※この記事では、方丈記の第二十八段、第二十九段を取り上げ、その原文、解説、現代語訳/意訳について書いております。原文を辿って作成した”方丈庵”の見取り図も記載しております。)

(画像はイメージです/出典:photoAC)
はじめに
方丈記(古典日本三大随筆のひとつ/1212年記された)は、鴨長明が終の棲家とした「方丈庵」にて書かれました。
「方丈庵」の様子は、方丈記の「第二十八段」と「第二十九段」に書かれています。
その造りは、とても簡単質素で、家を造る材料は荷車たった二台分に収まり、解体と組み立てが容易だったようです。現代で云えばプレハブ工法によるプレハブ小屋に近いものですね。
その理由として、第二十八段には、
「もし、心にかなはぬことあらば、やすく他へ移さんがためなり」(もしも、気に入らないことがあったら、簡単に他の土地へ引っ越すためなのです)と書いています。先行き起こるかもしれない不安を、事前に少しでも減らしておこうという、鴨長明の深慮遠謀です。鴨長明の生き方の姿勢が伺える一文だと思います。
それでは、「方丈庵」は、いったいどのような造りだったのでしょうか。
ネットを探れば、すぐに多くの回答を得ることができます。
なので、この記事では、方丈記の本文からの読み取りにより、
つまり・・
第二十八段と第二十九段を、実際に読みながら「方丈庵」の様子を探っていきたいと思います。
第二十九段はとても詳しく書かれているので、そこから「方丈庵の見取り図」も再現していきます。
※ここで再現する「方丈庵の見取り図」は、あくまで「方丈記」に書かれている説明を頼りに再現したものです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)

※ 原文の表記について: 読みやすくするため、句点ごとに改行しました。
第二十八段(原文)
ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べることあり。
いわば、旅人の一夜の宿を造り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。
これを、中ごろの住処に並ぶれば、また百分が一に及ばず。
とかく言ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折々に狭し。
その家のありさま、世の常にも似ず。
広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。
所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて、造らず。
土居を組み、うちおほひを葺きて、継ぎ目ごとに、かけがねを掛けたり。
もし、心にかなわぬことあらば、やすく他へ移さんがためなり。
その、改め造ること、いきばくかの煩ひかある。
積むところ、わづかに二輌、車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず。
*
〔語句の意味〕
「露」:①草木の葉などについた水滴。 ②涙をたとえていう。 ③人の命などの、はかなく、もろいことのたとえ。 ④ほんのわすかなもののたとえ。
「消えがた」:「消え方(きえがた)」/今にもきえそうなさま。
「末葉の宿り」:すゑばのやどり/晩年の住居。
「土居」:つちゐ/土塀や築地(ついぢ)の類。
:築地(ついぢ)/柱を立て、板を芯として泥で塗り固め、屋根を瓦でふいた垣。
※語句の意味を古語辞典で調べると上記のような解説となりますが、「継ぎ目ごとに かけがね(掛け金)を掛けたり」とあるので、今でいうプレハブのような作りであったと思われます。
「うちおほひ」:打ち覆い/仮にこしらえた屋根。
広さは、わずかに方丈
方丈庵は、わずか約3m四方の狭い空間
※以下の現代語訳では、文節の直下に、語句の説明や解説などを挿入しました。
※ 語句の意味は「角川 必携古語辞典 全訳版/平成9年初版」を参照いたしました。
第二十八段(現代語訳)
(原文)ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べることあり。
訳:わたしは、60歳になり、はかない人生が終わりそうな頃に、残りの人生を過ごすための住処を構えました。
「(原文)六十の露 」
「露のように消えていく六十歳という晩年」という意味です。
※多くの資料を読むと、実際には五十四歳頃だったようです。
無常を説くことに、年齢表記の正確さは重要なことではなかったのかもしれません。
他に、年齢を絡めた年数の表記には、以下のようなものがあります。
・第二十六段には、
「三十余りにして、さらに我が心と、ひとつの庵を結ぶ」(訳:三十歳を過ぎた頃に、思うところがあって、ひとつの庵を構えた)
・第二十七段には、
「すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり」(訳:まったく住みにくいこの世の中を祈りながら過ごし、悩みながら三十年余りも生きてきた)
・同
