※この頁では老人ホームでの出来事を、そこで働いている介護士が口語自由詩にてお伝えしています。
【車止めで一息 94】
記憶障害

(画僧はイメージです/出典:photoAC)

老人ホームで暮らす、お婆ちゃんお爺ちゃんのこと、
気になりませんか?
少しだけでも気にしてみて下さい。
そこには、人生最期の自分の姿があるかもしれません。

記憶障害は認知症に現れる最も顕著な症状です。
周囲の者や介護者が認知症の方とコミュニケーションをとる際には、その記憶障害に対して、謙虚な心持で相手様に寄り添うことが大事です。
認知症の方の発話に対して「そんなことも忘れてしまったの?」とか「違うよ」とか否定的な言葉を口にすることはご法度です。
そのような言い方は、自身の認識や価値観で物事を推し進めようとする傲慢さと何ら変わりありません。
健常者による普通の会話でも、相手様から無下に否定されてしまったら、気分のいいものではないことを思い出してほしいのです。相手様が認知症を患っているのであれば、なおさらです。
認知症の方とのコミュニケーションでは「叱らない」「指摘しない」「否定しない」「できることは自分でやってもらう」「ほめる」ことが介護者に求められる基本姿勢です。それらを意識して接するのと、意識しないで接するとでは、意識して接する方がコミュニケーションがとりやすくなりますので、機会があれば実践してみてください。
認知症の方とコミュニケーションをとる者にとって必要な謙虚さとは、相手様の発話に対して、そのように思っているんだ、そのように感じているんだ、ときちんと受け止めて「そうなんですね」と共感を示してさしあげることです。
つまり、私はあなた様のおっしゃっていることを理解しました、私もそう思います、と共感を示してさしあげるのです。そのようにすると、相手様は安心して、心を開いてくださいます。
「そうじゃあない」とか「違います」とかは、コミュニケーションを難しくするだけなのです。
そして、寄り添うとは、
相手様の動く心を海岸に打ち寄せる波だと思って、そこに上手く乗っかって、まるでサーファーのように、相手様の心の波長と同じ振幅の中に身を投じることです。
すると、そこに新しい景色が見えてきます。そして、その景色を心のスクリーンに感じたとき、誰にも侵されない生の尊厳を垣間見ることができます。
【 記憶障害 】
車止めで一息 94
記憶障害
貴女様は過去を持たない。
貴女様は今を生きる人だ。
洗面台の鏡に映っているのは貴女様。
紛れもない九十二歳の貴女様。
貴女様は鏡をじーっと見つめた。
見つめ合う貴女様と貴女様。
そして言った。
「この白髪頭の婆さんは、誰だ?」
貴女様はホホホと笑った。
貴女様は自分を忘れていた。
洗面台の鏡に映っているのは他人様。
こんな婆さんが私であるはずがない。
貴女様は鏡をじーっと見つめた。
見つめ合う貴女様と貴女様。
そして言った。
「あたしはどこにおるん? 死んだんか?」
貴女様は言った先から忘れていった。
貴女様の興味はスタッフに向かった。
洗面台の鏡にいるもうひとりの誰か。
後ろに立ってまばらな白髪を梳かしている。
貴女様は鏡の中のその誰かをじーっと見つめた。
そして言った。
「あんた、どこからわいてきたん?」
貴女様は過去を持たない。
貴女様の今は今を過ぎれば消えてしまい心に残らない。
今しがたスタッフが来て朝の挨拶をしたことも、
ベッドの上でスタッフにおむつを交換してもらったことも。
みんな忘れた貴女様は目をくりくりさせていた。
そして言った。
「おめかしして、どこへ行くん?」
スタッフは貴女様の白髪を梳かす手を止め、
鏡の中の貴女様の顔に自分の顔を並べて、
鏡の中の貴女様に言った。
「美味しい朝ご飯を食べに行きましょう」
スタッフの言葉を受け取る二人の貴女様。
二人の貴女様が言葉を返した。
「美味しいかどうかは、食べてみないとわからん」
貴女様は過去を持たないけれども、
貴女様はほんの少し先の未来を想像できる。
今とほんの少し先の未来を生きている。
認知症だと周囲は言うけれども、
けっこう幸せな毎日なのかもしれない。
貴女様はスタッフに行った。
「髪はもういい! はよせんかい!」

(画僧はイメージです/出典:photoAC)
【 詩 境 】
詩 境
私はベッドの上で主様の排泄介助をおこない、車椅子に移乗して洗面台に誘導しました。そこで、主様は鏡を見て口にしたのです。「この、しらがあたまのバアさんは、だれだ?」
私は「〇〇様ですよ。ロマンスグレーがおきれいですね」と伝えました。
すると主様は「わしは、こんなバアさんになったのか? アハハハハ、そんなはずはない」と仰ったのです。私は、主様のその心の流れに乗って会話を続けました。
すると今度は、主様の白髪に櫛を入れている鏡の中の私に向かって「あんた、どこからわいてきたん?」と仰いました。私はもう10分近く前から主様と一緒にいました。でも、主様は、訪問時に顔を合わせて朝の挨拶を交わした事も、ベッドの上で話をしながら排泄介助を受けたことも、忘れてしまったようなのです。
このように、顕著な記憶障害を発症している認知症の方との介助において、介護者はどのように相手様の心の波長に合わせてコミュニケーションをとっていったらいいのか、それを詩作のテーマにしたいと思いました。
イメージとしては、認知症の方の心の動きは海岸に打ち寄せる「波」です。大きかったり小さかったり、いろいろな形と大きさの波です。そして、介護者は、その波に乗るサーファーです。
上手く波にのれるかどうか、そのためには謙虚さと寄り添う気持ちが大事だと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【今までの作品一覧】
以下にございます。
”介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子/「車止めで一息」/詩境”