月を詠んだ和歌/百人一首31/有明の月/朝ぼらけ有明の月と見るまでに


日本の有名な歌集「百人一首」に収められている和歌の中から、「月」を詠んでいる和歌をご紹介いたします。

百人一首/第三十一番歌

(画像はイメージです/出典:photoAC)

この歌・・

”有明の月” と詠んでいますが

実は・・・

その場に月は輝いていません

空に浮かぶ月を見て月の歌を詠んだ・・というのではなく、

「明け方、障子越しに窺える外の様子が明るいので、きっと ”有明の月が照らしているのだろう” と思って障子を開けたら、その明るさ・・、実は ”有明の月による明るさ” ではなくて、降り積もった雪だったよ。吉野の里に降り積もる白雪の輝きは、なんて美しいのだろう・・」とか、

「吉野の里に降り積もった雪の白さ、その輝き、その美しさは・・、まるで有明の月が大地を照らしているように白く光り輝いている。ああ、きれいな吉野の白雪だ・・」

・・・というような状況を詠んでいるのです。

なので、

百人一首の中の “月を詠んだ和歌” にはどのような歌があるのだろうと思って検索してみると、この「朝ぼらけ~」の歌を “月を詠んだ和歌” には数えていない解説書もありました。

私はというと、この「朝ぼらけ~」の歌に「有明の月」は実際に出ていないけれども、歌の重要な構成要素として「有明の月」という月を用いているので、”月を詠んだ和歌” の仲間に数えました。

吉野の里

吉野は、現在の奈良県吉野郡に当たる地名です。桜の花の美しさでも有名であり、万葉集が成立した時代頃から吉野を題材にした歌は多く詠まれているそうです。

吉野の里に関する情報については、JR西日本が運営する旅のコラムに「世を捨て吉野に庵を結びて花を詠む」というタイトルの記事がありました。これを読むと、吉野のことがよくわかります。

「朝ぼらけ」と「有明の月」

古語辞典では「朝ぼらけ」を以下のように説明しています。

「朝ぼらけ」

:朝、空がほのに明るくなるころ。夜明け方。「あけぼの」よりもやや明るくなった頃のこと。

この説明を読むと「あけぼの」の意味も確認してみたくなりますね。そしてさらに、朝の代名詞である「あかつき」も調べてみたくなりました。

「朝ぼらけ」「あけぼの」「あかつき」を、早い順に時系列で並べると以下のようになります。ここに記載した説明は、以下の古語辞典より引用しました。

〔引用元〕角川必携 古語辞典 全訳版/平成9年11月初版

あかつき(暁)

:夜明け前の、まだ暗いうち。未明。

 ⇩

あけぼの(曙)

:朝、東の空が明るくなったころ。夜明け方。

〔ex:「春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山際すこし明かりて~〕/枕草子の冒頭より

 ⇩

あさぼらけ(朝朗け)

:朝、空がほのに明るくなるころ。夜明け方。「あけぼの」よりもやや明るくなった頃のこと。

(画像はイメージです/出典:phtotoAC)

そして「有明の月」の「有明」とは、以下のような様子を云います。

「ありあけ(有り明け)」

:月が空に残ったまま夜が明けること。また、その時分。また朝まで残る月。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

作者は朝、障子越しに感じた外の様子の明るさに、少し驚いたのかもしれません。

そして作者は、

”有明の月が出ているんだなぁ…吉野の里に輝く有明の月だ…さぞかし美しいのだろうなぁ…と思ったのかもしれません。

でも、障子を開けてみたら・・それは吉野の里に降り積もった白雪だったのです。

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪

この歌の言い回しについて、他の古文の解説にはない視点・・現代の広告コピーの定番構文に照らし合わせてみると、

「まるで〇〇のように△▽な◎◎」(まるで有明の月のように明るい吉野の白雪

とか、

「◎◎なのに、〇〇みたい!」(降り積もった白雪の明るさなのに、有明の月みたい!

