※この頁では老人ホームでの出来事を、そこで働いている介護士が口語自由詩にてお伝えしています。
【車止めで一息101】
さようなら

(画像はイメージです/出典:photoAC)

老人ホームで暮らす、お婆ちゃんお爺ちゃんのこと、
気になりませんか?
少しだけでもいいので気にしてみて下さい。
そこには、人生最期の自分の姿があるかもしれません。

老人ホームは、もうすぐ天国へ逝かれる高齢者様を一旦引き留めて、天国へ逝く前の僅かな時間を少しでも気持ちよく過ごしてもらえるように、日々の生活を支えるところです。
皆様、必ず逝きます。
当然のことです。
なので、焦ることなく都度都度の心身機能に合わせたケアをおこないます。
そして最後のケアである”看取り介護”へと、ケアの内容も変わっていきます。
看取り介護の段階に入ってからお亡くなりになるまでの期間は、人によって様々です。私の感覚では2~3ヶ月位かな…と受け止めています。
人が老死〔いわゆる老衰死のこと〕という自然死へ向かっていくとき、最後の数日間は水分を摂取させることさえも無くなります。ご本人様が「み、みず・・」と訴えることがあっても、スプーンに三分の一程度を2~3杯、又は唇を湿らせる程度のことしかしません、しませんというよりはできません。
看取り介護をさせて頂いているとき、ああ、もうすぐ逝くんだな・・と感じるときがあります。勿論、口にはだしません。他のスタッフも同じ思いを抱くようです。
私の場合、勤務が休みの日でも気になります。夜中に目が覚めて、ああ、今逝っちゃったのかなぁ…なんて思うこともあります。
なので、休み明けの出勤は、気になっていた方のその日のケア予定を確認することから入るのが常です。
【 さようなら 】
車止めで一息 101
さようなら
休み明けの出勤。
今日のタイムテーブル、
あの方のケアが入っていない。
確かめたくはない。
知りたくはない。
夜勤者からの申し送り。
〇〇様はご逝去されました。
上手に逝けたのかしら、
そのときを知りたい、
教えてほしい。
一昨日のケア、
清拭だった。
細くやせ衰えた身体、
大事に撫でるように拭いた。
あれでよかった。
立ち合いしたかったな。
逝くなら逝くと、
教えてくれたらよかったのに。
付き添っていても逃すことはある、
その一瞬の永遠の始まり。
喘鳴はあったのかしら。
その時、
手を握りたかった。
手を握って、
感謝を伝えたかった。
あなた様は、
わたしたちに、
介護の仕事を、
与えて下さいました。
介護の仕事を通じて、
人間の尊厳という大切なものを、
体現する機会を与えてくださいました。
どうもありがとうございました。
感謝いたします。
いつかまた、
天国で、
お会いいたしましょう。
*
<語句の説明>
清拭(せいしき):入浴できない方の身体を、ホットタオル等で拭いてさしあげる行為です。
喘鳴(ぜんめい):ここでは「死前喘鳴」の意味です。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【 詩 境 】
詩 境
今の世の中、老死を迎える場所は、自宅、病院、老人ホームの三択です。
そして、病院は死に抗う所ですが、老人ホームは死を受け入れる所です。
自宅はどうでしょうか。在宅ケアをしながら死期が近づいてきたとき、自宅で死にたいというのは本人様の希望なのでしょうから、自宅も死を受け入れる所と理解してよいと思います。
*
先に、”老人ホームは死を受け入れているところ”と書きました。でも、現実には全てのご入居者に当てはまることではありません。なぜなら、ご家族様が死に抗う場合があるからです。
先日はこんなことがありました。
認知症症状が進みつつある90歳代後半の方でした。移動は車椅子介助。排泄はリハパンを使用。トイレの便座に座ることは出来ましたが、全介助に頼っていました。
ある日のこと、その方が発熱されたのです。感染症が疑われました。食事は”きざみ食”をご自身で召しあがることができていましたが、食べられなくなりました。対応として、抗生剤と点滴が施されました。でも改善にはいたりませんでした。〔抗生剤と点滴の処方はホームで契約している主治医の往診によるもので、現場では看護師が対応します/老人ホームを選ぶ時、このような対応の可否は判断材料に入れておいた方が良いと思います〕
改善が見られなかったことに対して、ご家族様は親が重篤な状態になることを危惧しました。そして、ご家族様は救急搬送を望んだのです。その結果、その方は病院に入院されました。
