作戦とは何か?|アメリカ軍作戦名「真夜中の鉄槌」等から読み解く


プロローグ

ここで取り上げた作戦は、アメリカ軍の軍事作戦のごく一部です。(計画だけの未実施も含みます)

この記事では、これらの”作戦に”ではなく、”作戦名に”焦点を当てました。。

そして、”作戦名から想像できる意図”をその”言葉から考察”してみました。

目的は、個々の作戦名をから、帰納法的に「作戦とは何か?」について考えてみることです。

取り上げた作戦名は9件

内訳は、軍事作戦名が8件、他1件

内容は、2025年に実施された作戦名から、過去は太平洋戦争での作戦名です。

その内、ベトナム戦争での作戦名は4件を占めます。

ベトナム戦争での作戦名を探る際には、ベトナム戦争についても言及しました。

ベトナム戦争について言及した理由は、ベトナム戦争での作戦名の理解に必要であったこと、そしてウクライナや中東で戦争が起きている今、”戦争とは何か” を考えるいい勉強材料になると考えたからです。

また、過去の多くの作戦名の中からこれら9件を取り上げた理由は、これらの9件が”作戦とは何か?”を考察するために必要な「作戦名の特性が顕著で分かりやすかった」という私の判断によります。

史実の記述について用いた資料等は末尾に記載しました。

考察した内容等は、全て私のオリジナルです。

目 次

プロローグ

<”〇〇作戦”に宿る不思議な力>

イスラエル対イラン戦争

【真夜中の鉄槌作戦】

第二次世界大戦/太平洋戦争

【飢餓作戦】

第二次世界大戦/太平洋戦争

【ダウンフォール作戦】

<ベトナム戦争の頃>

歴史を振り返る:Ⅰ

ベトナム戦争の遠因。

歴史を振り返る:Ⅱ

ベトナム戦争の始まり。

歴史を振り返る:Ⅲ

ベトナム戦争は宣戦布告無しに始まりました。

ベトナム戦争

【ピース・アロー作戦】

ベトナム戦争

【フレーミング・ダート作戦】

ベトナム戦争

【ローリングサンダー作戦】

歴史を振り返る:Ⅳ

アメリカ軍の撤退から和平交渉へ

ベトナム戦争

【ラインバッカ―Ⅰ作戦】

【ラインバッカ―Ⅱ作戦】

対テロ軍事行動

【不朽の自由作戦】

<まとめ/〇〇作戦とは>

作戦名から得られる作戦名作成のヒント

<作戦とは何か?>

「作戦」という言葉を考察する

<検証>

トモダチ作戦

<“〇〇作戦”に宿る不思議な力>

組織で何か事を起こそうというとき、組織のリーダーが、

「よし!みんな!〇〇作戦決行だ!みんなで力を合わせて頑張っていこう!」

と声高らかに叫び、意思統一への方向性を「〇〇作戦」と銘打って示すことがあります。

また個人のおいても、何か目標に向かって突き進もうとするとき、例えば受験や就職とか、例えば恋人をつくろうとか、そのような時に、事が上手く運ぶように意気込んだりするだけでなく、計画を立てて「〇〇作戦だ」と実は秘かに自分の心に言い聞かせたりした経験を持っている方はいらしゃるのではないでしょうか。

さらに家族においても、例えば、家を建てることになったとか、家族の誰かが病に倒れたとか…という吉凶を含めた家族の一大事にあたって「家族一丸頑張ろう作戦」なんてすれば、家族がひとつになりやすくなります。

そのようなとき、皆の気持ちは昂ります。

どうやら「〇〇作戦」という表現には、士気高揚という効果があるようです。

つまり「〇〇作戦」という言葉には、前へ進んで行くんだぞ!頑張るんだぞ!という力強いエネルギーが湧き上がる不思議な力が宿っているのです。

それでは、

その中身を、アメリカ軍の軍事作戦名を例にして探ってみたいと思います。

そしてこの探求は、何をどのように表現したら、組織のメンバーの心をひとつにする”いい作戦名”になるのか?」という命題のヒントにもなります。

イスラエル対イラン戦争

真夜中の鉄槌作戦

2025年6月21日未明

作戦名

真夜中の鉄槌作戦

まよなかのてっつい

Operation Midnight Hammer

・今年6月21日未明(イラン現地時間)アメリカ軍は、イラン中部のウラン濃縮施設が設置されている三つの核施設に対してミサイル攻撃をおこないました。攻撃には、B2ステルス戦略爆撃機によって運ばれたバンカーバスターという特殊な地中貫通爆弾が使われました。

