百人一首/恋の歌/英訳・英語で味わう日本の恋/平安貴族の恋愛事情八首


目 次

恋歌の事情と恋歌を味わう理由

※タイトルを「平安貴族の恋愛事情」としましたが、それらはもちろん、現代に通じるものであります。いいえ、恋と恋の苦悩は、いつの時代も変わりがないことを、これを読んでいただければ分かります。これらは恋愛指南です。

1.女性⇒男性へ/第八十番歌

 ながからむ 心もしらず 黒髪の~

2.男性⇒女性へ/第四十三番歌

 逢ひ見ての 後の心に くらべれば~

3.女性⇒男性へ/第五十六番歌

 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に~

4.男性⇒女性へ/第五十番歌

 君がため おしからざりし 命さへ

5.女性⇒男性へ/第五十四番歌

 忘れじの 行末までは かたければ~

6.男性⇒女性へ/第六十三番歌

 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを~

7.女性⇒男性へ/第三十八番歌

 らるる 身をば思はず 誓ひして~

8.男性⇒女性/第四十四番歌

 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに~

【恋の歌/まとめ】

(画像はイメージです/出典:photoAC)

小倉百人一首に収められたは百首の和歌のうち、四十三首が恋歌だそうです。

約四割が恋歌。恋歌が多いですね。

恋歌が多いのは、小倉百人一首の選者である藤原定家の何かの意図だったのでしょうか。

藤原定家としては、選者なのですから ”選者としていい評価を得たい” という欲はあったと思います。

”いい評価” を得るためには、歌の主題が人々の興味の対象になりやすいもの、そして歌として優秀なもの、それらに相応しい歌を選ぶ必要があります。

その結果として ”百首のうちの四十三首が恋歌” になったのかもしれません。

だとするならば、

恋愛というものはいつの時代にあっても人々の興味になりやすいものであり、また人々の興味の対象であるが故に沢山読まれたいから ”いい歌” を詠む、その結果として優秀な歌になる、という「いいサイクル」が恋歌成立の過程にあったのかもしれません。

それでは、それらの恋歌は、

それらが、今の時代にも共感できるものであれば、私たちが学ぶべき教訓であるとか、恋愛をするうえでの何らかの参考になるかもしれません。

この記事では、それら四十三首の中から、

恋心がしみじみと伝わってくる ”心狂おしく悩ましい恋歌” を八首選んで解説しました。(この選択は、あくまで私の感慨によります)

各々の恋歌の味わいに、より一層の理解と洞察が得られるように、

・各ブロックの冒頭に、各々の歌の趣旨を表す表題を付けました。

・以下①②③④を記載して、様々な角度から解釈できるようにしました。

※ 語句の意味の解説については、既存の資料から手に入れやすい状況を鑑みて、最小限に止めております。

※ ①②③④の出典等は、以下のとおりです。

直訳の出典/ちくま文庫「百人一首」、発行:筑摩書房、1990年12月第一刷。

②〔英訳の出典〕

”小倉百人一首英訳” より引用させていただきました。

Copyright (C) SIG English Lounge All Rights Reserved.

http://www3.to/kyomi/database/h1/

その英訳の日本語訳/Google翻訳です。

意訳/この記事の著者オリジナルです。

※ 語句の意味/角川 必携古語辞典 全訳版、発行:角川書店、平成9年11月初版。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

女性から⇒男性へ

第八十番歌

待賢門院堀河

(生没年不詳/鳥羽天皇(12世紀前半)の時代)

出典【千載和歌集】12世紀後半

1.ながからむ 心もしらず~

「ながからむ」:「ながし(長し)」の未然形「ながから」+「む(婉曲)」

意味は ”長くはないかもしれない”

「心も知らず」: ”(貴方の)心は分からない”

「ものをこそ思へ」:” 物思いにふけっている ”

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

日本語訳/Google翻訳

意訳/筆者

このあいだも、今日も、

そして、今朝の別れ際にも、

貴方は私に、

「ずっと愛しているよ」と言ってくださいました。

嬉しかった・・・。

でも、

先のことは分からないじゃあないですか?