発熱の症状は改善したのですが、ご自身で食事をすることはできなくなっていました。数日間何も口にしない状態が続いたことにより、嚥下機能〔口に入れた食べ物を咀嚼して飲み込むの力〕を維持できなくなってしまっていたのです。高齢による身体機能の低下ですから、もうどうしようもありません。
入居していたホームでは、ホームに戻り看取り介護をさせて頂くことを提案しました。
でも、意外な結果が待っていました。意外というのは、世間様はどう思うのかわからないのですが、あくまで私の感想です。
その方は経管栄養の処置を施して、経管栄養の摂取に対応できる施設へと移っていかれたのです。病院はおそらく症状に関する対応説明の責務として、経管栄養という方法を説明したのでしょう。それに対して、ご家族様が経管栄養の選択を判断されたのです。
ご本人様は、もうすぐ100歳になろうとされている高齢な心身です。世間様で云うところの、いわゆる”よぼよぼ”なのです。なのに、ご家族様は、その”よぼよぼの身体”に穴を開けて、太い注射器のような道具で、ドロドロの栄養食を身体に入れて命を少しでも長く保てるようにと、望んだのです。
私は思いました。”あさましきもの” だと。
〇〇様…かわいそうに、ただ生かされるだけだ・・
きちんと死なせてあげればいいのに・・
”終わり方” の選択というものは難しいように思えます。
いいえ、そんなことはありません。
感謝の気持ちをきちんと持つことで、そこに諦念が生まれます。諦念を持つことによって、そこに覚悟が生まれます。
感謝 ⇒ 諦念 ⇒ 覚悟… です。
「あさましい」:
:以下は「明鏡国語辞典|第二版/発行:大修館書店」の説明です
① 姿・形などが、みじめで見るに堪えないさま。
② 品性・態度に欲が表れていて卑しいさま。
③ 考えが浅く、愚かなさま。
「諦念」:
:単に「諦める」という否定的な観念ではなく、”現実の中の真理”を受け入れた上での心の状態を意味しています。
*
老死にむかっていくときの看取り介護は、それまで以上に丁寧に、それまで以上にきちんと、それまで以上に心を込めて、そして大宇宙よりも重く尊い命と、その方に対して、「ありがとうございます」の気持ちを強く意識して、寄り添わせていただくことが大事だと思います。
そして、心の中で、こうつぶやきます。
「命のこと、介護のこと、いろいろ勉強させてくださり、ありがとうございました」
「〇〇様、やっと、人生という荷物を降ろせますね」
「〇〇様、長い人生、おつかれさまでした」
「〇〇様、もう、頑張らなくて、いいんですよ」
「〇〇様、本当に、ありがとうございました」
*
介護の仕事は3K〔きつい、汚い、危険〕で語られることがあります。 ”給料が安い”を加えて4Kとも揶揄されているようです。
そういう部分は確かにあるにしても、決してそれらだけではありません。介護の仕事が3Kとか4Kとか、それらだけと考えるのは”浅薄な認識” ”浅薄な言動”というものです。
介護の仕事は、
・人を学ぶことができる。
・人というものの複雑怪奇さを学ぶことができる。
・人というものの面倒くささを学ぶことができる。
・他者様の様々な人生を知ることができる。
・命の、変化と劣化と終末を学ぶことができる。
・命の、尊厳を学ぶことができる。
・命に、感謝の気持ちを運ぶようになれる。
・・・・・
介護の現場に携わりながら、その様子や思いを言葉にしてきて、私はそのように思っています。
死は、自分のこととしても家族のこととしても、いつか行く道。
その時になってオロオロしないように、きちんと覚悟して迎えられるように、したいものです。
そのためには、今というこの生きている時を、たとえ苦しい時でも、一生懸命に楽しむということが大事なのではないかと思います。
*
この「介護の詩/車止めで一息」は、ここで一旦休止しようと思います。
ここまで言葉にしてきたことを振り返り、見直しすることに時間を当てたいからです。
読んでくださいました方々へ、読んで下さりどうもありがとうございました。感謝いたします。ありがとうございました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【今までの作品一覧】
以下にございます。
”介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子/「車止めで一息」/詩境”