・この記事を公開する今日は2025年7月15日。「真夜中の鉄槌作戦」の実行は直近のことであり、記憶に新しいと思います。

それでは、作戦名に使われている”言葉”を読み解いていきましょう。

<言葉から作戦名の意図を探る>

・軍事作戦ですから、実行する時期についてはとても重要な情報です。なのに、実行は真夜中であると教えています。この作戦の性質と特徴を最も表している部分だと思います。

・作戦名が実行前に外部に漏れても影響は少ないと判断したのか、外部に漏れないという自信があったのか、それとも「真夜中」と謳うことによって「俺たちは、みんなが寝ている真夜中に攻撃するんだぜ。大変だけどみんな頑張ろうな」というような、自己陶酔による士気高揚を狙ったのでしょうか。ともかく、実行時期を作戦名に謳ったのは、軍事作戦名としては珍しいことです。

〔歴史の記憶〕

攻撃時期を秘匿することについては、旧日本軍にはこんなことがありました。

かつて、昭和16年12月8日に、旧日本軍はハワイの真珠湾を攻撃。太平洋戦争が始まりました。その時、攻撃に向かう兵隊達に、自分たちがいつ何処へ行って、いつ何をするのか、ハワイへの航路の途中まで知らされていなかったそうです。

というくらい、いつ?を秘匿することは軍事における常識なのです。

因みに、旧日本軍の作戦名は主に「ア号作戦」とか「イ号作戦」という付け方であり、それらの作戦名から読み取れる情報は知る人しか分からない…とう作戦名を使っていました。でも当時、作戦名に関わらず情報は敵国に筒抜けだったのですから(暗号は解読されていました)なんとも締まらない話です。

また、精神力に頼ることが多かった旧日本軍なのに、作戦名では心理的な画策をしなかったのは不合理な話ですね。せめて作戦名くらいはもっと工夫があってもよかったのに、と思います。

<考察>

・軍事作戦の場合、水面下では情報戦が先行しています。なので、たとえ情報が事前に漏れても作戦名にあえて実行時期を入れてあることで相手を迷わせたり、わざと情報を漏らして事前に分かるようにしておくことによって人道上の被害を少なくしたり、という判断はあったのかもしれません。

・Hammerは作戦手段の比喩表現だと解釈してみます。すると、ハンマーですから「ハンマーで叩く」という比喩表現を用いたと解釈できます。実際には、アメリカ軍はバンカーバスターという特殊な爆弾を使ったので、Hammerはバンカーバスターの比喩表現という解釈ができます。

ただ、バンカーバスターは地下61mまで達する特殊で強力な爆弾です。その破壊力は甚大です。さらに実践での使用は初めてだそうです。そのような理由から、「ハンマーで叩く」という表現はたとえ比喩だとしても弱くて控え目な表現です。Hammreという比喩は、バンカーバスターのイメージからは離れすぎているのではないのか?と、私は思いました。

だとすると、Hammreは比喩ではなく、 ”攻撃または一撃の単なる象徴” として意味づけしたかったのでしょうか。

<考察>

・おそらく、イランや世界に ”Hammre=バンカーバスター”という解釈をさせることで、イランが核開発を止めなかったら”バンカーバスター(Hammre)よりもっと凄い攻撃” が待っているんだぞ、とアメリカは言いたかったのかもしれません。なので、あえてHammreという比喩に留めたのかもしれません。

・もうひとつ想像できることは、実行する兵士の精神的負担の軽減です。

かつて太平洋戦争の末期、昭和20年8月。広島と長崎に原爆を落としたB29の搭乗員は空高く立ち昇るキノコ雲を目にして「俺たちはなんてことをしてしまったんだ!」というショックを受け、大きな精神的なダメージを被ったそうです。