本当にずっと、

貴方は私のことを愛してくださるのですか? 

・・・・・

私には、信じられません。

・・・嗚呼、そう思うと、

貴方と別れた今朝、

私の心は、

不安な気持ちでいっぱいになります。

私のこの黒い髪が乱れているように、

私の心も乱れて、

私は・・・

・・・・・

物思いに、沈んでいってしまうのです。

【要点】

平安時代の男女の逢瀬には、婚姻関係において「通い婚」という文化があったように、男性は夜に女性の家へ行き、逢瀬(床を共にする)の後、朝自分の家へ帰るという慣習がありました。

Q:何故?黒髪は乱れたのでしょうか?

 ⇒ 既存の参考文献には、次の二通りの解釈が見られます。

Ans①:歌の主人公は、自分に向けられた彼の愛情が長く続くかどうかわからないという不安にかられています。なので、あれこれと思い悩むみます。人は思い悩むとき、髪を掻きむしり、乱れた髪を気にも留めずに、物思いにふけります黒髪の乱れは、そのような様子を描いています。

Ans②:Ans①の状況と併せて、夜通し床を共にした逢瀬によなって、黒髪は乱れてしまっているのです。でも、同時に思い悩んでいるので、髪の乱れを直す気持ちの余裕はなく、乱れたままなのです。

Q:「けさ(今朝)」が、助詞の「は」によって強調されています。

「今朝」を強調する必然性は何だったのでしょうか?

Ans①:ただ ”今日の朝、思い悩んだ” ことを強調したかった。

Ans②:逢瀬の後の「今朝」であることを強調したかった。

私は、この「けさ」は逢瀬の後の「今朝」であり、「黒髪のみだれて」は、思い悩んで心が乱れているのと同時に、逢瀬による「髪の乱れ」でもある・・と解釈しています。世間の資料では両方の解釈が見受けられます。

さらに・・・

この歌、

作者にとって「男は信じられない存在である」ということを見逃してはいけません。

そこを見逃すと、この歌は単なるエロティシズムで終わってしまいます。

そして、当時の歌はコミュニケーションツールですから、この歌は相手の男性の元へ届くわけです。

相手の男性に、何を伝えたかったのでしょうか・・・?

私にこんな思いをさせないでください。私をもっともっと愛して、貴方の本当の愛を私に下さい」という願いではないでしょうか。

・・・なんていうことも、この歌の三十一文字から想像できるのです。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

男性から⇒女性へ

第四十三番歌

権中納言敦忠

藤原敦忠(906年~943年没))

