが見いだされるのです。
そして、次の第二段では、
京都の町を「美しい玉を敷き並べたような都」と形容して、それらの住処と、そこに住む人の儚さを述べて、それらも水の泡と同じだ(つまり「無常だ」)と書き連ねていきます。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
第二段
玉敷の都のうちに…
第二段(原文)
玉敷の都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ねれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年焼けて今年造れり。或いは大家亡びて、小家となる。
住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。
朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
〔語句の意味/読み方〕
「玉敷」:(たましき)玉を敷き並べたように、美しく立派なこと。また、その所のたとえ。
第二段(現代語訳)
〔※より分かりやすくするために、 言外に想定される意味も含めて意訳いたしました〕
御覧なさい、美しい玉を敷き詰めたような立派な都には、沢山の家々が屋根の高さを競い合いながら棟を並べています。その中には、身分の高い人も低い人もいて、それらの住処は時代が変わっても同じように棟を並べているようです。はて? 本当に同じなのだろうかと、それらを調べてみると、実は、昔から続いている家は稀であることが分かります。
ある家は、去年火事で焼け、今年建て直したものです。ある家は、昔の大きなお屋敷は亡びてしまい、今は小さな家に変わっています。
そこに住んでいる人も、また同じこと。家のある場所も同じで、住んでいる人は多いけれども、昔から馴染みの人は2~30人の中の、わずか1~2人でしかないのです。
今日も何処かで、朝に死ぬ人がいるかと思えば、夕方には何処かの家で新しい命が生まれています。このような世の中の有り様は、淀みに浮かんでは消えて、消えては浮かんでくる水の泡と、まったく同じようなものです。つまり、自然界も人間の世界も、「無常」という真理の上に成り立っているのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔解説〕
朝に死に、夕べに生まるる…
第一段では、河の水の流れに「無常」を見出しました。
第二段では、その「無常」を具体的に説明するために、京都の町に建ち並ぶ家々と、そこに住む人々を例に挙げています。
昔も今も、家々は同じように建ち並び、人々は同じようにそこに住んでいます。でも、よく見れば、いつの間にか、その中身は変わっている、つまり変化しているというわけです。
第一段の自然を題材にした話から、第二段ですぐに人間の営みの話を展開したのは、「無常」を感じるのは人間であり、人間の生活の中の「無常」への観察無しに「無常」は語れないからだと思われます。
そして、住居とそこで暮らす人々が変わっていく有り様は、第一段で述べた「水の泡」に似ているということを「朝に死に、夕べに生まるるならひ」という印象的なフレーズで語っています。
次の第三段では、
冒頭の「知らず」という言い切りが、とても印象的です。
そして、初めて「無常」という言葉を使っています。
そしてさらに、第一段と同じように自然の中の儚さを引き合いに出して、「朝顔の花とそこに宿る露」と「人の生死」とは似ていると書いています。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
第三段
知らず、生まれ死ぬる人~
第三段(原文)
知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。
また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主と栖と、無常を争うさま、いはば朝顔の露に異ならず。
或るいは露落ちて花残れり、残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。
第三段(現代語訳)
〔※ より分かりやすくするために、言外に想定される意味も含めて意訳いたしました〕
私にはわかりません・・・、人は、この世に生まれ、そして死んでいくけれども、いったい何処からきて何処へ去っていくのでしょうか。
さらに、また、わからないことがあります。この世の住処は、この世に生きている間しか住むことのない、云わば仮の宿なのですよ。なのに、いったい誰の為に苦労をして建てて、何のために見た目を良くするために飾り立て、そして喜ぶのでしょうか。
その住処の主と住処は、はかなさを競い合うかのように、いつかは潰えていきます。その様子は、まるで、朝顔の花に宿る露と同じようなものだと、私は感じています。