という構文を思い起こさせてくれます。

このような見方は既存にない視点であり、鑑賞の幅を広げてくれると思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

この歌は平安時代の歌なのですが、この歌で分かることは、当時「有明の月」が大地を照らす照明の役割をすることもあったということです。

その日の天気、温度と湿度、そして月の満ち欠けの程度によって、月の輝く度合いは異なります。ただ、この歌に「有明の月と見るまでに」とあるように、この日は「有明の月」の照度は高く、「有明の月」が白く明るい光を大地に注いでいた・・そういう朝もあったということです。

その認識は、当然ながら当時の夜間照明の照度の低さとの相対比較によって、人の視覚に感じられたものなのでしょう。

平安時代の夜間照明

当時の夜の灯りは、ひとつは月の灯り。もうひとつは「蝋燭」又は「灯明」

(画像はイメージです/出典:photoAC)

「灯明」は、皿に植物などから搾り取った灯油(ともし油)を燃料とした灯りです。油には、定かでではありませんが荏胡麻(えごま)油、椿油が用いられたらしいです。

第三十一番歌

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに

吉野の里に 降れる白雪

〔読み方〕

あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに

よしののさとに ふれるしらゆき

(画像はイメージです/出典:photoAC)

【意訳(Free translation)】するときの要点

この歌、難しい古語は使わず、目の前に起きている事象をそのまま歌にしています。この歌は、各々の語句の意味を直截的に感じ取ることが大事な歌なのです。なので、この歌は意訳しようにも意訳できない歌だと思います。

それでも、もしも意訳するのであれば、

「有明の月」と思って見たら、白雪だったよ。吉野の里に降り積もる雪はきれいだなぁ…」

「吉野の里に降り積もる白雪は、まるで有明の月のように明るくて綺麗だ」

このどちらかの解釈を軸に書き進めればよいかと思います。

体言止め

ちなみに、この歌は、その末尾を体言止めにしています。体言止めにより、想像される情景に余韻が残るという効果が出ています。

体言止めは、”アウトプットされる表象をよりいっそう明確にしてくれる” という理解でも良い野かもしれません。

例えば、次の「桜が散る」という情景の表現について、”用言止め” ”体言止め” の印象の違いを感じてくださいませ。

〔例〕桜散る(用言止め/末尾を動詞、形容詞、形容動詞で終わらせる)

〔例〕散る桜(体言止め/末尾を名詞で終わらせる)

もうひとつ、百人一首から事例を作成してみましょう。

〔用言止め例〕百人一首の第五番歌

「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

 ⇩

これを体言止めにすると・・・

「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 悲しき秋

となります。

みなさんは、どちらに感慨深さを感じますでしょうか・・・。

「体言止め」の考察

視点を変えて・・

系列位置効果の親近効果

心理学には、文章の中の言葉はその配置によって相手に与える印象度が異なるという「系列配置効果」というのがあります。

その中にある「親近効果」を考察すると、体言止めとか用言止めとかに関わらず、文末の言葉は印象に残りやすいという”心理的効果”の存在を知ることができます。

”体言止め” の効果については、実はその「親近効果」が現れたものなのではないかと、私は密かに思っています。

例えば、広告コピーの場合・・・

A:「このワイン、高品質なのに低価格」

B:「このワイン、低価格なのに高品質」

どちらのコピーも、このワインは「高品質」と「低価格」を同時に満たしているという情報なのですが、不思議なのことに、Aは「低価格」が強調され、Bは「高品質」が強調されます。

例えば、デートで夜遅くなって、相手には泊まっていって欲しい・・でも、素直に言えない・・でも、やっぱり朝まで一緒に過ごしたい・・なんていう状況の時に、

A:「ねえ、泊まっていく? それとも帰る?」

B:「ねえ、帰る? それとも泊まっていく?」

相手がYESと言いやすい ”質問の仕方” はBです。

なぜなら、Aの方は「この人、私を帰したいのかしら・・」とチラッとでも思わせてしまいますが、Bの方は「泊まっていく?」という問いかけを文末に配置することによって「泊まっていって欲しい/朝まで一緒にいたい」という気持ちがきちんと伝わりやすいからです。

このように、

「親近効果」によって相手に与える印象が異なることを知っておくことは、

デートの時に活用するべき心理作用だと思います。

そしてもちろん、ビジネスにも活用できます。

「親近効果」と「体言止め」の関連について知見のある方は、ご意見を伺いたいところでございます。

体言止めに戻って・・・

実際には、どの言葉を選択したらよいのかは、・・伝えたい内容、そして、そこに辿りつくまでの経緯、それぞれの理由によっても、効果の程度は異なると思います。

(〔有明の月〕画像はイメージです/出典:photoAC)

読んでくださり、ありがとうございます。

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