出典【拾遺和歌集】11世紀初め

2.逢ひ見ての 後の心に~

「逢ひ見ての」:「逢ひ見る」/①顔を合わせる。対面する。②男女が関係を結ぶ。

※ 「逢ふ」にも「見る」にも、各々に ”男女が関係を結ぶ” という意味があります。

それを連ねているところから、その「逢ひ見ての印象」はとても強く、悦びに満ちたものであったことが推察されます。

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

日本語訳/Google翻訳

※ここは「何でもなかった」と過去形に訳したいところなのに、Google翻訳では「何でもないかもしれません」と現在形に翻訳されています。

意訳/筆者

私は貴女のことが好きで好きで、

もうどうしようもなく、

私は貴女のことをずっと思い続けてきました。

その貴女と、

今日やっと逢瀬がかないました。

貴女に逢えてよかった。

とても嬉しいです。

貴女は私が思っていた通りの素敵な女性でした。

貴女と逢えたことは、私の人生最大の悦びです。

私は貴女のことが益々好きになりました。

また直ぐにでも逢いたいです。

今、私のあなたへの思いは、

あなたと逢う前に抱いていた思いなど、

比べものにならないくらいに強くなっています。

またお逢いしましょうね。

要点

この歌は「後朝の歌(きぬぎぬのうた)」だそうです。

「後朝の歌」とは、前の晩より女性の家で逢瀬を楽しみ、朝になって自分の家へ帰った後に、男性が女性に贈る歌のことです。

男性は、デートの感想を女性に伝えるわけです。

当時の逢瀬のマナーだったようです。

現代に置き換えるならば、

デートの後、お互いがお互いの家に帰る頃・・「今日は楽しかった。ありがとう。また会いましょうね」と相手にメールかラインを送る”礼儀”のようなものだと思われます。

そう、勘のいい皆さまです。

もうお気づきだと思います。

この歌は、

それとも・・・

二通りの解釈ができるのです。

既存のいろいろな資料を読むと、

作者の藤原敦忠は恋多き男性だったようです。

同じ百人一首の第38番歌の作者である”右近” とも繋がりましたが、すぐに右近を振ってしまい、右近からは恨みをかっています(その恨みの歌が、第38番歌です)

作者が恋多き浮気者だったとすれば、

この歌は、純粋な恋心というよりは、 ”相手の女性を自分の元へ引き留めておくための、実は社交辞令だった” という理解もできます。相手の女性は「貴女はいい女」「貴女との逢瀬はとてもいい」と云われるのですから、別段悪い気持ちにはならないでしょう。本気にする女性もいるかと思います。

そこが、この歌の作者、藤原敦忠の狙うところです。

もちろん、社交辞令だと見抜く女性もいると思いますが。

作者である藤原敦忠は、この歌を贈ったその晩もまた、その女性の家を訪れたことでしょう。

私はそんな想像をしています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

女性から⇒男性へ

第五十六番歌

和泉式部

(生没年不詳/10世紀後半~11世紀初め頃)

出典【後拾遺和歌集】11世紀後半

3.あらざらむ この世のほかの~

「あらざらむ」:「あら」は「あり」の未然形。「む」は推量の助動詞。

意味は ”無いだろう” ⇒ ” この世には無いだろう” ⇒ ” 生きてはいないだろう”

「この世のほか」: 「この世」は現世。”この世の他” なので、死後の世界=天国

「逢ふ」:ただ「会う」でけではなく、“一緒に床を共にする” ”男女の関係になる” という意味を含むと解釈した方が、この歌の切実さが伝わります。

「もがな」願望を表す終助詞です。

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

 「comfort me in heaven. 」のみをGoogle翻訳すると、「天国で私を慰めて下さい」となります。comfort の解釈には幅がありますね。

日本語訳/Google翻訳

意訳/筆者

私の病は重く、

私はもうすぐこの世を去ります。

私のこの世での最後の願いは、

あの世へ行っても寂しくないように、

この世でのあなたとの思い出を、しっかりと心身に刻んでおくことです。

だから、

せめてもう一度だけでもあなたにお逢いして、

あなたと一緒の時間を過ごしたいのです。

ああ、あなたが恋しい。

ああ、あなたに逢いたい。

私は、はあなたを愛しています。

【要点】

作者は、すでに自分の身に訪れた運命を受容しているように感じられます。

それは、とても潔い、でも辛く悲しい心持です。

もしも、自分が「余命は〇ヵ月です」と言われたとしたら・・。

この世の最後に、もう一度だけ抱き合いたいと思う人は、誰でしょうか・・・

きっと、その人を思うことだけでも、心の慰めになるのかもしれません。

死を覚悟しながらも、

生への強い執着も感じられる、

切実な思いの抒情溢れる歌だと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

男性から⇒女性へ

第五十番歌

藤原義孝

(954年~974年没)