「五十の春を迎へて、家を出で、世を背けり」(訳:五十歳の春に出家して俗世間との関係を絶った)」と書いています。
そして、この第二十八段では五十四歳なのに「六十の露」と書いているのです。
*
(原文)いわば、旅人の一夜の宿を造り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。
:その様子を例えていうのなら、旅人が旅の途中にたった一夜だけ宿を設けたり、老いた蚕が自分の死に場所を求めて繭を作り、そこへ身を隠すようなものです。
「(原文)老いたる蚕の繭」
蚕の一生は「幼虫⇒蛹(繭)⇒成虫」です。なので「老いたる蚕の繭」という表現はよくわかりません。多くの資料が「老いた蚕が繭を作って死に急ぐ」というような現代語訳をされています。
おそらく、成虫になると数日で死んでしまうからなのか、蛹(繭)から成虫になることは姿を変えることなので、一旦死んでしまうものだと解釈したのか、どちらかだと思われます。
〔※意訳してみました〕
〔旅人は直ぐに去り、空になった宿ははかないものだろうと思います。蚕は全く異なった姿に生まれ変わりますが、それは輪廻のようなもの。老いた蚕は死ぬのです。死んだ跡には主のいない空になった繭があるだけ、むなしい限りです。〕
*
(原文)これを、中ごろの住処に並ぶれば、また百分が一に及ばず。
訳:この住処を、中年の頃に住んだ住処と比べたら、その広さは100分の1にも及ばない、とても狭い住処です。
(原文)とかく言ふほどに、齢は歳々に高く、栖は折々に狭し。
訳:こうやって生きていると、年はだんだんと増えて大きくなっていくけれども、住処はだんだんと狭くなっています。
(原文)その家のありさま、世の常にも似ず。
訳:そして、この家の仕様は、世間一般の住居とは全く異なっているのです。
*
(原文)広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。
訳:広さは、おおよそ、たったの3メートル四方くらいしかありません。高さも低くて、2メートルくらいしかないのです。
「(原文)広さはわづかに方丈」
1丈は約3mです。「方丈」とは一丈四方の面積のことを指します。
つまり、床面積が3m×3m の小屋です。
「方丈記」という名称は、方丈の広さの住処で書かれので「方丈記」と名付けたようです。
*
(原文)所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて、造らず。
訳:建てる場所をあれこれ思案して決めたわけではなく、土地を買って建てたわけではありません。
(原文)土居を組み、うちおほひを葺きて、継ぎ目ごとに、かけがねを掛けたり。
訳:家の土台をこしらえたら、屋根をひとまず葺いて、板と板の継ぎ目には掛け金で固定しただけの、ごく簡単な造りなのです。
「(原文)継ぎ目ごとに、かけがねを掛けたり」
ここから、簡易な造りであったことが伺えます。木材に凹凸を作って組んだり、釘を使ったりはしていないことがわかります。使ったのは「かけがね」なのです。

この画像は、現代の「かけがね(掛け金)」なのですが、ようするに、ただ引っ掛けるだけの造りだったのだと思われます。
そもそも和釘については、調べてみると「和釘の歴史は古く、13世紀には部材の固定など実用的な目的で使用されていました」という一文を某設計事務所のHPに探すことができました。
鴨長明が方丈記を書き終えたのは1212年(最終の第三十七段にその記載があります)。13世紀の初めです。鴨長明の方丈庵が、どのような「かけがね」を使っていたのかは、定かではありません。
*
(原文)もし、心にかなわぬことあらば、やすく他へ移さんがためなり。
訳:なぜなら、もしもこの場所で何か意に沿わないことがあった時には、苦労しないで他の場所へ引っ越しができるからです。
(原文)その、改め造ること、いきばくかの煩ひかある。
訳:もしも、一旦解体して造り直すことになっても、どれくらいの手間がかかるでしょうか、いいやかかりはしないのです。
(原文)積むところ、わづかに二輌、車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず。
訳:解体した家の部材をを荷車に積んだとしても、荷車はわずかに二台で済む量です。荷車に払う費用の他には、何も要りません。このように、とても簡単な造りなのです。
「(原文)改め造ること、いくばくの煩ひかある 」
(訳:造り直すのに、どれだけの手間がかかるだろうか、かかりはしない)
「(原文)積むところ、わづかに二輌、車の力を~」
(家の部材を積んだとこで、荷車二台で足りる~)
これらの内容から、家の部材は解体できて、そしてまた組み立てられることがわかります。まるで現代のプレハブ小屋ですね。13世紀初め頃に、このような組み立て式の住処になる小屋があったことには驚きました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
仮の庵のありよう、かくのごとし
いったい、どのように「かくのごとし」なのでしょうか?
