「JR広島駅に6番線が見当たらない理由」その歴史的な背景


新幹線でJR広島駅へ。そして在来線のホームへと・・・コンコースを歩きます。

1番線、2番線、3番線・・・、よーく見ると、アレ? 6番線がない」?

JR広島駅には、

6番線がありません。

6番線だから、5番線か7番線の近くにあるのだろうと思って、見つけた4番線と5番線と大きく書かれた柱に近寄ってみました。でも、6の文字がありません。

ないない、

6番線がありません。

実は・・・、

JR広島駅には、

6番線はあるのですが、

ホームが無いのです。

【駅員さんに尋ねてみたら・・】

以前、私の息子が小学生だった頃、6番線が無いことを不思議に思って、駅員さんに尋ねたことがあります。みどりの窓口で尋ねたらしいのですが、カウンターの若いスタッフさんは分からなかったそうです。そしたら、奥から出てきた駅長さん(らしきスタッフ。赤い線の入った立派な帽子をかぶっていた)がきちんとしたワケを教えてくれたそうです。

「貨物列車が通過する時に使う線路が6番線なんです」

「なるほど!」・・・と思いました・・・が、

でもでもでも、

・・・

他の駅と違いません?

なぜ?

「お客様が使わないなら、番号をつけなくてもいいんじゃあないですか?」

そうなんです。

通常、列車がホームに止まっている時に通過させる列車を通す線路を「待避線」と呼びますが、通常、その「待避線」には○番線というような番号は付いていません。 少なくとも、お客様に知れるところでは「待避線」に○番線とは付いていません。

なので、「待避線」を飛ばし、「待避線」は無いものとして、ホームの番号は付けられていきます。

例えば、私が以前よく利用していたJR新幹線の静岡駅の場合・・・。

東京方面は5番線、新大阪方面は6番線です。その間に挟まれている「待避線」に番号を付けたりはしていません。

・・・ホームに立っていると、静岡駅を通過する”のぞみ”は、この「待避線」を、ゴーッ!と、あっと言う間に行き過ぎていってしまいます。

新幹線の静岡駅、東京方面は5番線。新大阪方面は6番線です。

5番線の次は・・・6番線なのです。

5番線の次に、6番線、7番線と「待避線」も数えて、その隣に8番線、という付け方はしていません。(ちなみに、1番線から4番線は、在来線ホームです)

なのに、JR広島駅では、6番線があるものとして、1番線、2番線、3番線、4番線、5番線、そして7番線、8番線、9番線となっています。

ということは・・・

広島駅の6番線・・・、実は、みんなに分かるように使っていた線路で、6番線というホームがあったのではないでしょうか。

そんな仮説を立ててみたくなります。・・・でも、実際の今ある線路を見る限り、ホームがあった形跡も、そのスペースもありません。

JR広島駅の6番線は、貨物以外、つまり乗客を乗せるための線路として使っていたけど、ホームは無かった・・・、ということになります。

なぜ?

どんな事情があったのでしょうか?

実は、そのワケにまつわる話が、とても個人的なことなのですが、私の父の思い出と重なるのです(平成27年他界/享年86歳)。

なので、父の話をきちんと記憶に留めておく意味も含めて、ここに記録しておきたいと思います。

昭和19年、歴史的に見れば第二次世界大戦が終わる前の年ですが、当時の人たちにとっては、いつ終わるとも分からない、苦難と苦労と苦渋の連続の日々であったと思います。その年、父は召集令状によって日本帝国陸軍の兵隊になりました。

以下、父がよく話してくれたことを再現してみます。父は名古屋に住んでいました。そして、沢山の兵隊を乗せた軍用列車に揺られて西へと向かいました。

以下は、父から聞かされていた、当時の話です。

「名古屋からな、列車に乗せられた。蒸気機関車がひっぱる奴さ。でも、窓には目隠しがしてあって、どこを走っているのか、わからないんだ。でも父さんは、窓際に陣取っていたからな、目隠しの隙間から窓の外を見ては、今は○○辺り、ってみんなに知らせていたんだ」

「噂では、列車の行先は呉か門司だった。門司は北九州だな、下関のあるところだ。呉に行ったら、そのまま南方へ連れていかれる。帰ってはこれないな。門司へ行ったら、そこから中国かな。でも、その頃は中国戦線からも南へ回されていてから、あまり可能性は無い。内地なら宮崎や鹿児島だな。アメリカ軍が上陸を予定していた辺りだ。南方か、中国か、宮崎か鹿児島か・・そのどこかに連れていかれるっていう噂だった」

「夜だった。列車が止まって、隙間から窓の所を見たんだ。そしたら、広島っていう文字が見えた。ずいぶんと長く止まっていたのを覚えている。でもな、ホームが無いんだ。隣にひとつ線路があって、そこにはホームがあるのにな。反対側の窓にいた奴にも訊いたけど、父さんが乗せられた列車は、駅なのにホームの無い線路に止まったままだった」