出典【後拾遺和歌集】11世紀後半

4.君がため 惜しからざりし~

「惜しからざりし」:惜しいとは思っていなかった

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

日本語訳/Google翻訳

意訳/筆者

私は、貴女のことを知ってからずっと、

あなたに恋焦がれてきました。

そして、

私は、貴女に逢うためなら、

この命さえも惜しくはないと思っていました。

それくらい、

私の心は、

貴女のことでいっぱいだったのです。

でも、

貴女と逢うことができた今、私は思っています。

貴女と末永く一緒に過ごすためには、

死ぬわけにはいかないのです。

どうか私と一緒に、

いつまでもいつまでも一緒に居てください。

私は貴女を愛しています。

【要点】

この歌には時間の推移があります。

「惜しからざりし」と思っていた過去と、「長くもがなと思ひけるかな」の今です。

その間に、作者の身に何があったのかというと、相手の女性との逢瀬です。

逢瀬の前は

「貴女のためなら死んでもいい。それくらい強く貴女に恋慕を寄せていました」

逢瀬の後は、

「もしも死んでしまったら、貴女と一緒にいられません。私は貴女と末永く一緒に暮らしたいので、長生きしたいのです」

この二つを対比しています。

対比することによって、

相手の女性へ「私は貴女のことを、以前よりも増して愛しています」という気持ちを伝えようとしています。

以上が、既存の一般的な解釈です。

上記に記した意訳は、世間一般の解釈でおこないました。

でも、実は、

私は、この歌を自分で詠んだつもりになって、世間一般の解釈とは異なる以下のように解釈をして、この歌を大事にしています。

私は元々厭世観の強い人間でした。

厭世観が強いがために、世の中を悲観し、物心ついてから今日に至るまでずっと、人生に無常感を感じながら生きてきました。

そんな私が、

貴女のことを好きになりました。

私は、貴女のためなら喜んで死ねる、死ぬことには躊躇はない、そう思っていました。そのように、命について、惜しいと思ったことはありませんでした。

でも、今は違います。

貴女は素敵だった。

私は、貴女に恋をして、

私は、人生の本当の素晴らしさを知ったのです。

そして、

貴女とともに末長く生きていきたいと思ったのです。

貴女との出会いによって、

私が長年苦しんできた厭世観は、

ついに吹き飛んでしまったのです。

貴女っていう人は、

すごい魅力に溢れた、

人生唯一のパートナーです。

世間一般の解釈だと、

私には、男性が女性の心をを引き留めておくための、安っぽくてキザな文句に感じられてしまいます。

上の句「君がため 惜しからざりし」には嘘があるように感じませんか?

もしも自分が死んでしまったら、

彼女とはデートできなくなってしまうではありませんか。

そんな現実もわからないまま「あなたのためなら死んでもいい」なんて、口が軽すぎます。

「君のためなら死んでもいい」そう言われたら、云われた方は、一瞬は嬉しいかもしれませんが、冷静に考えれば、死んでしまうのはとても無責任なことです。だから、そこには嘘が見え隠れするのです。

そう思ってしまうのは、私だけでしょうか・・・。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

女性から⇒男性へ

第五十四番歌

儀同三司母

(生没年不詳/10世紀)

出典【新古今和歌集】13世紀初め

5.忘れじの 行末までは~

「忘れじの」:「じ」は打消しの助詞。「忘れないということの」

「行末までは」: ” 遠い将来までは ”

「かたければ」:「かたし(難し)」/むずかしい。困難だ。:「ば」は確定を示す助詞。

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

ex:I would rather have a coffee.(どちらかというと、コーヒーが飲みたい)

・下に記したGoogle翻訳での「死ぬ方がマシです」の「マシです」というニュアンスを、この rather で伝えようとしています。

日本語訳/Google翻訳

意訳/筆者

あなたのことは決して忘れません” って、

貴方は私に言ったわ・・・

でも、

気持ちが永遠に変わらないだなんて、無理なことよ。

だからね、

幸せな今のうちに、死んでしまった方がいいと思うの。

ねえ、貴方も、そう思わない?

結果として、上記の英訳とそのまま日本語訳にするのと、さほど変わらないものになりました。

この文言、まるで、相手を心中に誘うような文句ですね。くわばら、くわばら。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【言外を遊ぶ】

「愛している」と口にしていても、いつかは心変わりする。人生は無常である・・という考え方があります。その考え方が、たとえ頭の隅っこにあったとしても、そんなことはない「愛し続ける」と思うのもまた、愛の形です。

そのような感慨を味わえる歌が、日本の歌謡曲にありました。

1959年、日本で流行った「誰よりも君を愛す」です。

その歌詞では、あからさまに愛の無常を歌っています。

そして・・、でも、それでも、やっぱり・・愛を貫こう、という強い決意がここにあります。

以下は、その二番の歌詞です。

この歌詞を読むと、次のような和歌を詠んでみたくなります。

忘れじの 行末までは かたくとも 長くもがなと 祈る朝 ”