※ ここでも、読みやすくするために、句点ごとに改行しました。
第二十九段(原文)
いま、日野山の奥に、跡をかくしてのち、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。
南に竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を造り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法華経を置けり。
東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。
西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠三合置けり。
すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。
かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。
いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。
仮の庵のありよう、かくのごとし。
【部屋の見取り図を作成】
※ 見取り図作成のための情報を整理しながら、現代語に訳していきたいと思います。
※ わかりやすくするために、若干の意訳を含めて現代語に訳しました。
※ 語句の意味は「角川 必携古語辞典 全訳版/平成9年初版」を参照いたしました。
第二十九段(現代語訳)
(原文)いま、日野山の奥に、跡をかくしてのち、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。
訳:今は、日野山の奥に住み、俗世間を離れています。そして、
訳:① 東側には約1メートルの庇(ひさし)を差し出すようにして造りました。そして、その下で、折った枝を燃やせる”かまど”をこしらえました。ここで炊事をするのです。
「日野山」京都市伏見区日野にある標高373mの日野岳。現在はハイキングコース。
「柴」:山野の小さな雑木。また、その枝を折って薪や垣にするもの。
「くぶる」:「焼ぶ(くぶ)」火に入れて燃やす。くべる。
「よすが」:「縁・因・便」「寄(よ)す処(か)」/頼りとする方法。手段
「柴折りくぶるよすが」:この表現から、ここが”かまど”であると想定できます。
*
(原文)南に竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を造り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかけ、前に法華経を置けり。
訳:② 南側には竹で作った簀子を敷いて縁側としました。
訳:③ 縁側の西側には、閼伽棚を造り、仏具を配置してお参りできるようにしました。
訳:④ 部屋の中には、障子を北側に寄せて立てました。
訳:⑤ そして、阿弥陀如来様の絵像を掛け、その横には普賢菩薩様の絵像を掛けました。
訳:⑥ 絵像の前には経机(きょうづくえ)の上に法華経の書かれた経本を置きました。
〔閼伽棚〕:「あかだな」仏に供える水や花などを置き、また仏具などをのせる棚。
参考:閼伽 Wikipedia
*
(原文):東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。
訳:⑦ 東側には壁に付けて、蕨の穂を敷き詰めて、寝床としました。
「ほどろ」:(「穂おどろ」の変化した形)春の蕨の穂の伸びすぎたもの。
*
(原文):西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠三合置けり。
訳:⑧ 西南の壁側には竹で編んだ棚を吊り、そこへ黒い皮を貼った三つの箱を置きました。
「皮籠」:「かわご」:皮で表面を張った箱。のちには紙張りのもの、また竹で編んだものもいう。行李(こうり)・つづらの類。
「がふ」:「合(がふ)」/・面積、容積の十分の一 ・ふたのある容器を数える語
*
(原文)すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。
訳:⑨ つまり、その箱には、和歌に関する書物、音楽に関する書物、そして「往生要集」を入れたのです。
「すなはち」:〔名詞〕即時/そのころ、当時。〔接続詞〕言い換えれば、つまり/そこで、それで/そのような場合には/ ※この文章では接続詞「つまり」「要するに」
「抄物」:「せうもつ」/書物、特に古典や漢籍(=中国の書物)を抜き書きしたもの。抄。
「往生要集」:書名/仏教経論集。三巻。源信著。寛和元年(985年)成立。多くの経論から地獄・極楽を抜き出し、極楽往生には念仏すべきことを問答体で説く。浄土教思想の最高の書と言われる。
*
(原文)かたはらに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。