「一緒にいた奴が、教えてくれた。・・・ここから単線に入ったら呉港に行く。そしたら、きっとすぐに船に乗せられて、南方だな。もう助からないな、きっと。でも、複線のままだったら、さらに西だ・・・門司で降ろされて南方に連れていかれるか、じゃなかったら鹿児島の海岸でアメリカ軍を迎え撃つんだな・・・ってな」

「ずいぶん長く止まっていた記憶がある。そして、やっと動き出したんだ。そしてずーっと窓の隙間から覗いていたら、線路はずーっと複線だった。父さんは、みんなに言った、・・・みんな、複線だぞ。南方行きは、とりあえず、まぬがれた、ってな。そしたら、その瞬間、みんなの口からオオーっていう声がもれたんだ。ほんの短い間だけど、ほんの一瞬の間だけど、呉から南方へ行かなくていいっていうことが、みんなを安心させたんだな」

「みんな、死の予感を持っていたと思うんだな。そのころは、日本の近海にはアメリカ軍の潜水艦がウヨウヨしていて、南方の島にたどり着く前に、船は沈められてしまう可能性がすごく高かった。犬死だな。内地の鹿児島でも、そのうちアメリカ軍が上陸してくるわけだから、いずれは死んじゃうわけだけど、死ぬってことを少しでも遠ざけたいっていう思いが、みんなにあったと思うんだ。線路が単線じゃあなく、複線のままなのを知って、みんなホッとしたもんさ」

この後、父を乗せた列車は門司も停車しただけで通過し、鹿児島まで行きました。そして父は、いずれアメリカ軍が上陸するだろうと言われたいた海岸に陣取って兵隊の生活をし、そこで終戦を迎えたそうです。

父は、こんなことも教えてくれました。

「特攻はな、なにも飛行機だけじゃあなかったんだぞ。爆弾抱えて戦車にも特攻する作戦があったっんだ。・・・海岸に蛸壺を掘ってな、地雷を抱えて、そこに隠れるだろ。上陸してきた戦車がその上に近づいてきたら、穴から這い出て、戦車の下にもぐりこんで、地雷の信管をグッと自分で押して、地雷ごとバーンだ。それが作戦だった・・・」

「兵隊は人じゃあなかったんだな、道具として扱われた。それに、馬鹿げているのは、特攻ということだけじゃあなく、作戦そのものに見通しが何もないってことさ。だって、戦車のまわりには歩兵がウヨウヨついて来ているからな、穴から出たとたんに狙われてしまう。現実的ではないよな。馬鹿げた話さ。それを精神力でやれっていうんだから、狂気そのものだったな」

「海岸にいるとな、海の向うに潜水艦がポコって浮かんでな、甲板の上に人が出て、こっちを見ているんだ。こっちは、武器がないから、なにもできない。ただ、見ているだけさ。そのうち、ムスタングが飛んできて、海岸にいる俺たちに機銃掃射していく。すごい低空でな。それで死んだのもいた。・・・操縦席のアメリカ兵が笑っていたのを見たことがある。でも、何もできないんだ。飛行機をやっつけられる機関銃なんか、ないんだからな」

「あと少し戦争が長引いていたら、父さんはこの世にいない。だから、母さんとも出会えなかったし、あきら、おまえもこの世にいない」

そんな話を、随分と大人になってから、よく話していました。

〔JR広島駅から呉線で呉港まで/戦艦大和は呉港から戦いに出ました/呉線は今も単線です。〕

JR広島駅の6番線

それは、単に貨物列車を通す「待避線」だけではなく、多くの兵隊を戦地へと運ぶホーム無きホームとして使われていたのです。広島からも兵隊が乗り込んだかもしれません。そしてまた6番線は、兵隊たちを呉港へ向かわせるのか、そのまま山陽本線をさらに下らせるのか、その分岐直前に兵隊たちを待機させる線路としても使われていたのです。

使われていたものが、戦後は使われなくなった・・・。でも、7番線、8番線、9番線の呼称をいじることなく、そのままにしてある、というワケです。

たまに、5番線のホーム立ち電車を待っているとき、私は思います。

その昔、

・・・目の前の6番線には、たくさんの兵隊を乗せた軍用列車が止まっていた。

・・・そして塞がれた窓の隙間から不安そうに外を眺めていた父が、そこにいた。

・・・死の予感を少しでも遠ざけようとしていたであろう父が、そこにいた。

・・・そして、父と同じ境遇にあった沢山の人たちの命が、そこにあった。

でも命は、大事にされませんでした。

大事にしなかった大人、大事にしなかった軍人、大事にしなかった国。

いろいろな戦争の話を思い出し、多くの悲しみと苦しみと、その理不尽さを思うと、平和のありがたさを特に強く感じるのです。

JR広島駅に行くと、そんな思いがいつも呼び起こされます。

明日もいい日でありますように。