いつまでも忘れないと言ってくださいますが、遠い将来までは難しいことだと思います。思いますが、末長く思っていてほしいと、お願いする今朝の別れでございます。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

男性から⇒女性へ

第六十三番歌

左京大夫通雅

(藤原通雅(992年~1054年没)

出典【後拾遺和歌集】11世紀後半

6.今はただ 思ひ絶えなむ~

「今はただ」: ” 今となっては ”

※「今」という冒頭に注目しましょう。「今は」なのですから、過去には何があったのだろう、未来をどのように思っているのだろう・・そのように想像してみることが、鑑賞の幅が広げる助けになります。

「思ひ絶えなむ」: ” 思うことを止めてしまう ”

「とばかりを」:” ~ということだけを ”

「言ふよし」:「よし」は手段、方法。

「もがな」:特に、実現が難しい事柄に対する ” 願望 ” を表す終助詞。

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

日本語訳/Google翻訳

※最後の only that I will get over you. が分かりかねますね。

Google翻訳では「あなたを乗り越えるということだけを」と訳しており、意味が通じなくなっています。

I will get over you. は「私は、あなたを忘れます」という意味です。

get over には「きっぱり忘れる」「ケリをつける」という意味があります。

ex: I got over him. (彼のことはきっぱり忘れました)

ex: I can’t got over him. (彼のことをひきずっています)

意訳/筆者

今となっては、

私は、あなたのことをきっぱりと諦めます。

・・・・・

ああ・・ということだけでも、

人づてではなくて、

あなたに会って直接お伝えしたい。

でも、逢えないのですね。

ああ、あなたに逢いたい・・・

【要点】

この歌の作者は、愛してはいけない人を愛してしまったようです。

それを知った天皇は、見張りをつけて、二人が逢えなくしたそうです。

作者は、ただただ、逢いたかったのだろうなぁ・・と思います。

「愛する人に会えない・・ああ、逢いたい」その気持ちに共感できれば、この歌の鑑賞は、それで充分だと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

女性から⇒男性へ

第三十八番歌

右近

(生没年不詳)

醍醐天皇/9世紀後半~10世紀初/の時代)

出典【拾遺和歌集】11世紀初め

7.忘らるる 身をば思はず~

※この歌は、省略されているものが多く、とても難解だというのが私の感想です。

「忘らるる」:「忘る(わする)」動詞/主に「わすらゆ」「わすらる」の形で用いられる。

連体形の「忘ら(わすら)」+「るる」受身の助動詞。

意味は、”忘れられてしまう”

「身をば思はず」: 「身」は ”自分のこと(作者自身)” 。「ば」は強調の助詞。

意味は、”自分のことは気にしません”

「人の命の」” 相手の男の命 ” のことなのですが、この三十一文字からそののことは想像しにくいと思います。

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

~というよりは、むしろ、もっと正確に言えば、

(ある行為の結果として)負う、受ける、招く、引き起こす。

 罰/ you must die incurred the punishment of heaven. ⇒天の罰を受けて死ななければならない。

swear 「誓う」の過去形

日本語訳/Google翻訳

意訳/筆者

ああ、あなたの心から私が消えていく・・。

でも、いいんです、

私はあなたのことを、きっぱりと諦めます。

私はどうなってもかまいません。

ただ、思い出してください。

あなたは私に永遠の愛を誓ったのですよ。

一度誓ったのに・・、

誓ったのに、その誓いを破ったら、

どうなるのか、あなたは知っていますか? 