・真夜中の鉄槌で使われたバンカーバスターは特殊な爆弾です。そして兵士は核施設を爆撃しに行くのです。放射能が漏れ出るかもしれません。危険度の高い重責な任務なのです。でも「ハンマーで叩く」という表現ならば、そこには強く叩くのか弱く叩くのかという曖昧さが存在します。

実行する兵士が「ハンマーでちょっと叩くだけさ」と思えば、任務の感覚的な重責度は軽減します。

◆作戦名には、実行する「時期」を入れる

◆作戦名には、成し遂げるための「手段」を入れる

◆その表現は、実行する行為行動の比喩でも象徴でもよい

➡ いつ?するのか、いつまでに?するのか。これらの情報を作戦名に含めると、実行の時期が周知徹底できます。指揮監督者は進捗を管理しやすく、皆の気持ちをひとつにしやすくなると思われます。

ex:「真昼の~」「真夏の~」「〇月の~」「〇年度上半期の~」

➡ 但し、軍事作戦においては、相手国や国際社会に与える印象も含めて検討する必要があります。

➡ 目的には、現場実行者の気が進まないものもあるかもしれません。でも、作戦名に比喩を使えば受け止めやすくなり、曖昧さはかえって気持ちを楽にして、任務遂行はしやすくなると思われます。

➡ 作戦名に比喩表現象徴する言葉を使う場合、

的を得ていればよいのですが、抽象的なただの印象にならない配慮は必要と思われます。なぜなら、抽象的な印象を与える言葉は、構成員の目的に対する意欲を不揃いにしてしまうリスクがあるからです。

次は時代を遡って1944年~45年、アメリカ軍が日本との戦争の終結に向けて、日本に対して計画した作戦名です。ひとつは実行されましたが、もうひとつは終戦により実行はされませんでした。いずれの作戦名にも、作戦の”目的”がそのまま表現されています。それは作戦名を組み立てる方法のひとつでもあります。

第二次世界大戦/太平洋戦争

【飢餓作戦】

1944年11月~1945年7月頃迄

作戦名

飢餓作戦

きがさくせん

Operation Starvation

・1944年11月開始。太平洋戦争の末期。アメリカ軍が日本を海上封鎖するために、日本の周辺に機雷を沢山沈めた作戦です。シーレーンを絶たれた日本は物理的にも完全に孤立して、日本は飢餓状態に追い込まれていきました。

〔歴史の記憶〕

戦後、機雷が直ぐに一掃されたわけではなく、海に残った機雷によって多くの事故が起き、多くの犠牲者が出ました。機雷の撤去作業は55年以上を経た21世紀になっても続けられたそうです。機雷は海の地雷です。戦争が終わっても地雷が残ったまま犠牲者が絶えない状態が、実は海でも続いていたのです。

※参考:飢餓作戦/Wikipedia

<言葉から作戦名の意図を探る>

作戦名=目的そのもの:比喩でも象徴でもなく、最も分かりやすい作戦名の付け方です。

第二次世界大戦/太平洋戦争

ダウンフォール作戦

オリンピック作戦+コロネット作戦

1945年11月/1946年春

作戦名

ダウンフォール作戦

だうんふぉーるさくせん

Operation Downfall

・1945年6月23日、太平洋戦争末期。沖縄では日本軍の組織的な戦闘が終わりました。その後も戦争は続くのですが、1945年7月26日にイギリス、アメリカ、中華民国は連名で、日本に対して無条件降伏要求の最終宣言をおこないました。ポツダム宣言です。(ソビエト連邦はその後追認)

日本はそれを8月14日に受託して、8月15日に終戦を迎えることができました。

<参考>日本の降伏:Wikipedia

・一方、アメリカは日本が無条件降伏しない場合も想定していました。そして、日本が無条件降伏をしない場合には日本本土へ上陸して攻撃するという作戦を計画していたのですそれが、ダウンフォール作戦です。

・この作戦は、二つの日本上陸作戦からなっていました。

ひとつは、オリンピック作戦

1945年11月に実行することが計画されていた九州南部への上陸作戦です。

もうひとつは、コロネット作戦

1946年春に実行することが計画されていた関東周辺への上陸作戦です。

<参考>ダウンフォール作戦:Wikipedia

<言葉から作戦の意図を探る>

Downfallには、破滅破綻滅亡などの意味があります。

つまり、この作戦名は「(日本を)破滅させよう」とか「(日本の)息の根を止めろ」という、それは恐ろしい作戦名だったのです。日本がポツダム宣言を受託して本当によかったと思います。

