百人一首/「世」を用いて、世間、憂き世、人生などを詠んだ短歌十首


小倉百人一首を読むと、同じ言葉が複数の短歌で詠まれていることに気が付きます。

例えば「月」は11首に、「恋」は10首に、「秋」は12首に、各々詠まれています。

そして、「世」についても同様です。小倉百人一首には、「世」という言葉を詠み込んだ短歌が10首あります。百首の中の10首ですから、構成比はとても高いです。音は全て「よ」です。

当時は「世」について語ることが、より多くの人々の共感を集めやすかったのでしょうか。(ここでいう当時とは、小倉百人一首に選ばれた短歌が詠まれた時期= ”飛鳥時代鎌倉時代初期”を指します)

それは分かりません。分かりませんが・・・

当時の人々が思う「世」の意味を知ることによって、私達が漠然と思っている「世」という言葉の意味を再認識し、言葉の意味の重さというものを改めて感じ取ることができるかもしれません。

ならば、これら10首の短歌を紐解き、「世」について当時の人々がどのような認識でいたのかを、探ってみたいと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

なお、解釈は直訳ではなく、意訳【Free translation】をおこないました。その理由は以下の二つです。

①直訳は、世間に沢山存在していて手に入れやすいけれども、意訳した解説は少ないからです。

②意訳は、詩歌の味わいと楽しみを広げてくれる最高の手段だと、私は思っているからです。

目 次

1.「世」を詠み込んだ歌10首を列記しました。

2.「世」の意味:古語辞典の解説

3.歌の意訳と解説

  (01)第 8番歌:「~をうじ山と 人はいふなり」

  (02)第 9番歌:「~我が身にふる ながめせしまに」

  (03)第19番歌:「~あはでこのを すぐしてよとや」

  (04)第56番歌:「あらざらむ こののほかの思い出に~」

  (05)第68番歌:「心にも あらで憂きに~」

  (06)第83番歌:の中よ 道こそなけれ~」

  (07)第84番歌:「~うしと見しぞ 今は恋しき」

  (08)第93番歌:の中は 常にもがもな~」

  (09)第95番歌:「おほけなく うきの民に~」

  (10)第99番歌:「~を思ふ故に もの思ふ身は」

1.まずは、「世」詠み込んだ短歌10首を、以下に並べてみます。

〔味わうためには、音読をされることをお勧めいたします。〕

第  8番歌: わが庵は 都のたつみ しかぞ住む をうぢ山と 人はいふなり

第  9番歌: 花の色は 移りにけりないたづらに 我が身にふる ながめせしまに

第19番歌: 難波潟 短き葦の ふしのまも あはでこの すぐしてよとや

第56番歌: あらざらむ こののほかの思い出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

第68番歌: 心にも あらで憂き ながらえば 恋しかるべき 夜半の月かな

第83番歌: の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞなくなる

第84番歌: ながらえば またこのごろや しのばれむ うしと見し 今は恋しき

第93番歌: の中は 常にもがもな 渚こぐ 海士の小舟の 綱手かなしも

第95番歌: おほけなく うきの民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖

第99番歌: 人もをし 人もうらめし あぢきなく を思ふ故に もの思ふ身は

2.「世」の意味:古語辞典の解説

「世」について、私の手元にある古語辞典(角川必携 古語辞典【全訳版】平成9年初版)には、約2頁を割いて盛りだくさんな解説が掲載されています。ただの「世の中」という漠然とした意味ではないようです。それでは、古語辞典に書かれた「世」の意味を列記してみましょう。

