【車止めで一息 020】
帰宅願望③

老人ホームで暮らしている、お爺ちゃん、お婆ちゃんのこと、気になりませんか?

心が何かに囚われて悩むとき、異なる何かに心を向けてみることは必要なことなのですね。気持ちが分散すれば、悩みは少し軽くなります。
私は、介護士として、老人ホームで働いています。
そして、人々が老いていく様子のその中に、様々な人生模様を見る機会をいただいております。
介護/老人ホーム
私は、そこで見て感じた様々な人生模様を、より多くの人たちに伝えたいと思いました。
なぜなら、「老人ホームではこんなことが起きているんだ」と知ることによって、介護に対する理解が深まり、さらに人生という時間軸への深慮遠謀を深める手助けになるだろうと思ったからです。
それは、おせっかいなことかもしれません。でも、老後の生き方を考える”ヒント”になるかもしれないのです。
伝える方法は、詩という文芸手段を使いました。
詩の形式は、口語自由詩。タイトルは「車止めで一息」です。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
高齢者の、老人ホームでの息遣いと命の灯を、ご一読いただければ、幸いでございます。
【車止めで一息】
車止めで一息 020
帰宅願望③
膝の上には、
衣類でパンパンに膨れた白い大きなポリ袋。
詰めてあるのは、
チェストに畳んで収納されていた春夏秋冬の衣類たち。
今日も貴女様はそれらを抱いて、
ロビーのソファで待ち続けていた。
「娘がね、お母さんしばらく、ここに居てねって、云ったんですよ」
「娘が迎えに来たら、すぐ帰れるように準備しているんです」
目線の先にあるのは、
電子ロックされている重そうな両開きの茶色い扉。
扉の先にあるのは、
貴女様が描いているであろう緑に囲まれた自宅。
今日も貴女様は帰宅願望を抱いて、
ロビーのソファで待ち続けていた。
「娘がね、お母さんしばらく、ここに居てねって、云ったんですよ」
「娘が、もう少ししたら、来てくれるんです」
昨日待っていたことは忘れて、
今日も待ち続けている貴女様。
介護士は勧めた。
「〇〇様、待っている間に、写経をしませんか?」
「しゃきょう?」
*
ロビーに陽光が降り注ぐ、床まである大きな窓。
外の景色が見える窓に向かって置かれているのは、
丸い小さなテーブルと、ゆったり座れる一人用のチェア。
今日も貴女様は白い半紙に向かって、
筆を動かし続けていた。
「〇〇様、〇〇様・・」
声をかけても、気が付かない。
傍に立っても、気が付かない。
首は左右に動き、手は文字を写す。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時・・・
一人用チェアにお尻を半分。
姿勢よく背中を立てて、首だけ傾けている。
筆を握り、テーブルの半紙に向かう。
照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子・・・
四週間前。
「〇〇様、娘さんのこと、写経をしながら待ちませんか?」
「しゃきょう?」
介護士の勧めに貴女様は応じてくれた。
背中をすーっと伸ばし、口は真一文字、集中している。
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識・・・
「〇〇様、〇〇様・・」
声をかけても、応じない。
傍に立っても、応じない。
白い半紙は貴女様が描く墨色の文字に装飾されていく。
亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄・・・
だいぶ写したところで、貴女様は顔を上げた。
「ふう・・・、だいぶ書いたわよ」
「すごい! 上手ですね」
「そう? ありがとう。娘が見たら、なんて云うかしら」
今日もロビーで写経をしながら、
なかなか来ない娘を待つ、
母独り。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
詩境

前々作作「帰宅願望①」、前作「帰宅願望②」の続きです。
〇〇様は写経に高じて、帰宅願望は薄れてくれるかな・・という介護士の期待がありました。
〇〇様には書道の心得が少しあり、写経がどういうものかもご存じでしたので、そこは取り組みやすかったです。そして、嬉しいことに、〇〇様の集中力には目をみはるものがありました。
果たして・・・でも、娘さんのことは、そう簡単に忘れるわけありませんよね。
最期の方・・「そう? ありがとう。娘が見たら、なんて云うかしら」という言葉となって娘さんを思う気持ちが出てきました。
でも、その言葉は、微妙に帰宅願望の軸からは、ずれているのです。
後日談になりますが、写経をきっかけに、〇〇様の帰宅願望は表に出なくなっていきました。
認知症と診断されている、娘の来訪を待つ高齢の母を描きました。
私が介護士として働いている施設は「住宅型介護付有料老人ホーム」です。
自立の方、要支援1~2の方、要介護1~5の方が住まわれており、看取りも行っている施設です。
【作品一覧】
ご一読いただけましたら、幸いでございます。
介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子「車止めで一息」/詩境
読んでくださり、ありがとうございました。