百人一首/恋と命/生きたい、死にたい、もう一度逢いたい/恋歌三首


鎌倉時代の初期に成立した小倉百人一首。その時代の和歌の大家と云われている藤原定家が、万葉集の時代から鎌倉初期までの五七五七七で構成された百人の歌から、各々一首ずつを選んで構成した和歌集です。

その中身を見ると、恋の歌が半分近く選ばれています。ただ、その一首一首を読んでみると、私なりの感想ですが、歌の技巧だけが目について心に感じないもの、逆に、心にググっと感じるもの・・様々です。

この記事では、小倉百人一首の恋歌のうち、あくまで私の感性においてですが「恋の苦しみ恋の悲しさなどが鋭敏に感じられる歌」を選んで解説しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

そして今回は、その中から、恋に命をからめて「恋と命」を題材に詠んでいる三首を解説いたします。

恋というものは人生をハッピーにしてくれる、云わば「人生のエネルギー」になりえるものだと、私は思っているのですが、現実というものは、実に様々ですね。

「恋と命」の人間ドラマを、和歌の世界でお楽しみくださいませ。

解釈は意訳【意訳=Free translation】に努めました。百人一首の解釈については、その資料はとても多く、入手はとても簡単です。また、多くの解釈が文法に則っており、そこには私が求めている解釈の楽しさが少ないと感じたからです。

1.恋と命/死にたくない!厭世観を吹き飛ばす、それが恋

第50番歌

君がため 惜しからざりし 命さえ~

君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな

【意訳】

私は、貴女を知ってからずっと、あなたに恋焦がれてきました。私は、貴女に逢うためなら、この命さえも惜しくはないと思っていました。それくらい、私の心は貴女のことでいっぱいだったのです。

でも、貴女と逢うことができた今、私は思っています。貴女と末永く一緒に過ごすためには、死ぬわけにはいかないのです。どうか私と一緒に、いつまでもいつまでも一緒に居てください。貴女を愛しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

「惜しからざりし」:世間の一般的な解釈はひとつですが、実は、二通に解釈できます。

①ひとつは〔あなたに逢うためなら、いつ死んでもいいと思っていました〕〔それぐらい、私はあなたのことを好きになってしまいました〕・・これが世間の一般的な解釈です。

②もうひとつは〔人生というのは辛いものだ。私の心は、いつ死んでもかまわないという厭世観に囚われている〕(作者は仏道に熱心であったというエピソードを知ると、可能性は全くないとは言い切れないと思います)

この解釈の違いは、冒頭の「君がため」が、①「惜しからざりし 命さえ」に掛かっていると理解する場合と、②「惜しからざりし」から「思ひけるかな」までの全部に掛かっているという理解をする場合、この相違によります。

「私は、あなたに逢えるのであれば命なんか惜しくはない、それぐらい、あなたが好きなんです」という解釈が一般的であり、もしも学校の試験ならば、これを正解とするでしょう。

でも、私は、こんな解釈もしたいと思っています。

「私は、今日の今日まで、生きることが辛くて、いつ死んでもいいと思っていました」という解釈です。

「だから私は長生きしたいのです。貴女と逢った今は、命が惜しいのです」

このように、詩歌の解釈や感じ方というものは「学校の授業や学校の試験の対象を離れて、既存の解釈に囚われない、もっともっと自由に味わっていいんだ」とうことを、私は言いたいのです。

かとうあきら

永遠はありません。人生はいつか終わります。私達は、そのことは知っています。それでも尚、「長くもがなと 思ひけるかな」と願う、そこに人生の悲哀、そして詠嘆を込めた願いを感じることができます。

悲しくもあり、生きるエネルギーにもなる、実に奥深い感慨に満ちた歌だと、私は感じています。

2.恋と命/死んで恋を成就させたい、必死な恋心

第54番歌

忘れじの 行く末までは かたければ~

忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

【意訳】

あなたは「いつまでも忘れません」と言ってくれるけれども、世の中のことは全てが諸行無常です。「いつまでも・・というのは、難しいことではありませんか?」 そう思うと、わたしは愛し合っている今、死んでしまった方がいいと思うのです。そうすれば、私達二人の愛は、永遠です。私は、あなたを愛しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