訳:➉ そして、そのそばには、琴と琵琶を、各々一張ずつ立てかけておきました。
「張」:弓、琵琶など、弦を張ったものを数える単位。/幕、蚊帳など、吊って張りまわすものを数える単位。
「をり琴」:「をり」は「折る」/現代語の「折れる」とほぼ同じ意味。ここでは「折り畳み式の琴」の意味。
「つぎ琵琶」:「つぎ」は「継ぐ」/・継承する。・維持する。・つなぐ。/ここでは「つなぐ」という意味。
※ 「をり琴」「つぎ琵琶」の具体的な姿形については、調べても探し出すことができませんでした。
*
(原文)いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。
訳:いわゆる、折り畳み式の琴、継いで使用する琵琶というものが、これらのことなのです。
*
(原文)仮の庵のありよう、かくのごとし。
訳: 私の仮住まいは、このような様子でした。
「仮の庵」:「仮」としているところに、鴨長明の無常観が表れています。
その無常観は、仏教思想によるものでもありますが(この世は無常で、いくら住処を定めてみたところで、この世の中も住処も、一時的なかりそめのものでしかない)、鴨長明自身が体験した、世の中の無常な出来事が、強くその考えの根拠になっているという考えが一般的な解釈です。
「世の中の無常な出来事」というのは、鴨長明の生い立ちであり、方丈記に記した天変地異などの出来事をさします。(ここでは、その辺りの詳細は割愛いたします。)
※「仮の(住むところ)」という言い方は、第三段でも使っています。以下、紹介いたします。
仮の宿
(原文)「知らず、生まれ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる」
訳:わからない…. この世に生まれ、そして死んでいく人は、いったい何処から来て、何処へ去っていくのだろう。さらに、わからないことがある。この世のかりそめの宿である家を、いったい誰のためにあれこれ悩んで建てて、いったい何のために人目が喜ぶようにしようとするのだろうか。
〔参照〕この部分を含めて、以下に方丈記の冒頭部分(第一段~第三段)を解説しました。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
わすか3m四方の小屋の中は・・
これが鴨長明が、無常を書き連ねた庵なのです。
※ 前ブロックに記した方丈記の記述を元に、「方丈庵」の見取り図を作成しました。
「方丈庵」の見取り図
※ベースとなる3m×3mの広さは、第二十八段の「広さは、わづかに方丈」によります。
※ 原文に「出入口」の記述はありません。想定です。前後の脈絡から東側の南寄りが妥当と思われます。
※原文に「経机」の記述はありません。「法華経を置けり」とあるので、経机は当然有るはずだという判断です。書き物も、経机の上に蝋燭を灯しておこなっていたのだと思われます。
※原文に「かまど」の文字はありません。「柴折りくぶるよすが」からの想定です。
※原文に窓のようなものの記述はありません。昼間の採光はどのようにしていたのかは、原文からは不明です。
※東側の庇の下には、おそらく水桶を置いて、定期的に水を溜めていたのだろうと思いたい。
※トイレにあたるものもありません。近くの雑木林の中に行き、用を足していたのでしょうか。
・普通私たちは日記を書く時など、当たり前に思われる事柄はあえて書かないことがほとんどだと思います。上記の事柄も、そのような理由から記述が無いのだと思われます。
記述を元に再現
これが、方丈庵の見取り図です
※ 方丈3m×3mの中に、前ブロックの①~⑩の記述内容を落とし込み、完成させました。

(この見取り図は筆者作成)
※ この度は、方丈記を実際に読み、その記述から再現してみました。
結果、既存の様々な資料に掲載されている見取り図と、ほぼ同じになりました。
さて、どこで方丈記を書いたのかというと・・
きっと、経机の上で、蝋燭を灯して、書いたのだと思われます。
既存のいろいろな資料をあたると、障子紙を貼った採光用の窓のようなものが見受けられます。それを是として、以下、推測でございます。
仮の庵にて
鴨長明の一日の始まり
南枕にして眠っている・・朝、目が覚める。
寝床から起き上がり寝床を背にすると、正面は西側の壁。
そこには、阿弥陀如来と普賢菩薩が、絵図の中にいる。そこへ一旦、目をやり、両手を合わせ、
東側の引き戸から表に出て、水桶から水を汲み、顔を洗う、口をゆすぐ。
それから、雑木林の中に入り用を足し、庵に戻る。
そして、経机の前に正座し、阿弥陀尿来と普賢菩薩に両手を合わせ、朝のお勤め(朝のお経)をよむ。
・・・というように、想像できます。
*

なぜ無常なのか、なにをもって無常と伝えたいのか、無常とは何なのか・・。
方丈記を少しずつ読みながら、その意味に触れていきたいと思います。
※参考(これまでの記事)
読んでくださり、ありがとうございます。