<考察>

・飢餓もダウンフォールも、その語感から事の重大さを感じさせ、その先に横たわっている死を想像しやすい言葉です。ボタンを押して爆弾を落として攻撃するという行為と比較して、求める結果は同じであっても与える印象はとても重いです。

・作戦実行を命令する側は、そのような重い任務(目的)を担っている兵士たちに対して、作戦の重大さをきちんと浸透させて、より強い責任感を自覚させなければなりません。発する言葉には、より強い印象を与える工夫は必要でしょう。なので、目的を表わしている言葉をそのまま作戦名に使用することによって、命令する側はその重責を兵士に伝えやすかったと思われます。

そして、その効果により、兵士たちの一致団結という気持ちは一層高まり、士気高揚に繋がっていったと考えられます。

オリンピック作戦

コロネット作戦

・この二つの作戦名の由来については資料を探し当てることができず、明確ではありません。

コロネット作戦については「コロネットには”馬蹄”の意味もあるので、関東(九十九里浜、相模湾)に上陸後、馬が歩く如く東京を目指す」という意味があるらしいのですが、定かではありません。当時のアメリカの主力戦車であるシャーマン戦車の速さは20㎞/h~30㎞/hを超えるのですから、”馬が歩く如く東京を目指す”という解釈は的を得ていないように思えます。(コロネット:coronet の意味 ①貴族がつける小さい冠 ②馬蹄)

<考察>

・”オリンピック作戦は「平和の使者」、コロネット作戦は「勝者に与えられる冠」を各々イメージした作戦名である”、という解釈はいかがでしょうか。この二つの作戦の求める成果が、敵国(日本)を二度と立ち上がれない状態に(ダウンフォール)することなのですから、納得しやすいかなと思います。

なぜなら、アメリカとその連合軍側には「平和を求める」ことが正義だという大義名分と、「平和を求める」という勝者の倫理が保たれます。さらに、作戦に褒美として与えられる「冠」が象徴的に表現されているからです。士気高揚を高める良い選択だと思います。

◆作戦名には、目的を意味する言葉をそのまま使ってよい。

◆作戦名に目的を意味する言葉を使うと、目的を周知させることが容易となり、組織の構成員は一致団結しやすくなると思われる。

◆どのようにして目的を達成するのか? その戦術の周知徹底に集中できる

◆作戦は、複数の作戦(子)でひとつの大きな作戦(親)を構成してよい。

◆その場合の作戦名は、親の作戦名には重大な言葉を選び、子の作戦名には夢のあるハッピーな言葉を選ぶ。

➡ ダウンフォール作戦という作戦名は、目的はダウンフォール(息の根を止める/破滅させる)という残酷さを表現していても、実際に実行する作戦名には「オリンピック(平和の象徴)」と「コロネット(冠/褒美)」という、目的達成後に得られるであろう”ハッピーな成果”を作戦名をつけました。

このことは、”戦いは平和のため”という正義を現場の兵士に感じさせ、兵士の精神衛生を保つという意味において、とても有効であったと思われます。

<ベトナム戦争の頃>

歴史を振り返る:Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ

時代は進み、次はベトナム戦争(1961年~1975年)における4つの作戦名を取り上げたいと思います。

これら4つの作戦名を追っていくと、

アメリカがベトナム戦争に、

最初は後方支援だったのに、徐々に主体になっていく様子

主体になりながら逆に、この戦争に翻弄され泥沼状態に陥っていく様子。

がよく分かります。

そして、これら4つの作戦に共通していることは、いずれも航空戦力を使っていることです。ジェット戦闘機による空中戦が初めておこなわれたのも此の頃でした。

また、ベトナム戦争の間にアメリカの大統領は四代に渡るのですが、これら4つの作戦実行の間では、ジョンソン→ニクソンというように二代に渡りました。大統領が交代しても戦争対応への苦慮は続いたのです。