あなたには、神罰が下るのです。

そして、神罰は、

あなたの命を奪うでしょう。

あなたが死んでしまうだなんて・・ああ、

わたしは、

あなたのことが惜しまれてなりません。

【要点】

鑑賞の第一歩は、詩歌でも文章でも同じことですが、最初に主語と動詞を把握することです。

この歌は省略が多いので、三十一文字だけから解釈するのは難儀だと思います。なので、よけいに、主語と動詞を明らかにすることが、理解を助けてくれる要点となります。

この歌をざっと読むと、四つの動詞が目に入ります。

それぞれの動詞の主語を探ることが、この歌の鑑賞をしやすくしてくれます。

「忘らるる」:忘れられるのは作者、そこには作者を忘れる相手(彼)もいます。

「思はず」:思うのは作者です。

「誓ひして」:作者のことを忘れた相手(彼)です。

「惜しくも」:惜しくないと思っているのは作者です。

そうすると、「身」とは誰のことなのか、「人の命」とは誰の命なのか・・を明らかにすることに迫られます。そこが、この歌の解釈の糸口になります。

下の句の最後「惜しくもあるかな」(惜しまれてなりません)の部分、

英訳では中頃に「 I’m sorry ~」と訳しているところ、

”相手の男を恨みきれないでいる未練” とか、”怒りを抑えた相手の男への愛情” であるという一般的な解釈があります。

それは、本心であるのかないのか・・? 私には、皮肉っぽく、嫌味な言い方に聞こえてきて、私はこの歌を ”自分を裏切った男への恨み節” のように感じています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

男性から⇒女性へ

第四十四番歌

中納言朝忠

(藤原朝忠(910年~966年没)

出典【拾遺和歌集】11世紀初め

8.逢ふことの 絶えてしなくは~

「絶えてしなくは」:”「絶えて」+打消しや否定表現”の未然形 ⇒ まったく、すっかり

「逢ふことの 絶えてしなくは」 逢うことが、まったくなかったならば ”

「なかなか」: ①中途半端に。 ②かえって。むしろ。③(下に打消の表現を伴って)とても。

「人をも身をも」:ここでは、「人」は相手のこと、「身」は自分のことを意味しています。

「恨みざらまし」:「恨み」+「ざら(打消の助動詞)」+「まし(反実仮想の助動詞)」

※反実仮想/「〇〇ならば、△▽だろう」

意味は、冒頭からの「~なくは」を受けて「恨んだりはしないだろう」

直訳/百人一首「日本の古典」ちくま文庫

 それどころか。むしろ。

 恨み

日本語訳/Google翻訳

意訳/筆者

貴女には、

もう二度と逢えないのですか? 

だからといって、

貴女のことを恨んだり、

運命のせいだと自分を責めたりは、

たぶんしないと思います。

ああ、でも、本当のことを言うと、

もしかしたら、恨んでしまうかもしれません。

でも、

貴女が好きだから恨みたくはありません。

・・・・・

ああ・・

こんな不安な気持ちが続くのなら、

いっそのこと、

貴女に逢わなければよかったのに・・・

・・・・・

なんていうことも思ったりします。

貴女に逢えないこの苦しさを、

どうか貴女だけは分かってください。

大好きです、愛しています。

【要点】

英訳は If I would never see you, というように、「もしも~」という仮定で始めています。私も、同じように、上の句を「仮定」ととらえて意訳しました。

すると、その仮定に対する結果として「逢わなければ、こんなに苦しむことはなかっただろうに」という気持ちが想定できました。

恋というものは、

そもそもが自由な精神の発露ではありますが、

時と場合によっては、

とても身勝手なものだと思います。

恋は、

理路整然とした理屈があるわけではなく、

恋は、

突然人を好きになったり、

愛する気持ちに自ら溺れたりします。

そして、うまくいかなければ、四十四番歌のように「逢わなければよかった」だなんて、勝手なことを都合のいいように言葉にして、その気持ちを当たりまえのように思ったりすることもあります。

そんなふうに、

恋というものは難しいものですから、

恋が成就するとき、

それは、もしかして、

空前絶後、前代未聞なこと・・

なのかもしれません。

今、愛し合っているカップルがいたら、

それは稀有なことなのです。

なので、

お互いの気持ちを尊重しあって、

丁寧に丁寧に協力しあって生きていくことが望ましいのだと思います。

四十四番歌の場合は、

恋する気持ちの身勝手さを上手に表現していると思います。

でもそれは、一方で、

人の心の自由な発露です。

自由な心の発露・・ではありますが、

「逢わなければよかった」だなんて、決して相手の耳には入らないようにしたいと思います。

恋は、成就も失恋も、

きっと、

お互い様のことなのですから。