介護の詩/記憶は破片になって風に舞う/老人ホームでの息遣いと命の灯70/詩境


【車止めで一息】

記憶は破片になって風に舞う

老人ホームで暮らしている、お婆ちゃん、お爺ちゃんのこと、気になりませんか?

記憶が・・・

・記憶が、本当に風に舞うわけではありません。勿論、これは比喩です。でも、私は、認知症の方への生活介助を行いながら、そのように感じたのです。いいえ、意識的にそのように感じようとしたのだと思います。

・認知症の方が記憶障害と思われる見当違いなことを発したその時、介助者に求められる大事な対応は、その方の失われた記憶を追うことではなく、その方がその時に有している感情や欲求と向き合うことです。その方の感情や欲求に寄り添い、その方の感情や欲求に共鳴共感し、その方に話を合わせていきます。

・ですから、記憶が失われてしまっていることに驚いたり、残念がったり、思い出すように追求したり、そういうことは決してしませんし、してはいけません。何故なら、そういうことをすれば、本人様にストレスがかかるからです。ストレスがかかり、よけいに混乱してしまうことだってあるからです。

認知症でなくても、人はストレスがかかれば平常心ではいられなくなるのですから、当たりまえのことですね。

・そして、もうひとつ大事なことがあります。それは、”認知症という病気だからしかたがない…”というようには決して思わないことです。私は介護士ですから、介護という職責を果たすことへの意識は勿論有しているので、認知症の方への対応という判断はします。でも、”認知症だから・・”という思いが心の中で幅を利かせると、パターナリズムに陥ってしまうリスクが芽吹くような気がします。これは絶対に避けなければいけないことです。

〔パターナリズム〕この文脈では「立場の優位性を利用して、相手様の行動などに干渉や制限を与えること」という意味で使いました。その場合、介助者本人は良いことをしていると思っているので質が悪いのです。/パターナリズムは「医者対患者」の関係によく見られます。インフォームドコンセント(説明と同意)の逆の状態という理解でもよいかと思います。

(参考:パターナリズム wikipedia

・なので、認知症の方に対して、そして老人性健忘症の方への対応も同じですが、私は ”嗚呼、〇〇様の記憶は風に舞って何処かへ行ってしまったんですね” と思うことにしています。そう思うことによって、介護職という職責を維持しながら、相手様とは常に人として対等な立場で、そしてまた人生の大先輩という視点で向き合っていくのです。

・家族の忘却は、認知症で失われる記憶のひとつに数えられます。親が子供のことを忘れてしまうのですから、子供にとって、それはとても悲しく辛いことです。初めて知った時は、大きなショックを受けます。

・なので、ご家族様においては、ショックを和らげるために、予めそういこともあるのだという認知症の予習と、そして覚悟が必要だと思います。

・認知症患者急増への対応が社会の重要な課題になっている今、私達ひとり一人が認知症への理解を一層高めていく必要がありますね。

私は今、介護士として老人ホームで働いています。

施設は「住宅型介護付き有料老人ホーム」です。

自立の方、要支援1~2の方、要介護1~5の方が住まわれており、ターミナルケア(終末期の医療及び介護)も行っている施設です。

介護/老人ホーム

私はそこで働きながら、人が老いて、そして他界していく様子のその中に、様々な「発見と再発見」を得る機会をいただいております。

そして私は、それらの「発見と再発見」を、より多くの人たちに伝えたいと思いました。

なぜなら、

「ああ、老人ホームではこんなことが起きているんだ・・」と知ることによって、介護に対する理解が深まり、さらに人生という時間軸への深慮遠謀が深まると思ったからです。

そしてさらに、

これはおせっかいなことかもしれませんが、

介護をする方にとっても介護をされる方にとっても、

老後の生き方を考えるヒント….

それは人生の締めくくり方を考えるヒントに、

なるかもしれないと思ったからです。

伝える方法は、詩という文芸手段を使いました。

詩の形式は、口語自由詩。タイトルは「車止めで一息」です。これは将来的に詩集に編纂する時のタイトルを想定しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