※ここでは、作戦名について記述する前に、主題からは外れますが、ベトナム戦争の経緯について書き留めておきたいと思います。

なぜなら、ベトナム戦争の経緯を横に置いておいて、これらの作戦名は語れないからです。

ベトナム戦争は宣戦布告無しに始まりました。そして、西側東側の思惑が絡み、アメリカ軍が最新兵器と兵士52万人(1968年ピーク時)を動員しても勝つことができなかった、約14年という実に長きに渡った戦争なのです。

現在(2025年7月)、ウクライナに一方的に攻撃をしかけたロシアと、その攻撃に必死で反撃しているウクライナ。そして混迷し続けている中東情勢。それら戦争の不条理な現実の構造を知ろうとするとき、ベトナム戦争は貴重な勉強資料なのです。

過去の戦争の歴史を知ることは決して無駄ではありません。なぜなら、今は過去という歴史の上に成り立っているからです。

世界が情報・貿易・資源の活用・人の行き来等の意味において、どんどん狭くなっている今そして明日、世界がどうあるべきかを考えるとき、過去の出来事、特に歴史を動かし歴史の転換点となった戦争のことを知ることは、明日への知恵の一助になると思います。

歴史を振り返る:Ⅰ

ベトナム戦争の遠因

※理解の一助となるように、時代は19世紀まで遡りました。

※時系列にて箇条書きしました。

・ フランスは、現在のベトナム・ラオス・カンボジア辺りを植民地化してフランス領インドシナを形成していました。(1887年~1945年)↓

<参考>フランス領インドシナ:Wikipedia

・ 第二次世界大戦中は、旧日本軍も駐留していました。↓

・ 1945年8月、第二次世界大戦は終結。ベトナムは独立して”ベトナム民主共和国”を設立しました。首相はホー・チ・ミンです。↓

しかし、フランス軍はベトナムに居座ったまま、ベトナムに影響力を持ち続けようとしましたのです。

・ 完全に独立したいベトナムはフランス軍と軍事的に衝突しました。

:世界史では、この戦争を”第一次インドシナ戦争”と呼び、ベトナム戦争を”第二次インドシナ戦争”と呼ぶ場合があります。ベトナムの地がフランス領インドシナであったことによる名残りなのかもしれません。

・ その時、世界は・・ソ連はベトナム民主共和国を支援して、フランス本国とアメリカはフランス駐留軍を支援しました。↓

・この時のインドシナ休戦条約はスイスのジュネーブで開かれたので”ジュネーブ協定”とも呼ばれています。条約に関わった列強は、東側はソ連、中国。西側はアメリカ、イギリス、フランスでした。

<参考>ジュネーブ協定:Wikipedia

 ・北は「ベトナム民主共和国」/首都はハノイ。

 ・南は「ベトナム共和国」/首都はサイゴン。

ベトナムは、大国の思惑に翻弄されてしまいました。

〔歴史の記憶〕

・同じように、大国の思惑に翻弄されてしまった国があります。第二次世界大戦後の朝鮮半島で起こりました。北は朝鮮民主主義人民共和国、南は大韓民国と各々名乗り、北はソ連の、南はアメリカの影響下に統治が始まったのです。そして現在に至っています。

・朝鮮戦争は1950年6月25日、北朝鮮軍が宣戦布告をしないまま北緯38度線(両国の国境)を超えて突然南下、韓国への武力行使で始まります。そしてアメリカと韓国の連合軍が応戦。1953年7月27日の休戦条約にて終結しました。

<参考>朝鮮戦争:Wikipedia

アメリカの朝鮮戦争での苦い経験が、ベトナム戦争への対応にも影響していたと云われています。つまり、共産勢力による侵略から自由主義諸国の主権を守るという正義がアメリカを動かしていました。

なので、北ベトナムが南ベトナムに攻め込み、南北の統一を図ろうとした時、アメリカは南ベトナムを支援したのです。

歴史を振り返る:Ⅱ

ベトナム戦争の始まり

・南北に分割統治が始まった二つのベトナム。当然と言ってよいと思いますが、二つのベトナムと列強の思惑は異なりました。国民にはベトナムはひとつ…という気持ちが根強くあったのです。それは特に北のベトナム民主共和国で強かったようです。指導者(ホー・チ・ミン)の指導力によるものだと思われます。↓

・一方、南のベトナム共和国については、政府高官は私利私欲に走り、クーデーターの連続。その政治的基盤は軟弱でした。このことも、北ベトナムの侵入を用意にさせていたようです。