〔以下、角川必携 古語辞典【全訳版】平成9年初版より、「世」の意味を書き出しました〕

①ある統治者が国や家を治める期間。

②人の生きている間。一生。生涯。

③時期。時。折。

④過去(前世)・現在(現世)・未来(来世)の三世。特に現世。

⑤世の中。世間。社会。

⑥世間のなりゆき。時流。時勢。

⑦(出家からみて)俗世間。浮世。

⑧身に上。境遇。身分。

⑨生活のための事柄。生計。暮らし。

➉男女の仲。男女関係。

〔以上、抜粋終わり〕

このように「世」が意味するものは多岐に渡ります。

と、いうことは・・、百人一首に詠まれている「世」は、どのような「世」なのか・・それを追うだけでも、百人一首を詠む楽しみが増えますね。

みなさんも、もし手元に古語辞典があれば「世」を引いて、その意味を確認しててみてください。

それでは、次に、各々の歌の【意訳】と【解説】について、述べていきましょう。

3.歌の意訳と解説

(01)第 8番歌

~世をうじ山と 人はいふなり

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり

【意訳】

わたしは、ただ都の東南の庵(いほり)に住んでいるだけなのです。なのに、世間の人は「あの人は都の煩わしさから逃れて、山の中に住んでいるようだ」と、わたしのことを噂しています。まあ、好き勝手に言わしておきましょう。私はわたしです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

「庵」:「いほ」又は「いほり」/簡単に作った粗末な小屋。僧や世捨て人などの仮住まいだったり、農作業や旅人の寝泊りに使われる仮小屋のこと。

私の知らない言葉は「たつみ」、「しかぞ住む」の「しか」、「うじ山」でした。このように分からない言葉が続くと、調べるのが面倒になるのが古典です。ここはグッと堪えて調べていきましょう。

「たつみ」:十二支の「たつみ=辰巳」、つまり東南の方向を示しています。都(京都)から東南の方向には宇治山があります。

「しかぞ住む」:「しか」は鹿ではなく「然り(しかり)」の「しか」です。⇒ ”そのように”という意味です。/「鹿が住むくらいの山奥」という掛詞として理解して、意訳の世界を広げてもかまいません。それが詩歌を自由に味わうコツです。

「うじ山」:”宇治” と “憂し(うし=憂鬱な、煩わしい)” の掛詞です。これに至っては、解説本を頼らなければ分からない部分です。古典の鑑賞には少なからずこういう場合があります。

かとうあきら

ここで使われている「世」は、「世間」や「世間の人達」という意味です。(2-⑤/”2.「世」の意味、古語辞典の解説”参照/以下、同じ表記をします)

自分は「しかと住む」⇒「そのように住んでいる/暮らしている」と詠んでいますが、「そのように」の内容は住処が「庵」であることからしか想像するしかありません。

世間の人が自分を世捨て人のように言うということは、かなり貧しく質素な生活ぶりだったように思われます。

「世」=「世間の人」⇒ 「世間というものは、人の外観だけを見て、勝手な物言いをする無責任な人達だ」と言いたかったのかもしれませんね。

(02)第 9番歌

~我が身世にふる ながめせしまに

花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

【意訳】

ああ、むなしいなあ・・。花は、きれいに咲いていたのに、長雨に打たれて、だんだんと色褪せていってしまいました。ああ、同じなんですね・・。私の美貌も、年月を経るうちに、衰えてしまいましたよ。ただ、眺めていただけなのにねぇ・・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

百人一首は知らなくても、この歌は知っている・・という人は多いようです。そして、どんな女性かは知らないけれども名前だけは知っている、そう、作者は小野小町です。

「花の色が長雨でむなしく色褪せていくことに、年月を経て衰えていく自分の様子を重ね合わせている」・・この解釈を可能にするキーワードは「るふ」「ながめ」です。

「ふる」:「(雨が)降る」、「旧る/古る(としをとる)」の二つの意味を掛けています。いわゆる掛詞ですね。

「ながめ」:花をむなしくさせてしまう「長雨」と、自分の人生を振り返って「眺める」の二つの意味が含まれています。これも掛詞です。

※「花」と云えば「桜」を意味するようになったのは古今集の頃からだそうです。それまでは「花」と云えば「梅」」を指していました。

かとうあきら

この歌の「世」は、”時間(年月)”を意味しています。(2-③)

この歌には、衰えていく自分を、どうすることもできずに、ただ眺めているしかない ”嘆き”と ”諦め” があるように、私は感じます。

ただ、同時に、美しさの絶頂も想像できることから、「美と醜」の対比と「時間の経過」を併せて、諸行無常を感じさせてくれるのだと思います。

それが、哀愁(寂しさ、物悲しさ)というものなのかもしれません。

(03)第19番歌

~あはでこの世を すぐしてよとや

難波潟 短き葦の ふしのまも あはでこの世を すぐしてよとや

【意訳】

難波潟に生えている葦の節は短いですよね。そんな短い葦のように、私はあなたに、ほんの短い時間でも逢えないまま、一生を過ごせというのですか?そんなこと、あまりに辛いです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