高齢者の、老人ホームでの息遣いと命の灯を、ご一読いただければ、幸いでございます。

口語自由詩

車止めで一息 70

記憶は破片になって風に舞う

記憶の破片はユラユラ揺れる。

剥がれかけた掲示物が風になびくようにユラユラ揺れる。

そして、

ユラユラ揺れて剥がれていく。

記憶の破片はパラパラ落ちる。

古い塗装がはげ落ちていくかのようにパラパラ落ちる。

そして、

パラパラ落ちて風に舞う。

記憶の破片はユラユラ揺れて剥がれていく。

記憶の破片はパラパラ落ちて風に舞う。

風に舞うから、

なかなかつかまえられない。

たとえつかまえても、

破片だからつながらない。

穴開きだらけのジグソーパズル。

  *

その日の面会者は、

一か月に一度の定期便。

貴女様が産み、育て、一緒に暮らした娘さんだった。

笑顔を見せている貴女様。

介護ベッドの周りは和やかな空気に包まれた。

幸せそうな貴女様。

・ ・ ・ ・ ・

娘さんの帰った後のこと。

貴女様は介護スタッフに真顔できいた。

「今の人、誰なんですか?」

(画像はイメージです/出典:photoAC)

詩 境

家族を忘れてしまうという認知症の症状への理解について、わかりやすい記事がありましたので、以下に参考として紹介させていただきます。

【参考】「認知症の方が大事な人から忘れていく理由と、身近な家族の対処方法」

少しだけ、私自身のことを話したいと思います。

私の父は認知症を患いました。要介護5まで進み、誤嚥性肺炎が因となり他界しています。

私が久しぶりに実家へ帰ったときのことです。父は玄関先で私を見て「どちらさまですか?」と言ったのです。

私はびっくり。狼狽するとは正にそのような時のことを言うのでしょう。私は「ぼくだよ、あきらだよ、忘れちゃったの!」と父に向って言い、そして家の奥に向かって「おかーさん!大変だよ!父さんが僕のこと忘れてしまっている!」と叫んだのです。

当時はまだ、私は介護の仕事には就いておらず、認知症に対する理解は殆どありませんでした。もしも、その時、認知症への知識と理解があれば狼狽することなく、とても残念ことではあるけれども、対応はもっと上手くできたのにな…と思います。

認知症と診断されたら事前に起こりえる事柄を予習しておくこと、そしてそれらがいつかはやってくることを覚悟しておくこと、これらの準備は上手に生きていくためにとても大切なことだと思います。

そのような私の体験と思いと、そして実際の介護現場での出来事とを重ね合わせて、親が家族を忘れた時が来ても狼狽しないように・・という思いで、この詩を構成しました。

この詩の後半は、実際の介護現場での出来事です。

この方の場合、面会の相手が誰なのか分からなかったけれども、それを口にしたらいけないと思っていたようです。そこまで気が回るのに、なぜ自分の子供のことを忘れてしまうのか?と思うかもしれませんが、記憶障害の出現は様々であり、ひとり一人異なるものなのです。

面会が終わった後に、本人様の口から「今の人、誰なんですか?」

こういう場合、どのようなコミュニケーションを繋いでいったら良いのか、私が実際にとった行動について、ここに書き留めておきます。参考になれば幸いです。

〔これはNG/こんな対応はしません〕

「えええっ! 今の方は〇〇様の娘さんじゃあないですか!えええっ!忘れちゃったんですか!まいったなぁ~」こんな風に言われたら悲しいですね。絶対にNGです。

【私がとった対応】

「来て下さったのは、娘さんですよ。〇〇さん、よかったですね、娘さんの元気な顔を見ることができて」

「娘さん、お花を持ってきてくれましたよ。きれいな桃色!きれいな薔薇ですね」

【解説】

・「今の人、誰なんですか?」という質問が飛び出して、私は瞬時に「わからないから不安」という感情、「知りたい」という欲求、その二つがご本人様の心を支配していると理解しました。

・なので、「娘さんですよ」と伝えました。まっさきに「不安」を取り除き、「知りたい」に答えを用意したのです。

本人様は、それを聴いて安心するわけです。

そして肯定を重ねました。”娘さんの元気な顔を見ることができたことは、良いことなのだ” ”〇〇様は、今良いことをしていたのです”という肯定です。人は否定されると不安になり、肯定されると安心感が増す、これは人の心が持つ基本だからです。

そしてさらに間を置かずに、私は話題を変えました。娘さんが持参して下さった花へ話を移したのです。話題を変えることによって、直前まで抱えていた不安は、ますます遠ざかったはずです。そして、認知症症状として短期記憶は忘れるので、面会者が誰だが分からなかったという事実も忘れてしまいます。そうやって、できるだけご本人様が不安にならないようにしていきました。

(と画像はイメージです/出典:photoAC)

【参考】

介護の詩/車止めで一息/老人ホームでの息遣いと命の灯