或る日には、露は落ちてしまっても朝顔の花は残っています。でも、残るといっても、朝日が昇る頃には枯れてしまいます。
或る日には、朝顔の花が萎んでしまっても、露は消えないで残っている場合もあります。でも、その露だって夕方まで永らえることはできません。
朝顔の花も朝顔に宿る露も、はかないものです。人間の営みも、まさにその儚さと同じようなものなのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔解説〕
無常を争うさま、
~朝顔の露に異ならず。
第三段目にして、鴨長明は早くも核心に言及しました。
ひとつは、冒頭の「知らず」~「また、知らず」です。
鴨長明は「人の生死の理について、私はわからない」と言い放ちました。
さらに「人生は仮の宿なのに、何故、苦労して家を建てたり、それを飾って競いあったりするのか、私はわからない」とも書き連ねます。
「知らず」を二度使っています。
「わからない」ということを、強調したかったのでしょう。
ひとつは、「無常」という言葉を用いたことです。
「その主と栖と、無常を争うさま、いはば朝顔の露に異ならず」と説きました。
家を建てて飾り、それらを競うことは「無常を争うさま」であり、「すぐに消えて無くなる朝顔の露」と同じだと言っているのです。
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言い放たれた「知らず」「また、知らず」は、「自分はわからないと宣言すること」によって「自分は無知であることを自覚しています」と言っているようです。これらは鴨長明の「無常」に対する姿勢の表れという意味においてもキーワードになると思います。
鴨長明は、「無常な人生」を生きていく術を見出すためには、全ての先入観を捨てて、自分は無知であるという前提に立つことが大事だと、直観的に感じていたのかもしれません。・・・と、私はそんなふうに思っています。
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無常観
と
無常感
「無常」は「はかない」という意味ですが、
【無常観】は、「はかない考え方」など、対象に向かい合う固定した思いを意味します。
【無常感】は、「はかなく感じる」という、対象に対して情緒的に動く刹那の思いを意味します。
【無常観】は、思想や定義ですが、
【無常感】は、感情です。
方丈記の第三段で使われている「無常」は仏教用語の「無常」です。「無常観」に通じるものです。
私達が単に「せつないなぁ…」などのように使う、いわゆる「無常感」とは異なります。
「無常」を古語辞典で引くと、
①〔仏教語〕「全てのものが絶えず変化して、永久不変でないこと」
②「人の世のはかないこと。特に、死。
と説明されています。
第三段に使われている「無常を争うさま」は「はかなさを争う様子」と訳してよいと思います。
そして、その様子は「はかない」わけですから、朝顔の花や朝顔に宿る露と同じだと説いているのです。
苦労して家を建て、人の目を引くように飾り立てて、人々は競いあっている。そのようなことは、朝顔の花に宿った露が消えたり、残っていた朝顔が萎んでしまったりする・・自然の営みと同じように「はかない」ことだ。
これを、もしも、自分に言い聞かせるために言葉にしたのだとしたら・・。
自分も「はかない」存在のひとつでしかない・・という自覚が大事だと、鴨長明は思っていたかもしれませんね。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
ここまでで得られたヒント
◆自然界も、自然界の中に存在する人間界も、河の流れのように「連続した変化」の中にある。
◆人も住処も、河に浮かぶ泡沫のように出来ては消えて、消えては出来て、同じであることはない。
◆何故そうなのかは、分からない。
◆世の中の人とその住処は、例えば朝顔に宿る露のように、儚いものだ。
〔ここからは私の思い〕
私の今日まで培ってきた人生観と重ね合わせると、以下のような ”生きるヒント” が浮かんできます。
◇人生は「無常」だからこそ、その時々に生きる喜びが生まれる。
◇だから、「無常」だからといって人生から逃げてはいけない。
◇「無常」と共に生きることが、人生に喜びをもたらすのだ。
・・・と、わたしは、思いたい。
*
次回は、方丈記後半の冒頭にあたる第24段を取り上げたいと思います。
第24段は「すべて、世の中のありにくく~」(訳:この世を生きていくこと自体が、なかなたいへんなことなのだ)で始まります。
読んでくださり、ありがとうございます。
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以下は、今までに書き連ねた記事です。