「あはでこの世」の「あはで」は「逢はで」⇒「逢わないまま」という意味です。この語句により、この歌は恋歌だと推測できます。

ただ、「難波潟」も「短き葦」も知らず、「(葦の)節の間」の意味が分からなけば、この歌を味わうことはお手上げです。その時は、堪えて調べていきましょう。

「難波潟 短き葦の」:大阪湾の入江付近一帯には、かつて葦が生えていたそうです。

「ふしのまも」:葦の節と節の間のこと。「節と節の間のように短い間であっても」という解釈が一般的なようです。

下の句「あはでこの世を すぐしてよとや」は、「あなたに逢わないまま生涯を過ごせというのですか?そんな辛い人生、わたしには過ごせません」という意味です。

「すぐしてよとや」:難しい語句です。「すぐし」は「過ぐす」で、現代語の「過ごす」とほぼ同じ意味です。その後は「てよ」+「と」+「や」に分解できます。

「てよ」:「つ(完了の助動詞)」の命令形。なので「過ごせ」という意味になります。

「と」:引用を表す格助詞。

「や」:疑問を表す助詞。

なので「すぐしてよとや」「過ごせというのですか?」という意味になります。

かとうあきら

この「世」は、「生涯」とか「一生」という意味です(2-②)

この歌は、自分を振った相手に対して「ほんの少しの間でも、あなたに逢わないまま、一生過ごせと云うのですが?」という疑問を相手に投げかけています。

そして、言外に「そんなの、あんまりです。ひどいじゃあないですか!」という気持ちが想像できます。

ただ、「ほんの少しの間」の例えとして「難波潟の葦の節と節の間」を挙げている感覚が、私には消化できないままです。

きっと、歌が詠まれた時代には、とても分かりやすい「例え」だったのでしょう。私はそこに、時代時代の文化を感じます。

【詩歌の楽しみ方】

例えば、朝に咲いて昼には萎んでしまう朝顔を「ほんの少しの間」の例えにして詠んでいたら、もっともっと浪漫的な歌になるように、私は思います。・・・というように考えることは、詩歌の楽しみ方のひとつです。詩歌を、ただ意味を知って、それでおしまい・・では、もったいないです。

(04)第56番歌

あらざらむ この世のほかの~

あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

【意訳】

ねえ、あなた。私はもうすぐこの世を去ります。せめてひとつ、私の最後のお願いを聞いてください。私は、死ぬ前に、あなたとの思い出を、しっかりとこの心と身体に刻み込んでおきたいのです。だから、もう一度、あなたと一緒の時間を下さい。そして、もう一度、愛し合いたいのです。私は、あなたを愛しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

キーワードは三つ。「あらざらむ」「ほかの」そして「逢ふ」です。

「あらざらむ」:「有り」の未然形+「む」推量 ⇒「無いだろう」⇒「私はこの世にいないだろう」

「ほかの」:この世の「ほか(他)」⇒「この世以外」⇒つまり「あの世」/天国とか・・。

「逢ふ」:①この言葉から、この歌が恋歌であることがわかります。②「逢ふ」には、男女が関係を結ぶという意味があります。

かとうあきら

この「世」は、現世を意味しています(2-④)

私は、もうすぐあの世へ行ってしまいます。だから、あの世へ行っても寂しくないように、今一度あなたに逢って、あなたと抱き合って、いい思い出を作りたいのです。あなたと抱き合ったことを、この世の思い出としたいのです。

「あらざらむ」と宣言しているのですから、きっと余命はいくばくも無いのでしょう。なのに、そういう瀬戸際になっても、愛し合いたいと思うその心は、作者の恋の熱さと恋の重さを物語っているように思えます。