・1950年ころから行動し始めた地下組織の”ベトミン”は、ベトナムの二分割後、明確に南北ベトナムの統一を目指してゲリラ活動をするようになりました。

・南には1960年頃、秘密裡に反政府組織である”南ベトナム解放戦線(通称はベトコン)”が誕生しました。↓

・そして、それらの組織によるゲリラ活動が次第に活発になっていきました。南ベトナム政府転覆へのゲリラ活動、軍事顧問として支援駐留しているアメリカ人へのゲリラ活動による攻撃です。

・当初、アメリカの南ベトナムへの支援は、数百人規模の軍事顧問団でした。それが徐々に膨らみ、ピーク時の1968年にはアメリカ軍の規模は52万人まで膨れ上がっていったのです。アメリカ側には、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、韓国からも軍隊が派遣され、南ベトナム軍との連合国を形成していました。そして、日本の米軍基地は後方支援の重要な拠点となりました。一方アメリカ国内では、反戦活動が活発になっていったのです。

・そして戦争は、1975年4月30日のサイゴン陥落、北ベトナムの勝利まで続きました。

ベトナム戦争の始まりから終わりまでの約14年間に(1961年~1975年)、アメリカの大統領は四代に渡っています。新大統領が誕生すると、政策の変更などにより戦争への関与の仕方にも変化がありそうですが、なかなか思うようにはいかず対応に苦慮したようです。

第35代:ケネディ:民主党(暗殺)

第36代:ジョンソン:民主党

第37代:ニクソン:共和党(辞任)

第38代:フォード:共和党

歴史を振り返る:Ⅲ

ベトナム戦争は宣戦布告無しに始まりました。

・ベトナム戦争の終結は南ベトナムの首都サイゴンが陥落した1975年4月30日と明確なのですが、その始りは定かではありません。なぜなら宣戦布告が無かったからです。

・この記事では1961年としています。1961年、南ベトナム解放戦線の攻撃が本格化しました。それに対して南ベトナム軍が応戦し、それをアメリカ軍が支援するという形でベトナム戦争が始ったという認識です。/これは参考にした資料「わかりやすいベトナム戦争/光文社NF文庫/2008年9月初版」によります。

・諸説では、1964年8月の”トンキン湾事件”がベトナム戦争の始まりという意見もあります。公海上のトンキン湾でアメリカ駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたという事件です。

・この事件後、アメリカ議会は大統領に「戦争に関しての自由な権限」を与えます。議会のこの判断は凄いですね。今では考えられないことです。反対票はたったの二票だったそうです。

・心理的な背景として、朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)があったようです。朝鮮戦争は、北朝鮮が宣戦布告することなしに突然、北緯38度線を越えて韓国へ攻め込んで始まりました。そのときの苦い記憶と経験によって、”このままでは共産勢力にやられてしまう”という不安がアメリカに大きくあったのだという解釈があります。

・トンキン湾事件に対する報復攻撃として、アメリカ軍は空母から発進させた艦上爆撃機によって北ベトナムへの爆撃をおこないました。

・その攻撃作戦が、以下に記述する作戦、Operation Pierce Arrow/ピースアロー作戦です。 

それでは、作戦名の考察に戻りましょう。

ベトナム戦争

【ピース・アロー作戦】

1964年8月5日~

作戦名

ピース・アロー作戦

ぴあすあろーさくせん

Operation Pierce Arrow

・トンキン湾事件(1964年8月:トンキン湾の公海上で、北ベトナムの魚雷艇がアメリカ駆逐艦を攻撃した事件)における北ベトナムへの報復攻撃として、アメリカは航空戦力を使って北ベトナムの海軍基地をを爆撃しました。その後も1964年中、散発的に北ベトナムの軍事施設を爆撃しました。その一連の作戦がピース・アロー作戦です。/(トンキン湾事件は後にアメリカによるでっち上げと判明します)

<参考>ピアス・アロー作戦/Wikipedia

<参考>トンキン湾事件/Wikipedia

ここでの要点は、アメリカ軍が航空戦力を使ったことです。アメリカ軍は近海に配置させた航空母艦から発進した艦上爆撃機を使いました。この時、アメリカ軍はまだ陸上戦力を整えていなかったのです。その頃はまだ、南ベトナム軍が応戦していました。