「かたければ」:「有難い(ありがたい)」から連想してみましょう。⇒ 「難しい」という意味です。

「もがな」:願望を表している終助詞です。⇒ 「命なんですよね~」

この歌の作者は、「人生に永遠はないように、愛にも永遠はない」と、頭で分かっているのですね。だから、「忘れじの 行く末までは かたければ(あなたが私のことを、いつまでも忘れないという、その誓いは難しいのではないかと思います」と、冷静さを装って言葉にしているように感じます。

今、二人は愛し合って、悦びの絶頂にいるようです。・・・だからこそ、この瞬間に、いっそのこと死んでしまえば、二人の恋は成就するのです。

〔恋愛の成就、それは愛し合ったまま二人一緒に死ぬことだ〕という考えは昔からあるようです。私は、学生の頃、亀井勝一郎の恋愛論で知りました。もちろん、だからといって心中に賛成する立場ではありません。

ただ、〔愛し合ったまま死ぬ〕ことは、そこに「心変わり」も「後悔」も何も生じない、愛し合った二人だけが残るという、ひとつの美しさがあると思います。

かとうあきら

私は介護職にも就いていますが、最近感じることがあります。「生き過ぎることによって、苦を生じる」ということです。

自分一人ではトイレへも行けない、お尻を自分で拭くことすらもできない・・そんなお爺ちゃんが「こんなことになるのなら、80才位のまだ元気な時に、死んでおくんだった」と、吐露されたことがあります。

恋は人生の強い味方です。でも、時として、失恋や浮気や、ある場合には悲しみや後悔さえ生んでしまうものです。ならば、愛し合っている今、死んでしまいましょう・・という気持ちは、わからないでもないですね・・と私は感じました。

3.恋と命/死ぬ前に、もう一度逢いたい恋心

第56番歌

あらざらむ この世のほかの 思い出に~

あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな

【意訳】

私の病は重く、私はもうすぐこの世を去っていきます。私のこの世での最後の願いは、あの世へ行っても寂しくないように、この世でのあなたとの思い出をしっかりと心身に刻んでおくことです。だから、せめてもう一度だけでもあなたに逢って、あなたと一緒の時間を過ごしたいのです。ああ、わたしはあなたに逢いたい。私は、はあなたを愛しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

この歌、作者は和泉式部。教科書では「和泉式部日記」で目にしたことがあると思います。

「あらざらむ」:この語句の意味をきちんと理解しましょう。すると、パーっと全体が見えてきて、この歌の感慨にたどりつけます。

「あらざらむ」は「あり(有り)」の未然形+「む(推量の助動詞)」です。⇒ 「無いだろう」⇒「もうすぐ私は死んでしまって、生きてはいないだろう」という意味です。/作者は病床にいるのかと思われます。

「この世のほかの」:「この世」は現生。「ほかの」は死後の世界。

「逢ふこともがら」:「~もがな」は直前に解説した第54番歌の末尾と同じですね。願望を表しています。⇒ 「ああ、逢いたい」

「逢ふ」:作者の生きた時代(8世紀)、「逢ふ」はただの逢瀬ではなく、男女が床を共にするという意味もありました。私が愛用する〔角川必携古語辞典〕には「男女が関係を結ぶ」という意味も書かれています。

つまり、病の床にありながら、”あの世へいく最後に恋人と抱き合いたい”と、この歌は詠んでいるのです。心と身体は、メビウスの輪のように二つでひとつなのですね。

かとうあきら

このような歌を詠んだということは、最愛の人との逢瀬は実現しなかったのかもしれません。もしもそうならば、悔いを残したまま、あの世へ旅立ったことになります。

この歌の作者にとって、最愛の人が、せめて添い寝だけでもしてくれたら。そして、そのまま、自分はあの世へ行けたら。それは最高の恋の成就だったのかもしれません。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

ここに紹介した歌は、どれも熱い情熱の発露だと思います。

そしてさらに、

百人一首の恋歌には、死ぬとか生きるとかいう話ではなく、ただ恋に苦しむ歌もあります。次回はそのような、ただただ熱くなる恋心を詠っている恋歌を紹介したいと思います。

以下をご覧くださいませ。

【参考】百人一首/恋に生きる/逢えば、熱くなる恋心・乱れる恋心/恋歌二首

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かとうあきら

ご一読、お願いいたします。

百人一首/意訳で楽しむ/恋、人生・世の中、季節・花、名月など

読んでくださり、ありがとうございます。