恋というものは、普通の状態ではいられない、いつでも特別な心持ちなのですね。

【参考】この歌は、私の別の記事、

「百人一首/恋と命/生きたい、死にたい、もう一度逢いたい/恋歌三首」でも、解説をしております。

参考にして頂ければ幸いです。

(05)第68番歌

こころにも あらで憂き世に~

心にも あらで憂き世に ながらえば 恋しかるべき 夜半の月かな

【意訳】

ああ、生きていくのが辛いなあ・・。でも、生きていかなきゃあ。この先も頑張って生きていけば、今のこの辛い思いも、今夜の月の美しさも、きっと恋しく思うことだろうなあ・・。よーし、頑張って生きていこう。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

「心にもあらで~ながらえば」(本心ではないのに、もしも生き長らえていったら)という厭世観いっぱいの心情を分かってさしあげましょう。

「ながらえば」:「~ば」は接続助詞で仮定を表しています。

・「恋しかるべき」:「~べき」は助動詞で推量を表しています。

・「月かな」:「~かな」は助詞で詠嘆を表しています。

なので、この歌は「もしも〇〇ならば、◇◇かもしれない(きれいな)△△だなあ・・」という構造になっています。あとは、〇〇と◇◇と△△を明らかにしていけばいいのです。

そして最大の要点は、「憂き世」だと思っていても、決して諦めたり自暴自棄になったりしないで、未来に生きていこうとしている一生懸命に前向きな生きる姿勢です。

かとうあきら

この歌の「世」にはいろいろな意味が含まれているように思えます。

この「世」は、一生であり(2-②)、世間や社会であり(2-⑤)、時勢や時流であり(2-⑥)、身の上や境遇でもあると(2-⑧)想像できます。〔カッコ内の数字は、目次の2番目、『「世」の意味、古語辞典の解説』を参照/以下、同じ〕

解説にも書きましたが、たとえ「憂き世」でも明日を思って生きていこうという姿勢が垣間見えます。

そういう意味では、この歌は「生きる勇気」や「処世術」を与えてくれる、〔癒しの歌〕なのかもしれません。

【参考】この歌は、私の別の記事、

「百人一首/人生は長い旅/振り返れば恋しい今は昔、五七五七七で詠う」でも、解説をしております。

参考にして頂ければ幸いです。

(06)第83番歌

世の中よ 道こそなけれ~

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞなくなる

【意訳】

辛い世の中から逃れようと思ってさ、山奥へと入って行ったんだけど、だめだったよ。山奥でも鹿が物悲しく泣いていたよ。きっと、思うようにならないまま、この深まった秋を寂しく生きているんだろうなぁ・・。どこも、同じなんだ、辛いなあ。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

要点は、①「道こそなけれ」②「鹿ぞななる」の二つだと思います。

①「こそ」は強調を表す係助詞で、「道なけれ(道がなかった)」を強調しています。

それでは「道」とは何でしょうか。

・・・「世の中よ」と嘆き(「よ」は詠嘆の助詞)、「思い入る」(思い詰め)、山の奥に入っていったら鹿が鳴いていた。⇒ 思い詰めて山の奥へ行くという行為は、逃避です。つまり、「道」は、「煩わしいとか辛いとか感じている、苦しい世間から逃げる道筋・方法」のことです。

②「鹿ぞなくなる」:「ぞ」は強調、「なる」は推定。⇒ 鹿が鳴いているようだ。

それでは「鹿が鳴く」とは、どういうことなのでしょうか。

・・・鹿は、雄が雌に求愛するときに鳴くそうです。当時の歌の世界では、秋の物悲しさや寂しさを表すものとして使われていたようです。

⇒ つまり、辛い世間から逃れて山の奥に入っていったけれども、そこにもまた鳴く鹿がいて(雌が見つからずに悲しい=思い通りにならない)悲しかったよ・・という意味なのです。

かとうあきら

この歌の「世」にも、複数の意味がありそうです。

単純に「世間」「社会」(2-⑤)を意味しながら、「現世」(2-④)や「俗世間」「浮世」(2-⑦)という意味も含んでいるように、私は感じます。〔カッコ内の数字は、目次の2番目、『「世」の意味、古語辞典の解説』を参照〕

思い詰めて、逃避したけれども、どこも同じだった・・どこにも逃げ道は無いことを悟って、作者はどうしたのでしょうか。

私は、作者はこの歌を詠んだ後・・辛抱強く力強く生きていったのだと、想像しています。

そういう意味で、この歌は「諦念」を「勇気」に変えていく歌なのだと思います。

(07)第84番歌

~うしと見し世ぞ 今は恋しき

ながらえば またこのごろや しのばれむ うしと見し世ぞ 今は恋しき

【意訳】

今は辛いけど、長く生きていたら、辛い今のことが、きっと懐かしく思い出されるのだろうなぁ。憂鬱に感じていた昔のことが、今となっては恋しく思い出されるのだから。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

要点は「うしと見し世ぞ 今は恋しき」だと思います。

「うし」:「憂し」です。作者は、世の中を/生きることに憂鬱を感じていたのです。

「今は」:「は」の使い方は「ex:私は」と同じです。⇒ 「今は」ということは、言外に今の反対である「昔は」を意識した言い方です。⇒ 「(憂えていた)昔と比べて、今は(恋しい)」という意味になります。

かとうあきら

この「世」は「時期」を意味しています(2-③)

辛かった、憂鬱だった過去の、ある時期のことです。

この歌はまるでタイムマシンに乗ったように、現在⇒未来、未来⇒現在、現在⇒過去、という時間旅行をしています。このように時の流れを意識した歌は珍しいですね。

「過去に厭世観を持っていたとしても、厭世観は懐かしい思い出に変化していく」これは、私自身の経験によって得た自分への教えです。

・・このように、人間の記憶は、辛く悲しかったことについて、その事実は思い出せるし覚えているけれども、感情そのもの高まりは徐々に穏やかになっていくようです。

だから「今は辛くても頑張って生きていこうよ。将来、今の苦労が礎になって、懐かしく思う時がきっとやって来るよ」という励ましが生まれるのですね。

そのような「挫けないで生きなさい」というメッセージ性のある歌だと、私は理解しています。

【参考】この歌は、私の別の記事、

「百人一首/人生は長い旅/振り返れば恋しい今は昔、五七五七七で詠う」でも、解説をしております。

参考にして頂ければ幸いです。

(08)第93番歌

世の中は 常にもがもな~

世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海士の小舟の 綱手かなしも

【意訳】

ああ、世の中というものは、いつまでも変わらずに平和であって欲しいなあ。そう思いながら海岸に出てみたら、漁夫が小さな小舟を操りながら綱手を引いているのが見えるよ。毎日のように見るこの風景だけれど、何年か経ったら、この日常の風景でも様変わりするのかなあ。変わっては欲しくないなあ・・。ああ、漁夫が綱手をまた引いた。この日常の風景って、きっと何よりも大切なのかもしれないなあ・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

理解の要点は、①「常にもがもな」と、②「綱手かなしも」かなと思います。

「常にもがもな」:「常に」+「もがも」(願望の終助詞)+「な」(詠嘆の助詞)⇒ 「常であって欲しい」⇒「変わらないでいて欲しいなあ」という意味です。

「綱手かなしも」:「かなし」+「も」(終助詞)。

「かなし」に充てる漢字には「愛し」「悲し/哀し」があり、意味は広いです。ここでは「愛し(かなし)」=強く心が惹かれる、という意味です。

「渚こぐ」:「渚」は波打ち際 ⇒ 波打ち際を漕いでいる(海士(漁夫))

「海士の小舟」:漁夫の(漕いでいる)小さな船

「綱手」:船具のひとつ。舟に掛けて引く網。

かとうあきら

この歌の「世」は、「世間」「社会」という意味ですが(2-⑤)、私は、古語辞典に書かれている全ての意味を含めてこの歌を味わった方が、より深く味わえると思います。

なぜなら「常にもがもな」は諸行無常を意識して選んだ言葉だと思うからです。

上の句で「変わらないで欲しい!」と詠い、下の句では日常の風景を描くことによって、この歌は「普段何気なく目にしている日常こそが、実はとても尊いものなのだ」というメッセージになっていると思います。

(09)第95番歌

おほけなく うき世の民に~

おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖

【意訳】

私のような若輩者が人々を助けようとすることは、身の程知らずと云われるかもしれません。それでも私は仏意に沿って、この混乱の世の中で苦難の中にいる人々を助けたいのです。私はこの比叡山に立ち、世の民を僧衣の袖を広げて覆い隠すように守っていきたい。私は、このように、ここに誓う次第でございます。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

一般の人達の日常に無い言葉が並ぶので、難しい歌だという印象を受けると思います。ここは、世間に多々ある資料を探ったり、古語辞典で一語一語を丁寧に調べてみましょう。

「墨染めの袖」:墨のように黒く染めた衣の袖 ⇒ 僧侶が身に着ける衣の袖。

「杣」:「そま」=材木を切り出すための山 ⇒ ここでは比叡山のこと。比叡山には最澄が開いた天台宗の延暦寺が有り、「比叡山」の一言で仏教修行の場を意味しています。

「おほふかな」:「おほふ(被ふ/覆ふ)」+「かな」(詠嘆の終助詞)⇒ 「僧衣の袖で(うき世の民)を覆い隠して、苦難から守ろう」という意味。

「おほけなく」:「おほけなし」=分不相応だ/あつかましい ⇒ 「(たとえ世間に)身の程知らずと云われても」/この歌の作者は僧侶。人々の救済に立ち向かおうとしている作者が、謙遜して述べた言葉。

【直訳すると・・】

恐れ多いとは思いますが、私が比叡山に立ち、この僧衣の袖を広げて憂き世の人々を覆いましょう。そして、混乱の世の中から世の民を守ってまいりましょう。

かとうあきら

作者は若くして仏道の道に入り、修行に励み、38才で天台座主(僧職の最高位)に就いた僧侶です。名は前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)。1155年生まれ–1225年没。

この歌の「世」は、「世間」「社会」の意味に(2-⑤)、「平安時代から鎌倉時代へ移っていく混乱の時代」という意味も含めて解釈した方が分かりやすいと思います(2-①)

作者の慈円がこの歌を詠んだのは、修行途中の30歳くらいだったそうです。

時代は平安時代の末期。1185年には、かつて栄華を誇った平家が滅亡に追い込まれた〔治承・寿永の乱〕の最後の戦いである、有名な〔壇ノ浦の戦い〕がありました。

慈円は、戦乱や政情不安定な世の中で暮らす人々の苦しい生活の様子を見て、助けたいという使命感に燃えていたようです。

(10)第99番歌

~世を思ふ故に もの思ふ身は

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は

【意訳】

私は、あれこれ考えれば考えるほどに、世の中というものは、面白くない、つまらないものだと、思っています。だからでしょうか、世の中に生きる人間というものは、愛おしく感じる時もあれば、恨めしく思う時もあります。人間というものは、決して一筋縄では理解できない迷いのある存在なんですよね。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【解説】

「人もをし」:「をし(愛し)」=「愛おしい」/愛着の心。

「人もうらめし」:「うらめし(恨めし)」=「恨めしい」/不満な心。

「あぢきなく」:「あぢきなし(味気無し)」/つまらない、面白くない/不快な心。

「もの思ふ身」:「ものおもふ(物思ふ)」=いろいろと思い悩む/思惟する心。

<倒置法を読み解きましょう>:倒置をやめると、以下のような文脈になります。

「もの思ふ身」(私)は、人を「愛おしく」も「恨めしく」も思っています。なぜなら、(私は)この世の中を「あじきなく」思っているからです。

かとうあきら

この歌のテーマは、冒頭の二句「人もをし 人もうらめし」なのだと思います。

「人を愛おしく思う時もあれば、恨めしく思う時もある」人間の心の中は、まるでメビウスの輪のようです。迷いと矛盾でいっぱいです。これは、人間の心の真理なのかもしれません。。

この歌の「世」は、世間や社会のこと(2-⑤)。単に世間や社会ではなく、作者の生きている時代を強く意識して理解するべきだと思います。

作者は悩み苦しみながら生きていたのだと思われます。そして、それらの苦悩を少しでも和らげるためには「あぢきなく」と敢えて思うように、自分に言い聞かせていたのかもしれません。

そのような、寂しい、辛い心情が、ここにはあるように、私は感じています。

*

かとうあきら

ご一読、お願いいたします。

百人一首/意訳で楽しむ/恋、人生・世の中、季節・花、名月など

読んでくださり、ありがとうございます。