・つまり、1964年の時点では、飛行機を飛ばして爆弾を落として少々破壊すれば、それで北ベトナムの南ベトナムへの侵略やゲリラ活動を落ち着かせることができるだろうと考えていた様子が伺えるのです。

・アメリカ軍が陸上戦闘部隊をベトナムに派遣するのは1965年3月のことです。3500名の海兵隊を派遣しました。これがアメリカ地上戦闘部隊の第一陣です。そしてピーク時の1968年には、アメリカ兵士の総数は約52万人まで膨れ上がりました。それに加えて南ベトナム軍も多数存在しており、またオーストラリア軍や韓国軍なども派遣されて、南側は大連合軍を組織していたのです。それでも、南側は勝利を収めることはできませんでした。

<言葉から作戦名の意図を探る>

ちなみに、耳飾りのピアスは日本語であり、Pierce から来ています。ピアスのことを英語では Pierce とは言わず earrings と言います。

※この軍事作戦、作戦を実行者する兵士は戦闘爆撃機の操縦士です。命令された作戦名は「突き刺す矢」・・矢を突き刺すつもりで爆弾を落とすスイッチをONにするとしたら、爆弾が弓矢の矢に置き換わるのですから、兵士は心理的に任務遂行しやすかっただろうと思われます。

※「突き刺す」とは言っていますが「弓矢の矢」です。必ずしも必殺ではありません。国際社会に与える印象に醜さは少なかったと思われます。

<考察>

・この作戦は、北ベトナムの魚雷艇がアメリカの駆逐艦を攻撃したこと(トンキン湾事件)に対する報復攻撃です。まだアメリカ軍が地上部隊を本格的には投入していなかった時期のことであり、国際社会的にはアメリカがどのような手段に出るのか、政治的な解決をするのか軍事攻撃に踏み切るのか・・おそらくは国際社会の目を気にする必要はあったと思われます。

・なので、弓矢で放つ矢のイメージ程度の報復に抑えたのだという意図があったのかもしれません。

軍事作戦の場合は、相手をむやみに刺激しないことも必要である。

軍事作戦の場合は、国際社会に与える印象にも考慮する。

作戦名を公にする場合には、周囲に与える印象にも配慮する。

 ⇒ これは意外と重要です。なぜなら、周囲から支持される作戦には協力を得られる場合があるからです。

ベトナム戦争

【フレーミング・ダート作戦】

1965年2月7日~同年2月24日

作戦名

フレーミング・ダート作戦

ふれーみんぐ・だーとさくせん

Operation Flaming Dart

※ピース・アロー作戦に対して、北ベトナムが屈することはありませんでした。南ベトナムでは、ベトコン(南ベトナム解放戦線)などのゲリラ活動による攻撃が活発化します。北ベトナムはベトコンに軍事物資を供給していたのです。

※アメリカ軍は、北ベトナムが使っている”ベトコンへの物資輸送路を破壊する作戦”を立てます。それが、フレーミング・ダート作戦です。この作戦にも航空戦力が使われました。

<参考>フレーミング・ダート作戦/Wikipedia

※フレーミング(Flaming )は「燃えるような」とか「相手を罵ったりする」という意味ですから、前述の Pierce Arrow よりは感情的であり、アメリカ軍が激高している様子が伺えます。

<言葉から作戦名の意図を探る>

※前年におこなわれたピース・アロー作戦よりもボルテージは上がっています。北ベトナムに向かって「おまえたち、容赦はしないぞ!」というような調子ですね。

※ ダーツの矢も弓矢の矢も的に突き刺すという意味では同じです。ただ、ダーツの矢の場合、的に点数表示があり、的自体を外すということは殆どありません。

ピース・アロー作戦では”突き刺す”ことを強調し、フレーミング・ダート作戦では”必ず的に当てる”ことを強調している、そのような違いがあるようです。

つまり、Dart という言葉を使った背景には、北ベトナムに対して「ベトコンへの物資輸送路を必ず破壊するからな!」というピンポイントの攻撃と、その強い意志を感じることができます。

※そのような意味のDartに、さらにFlaming という形容を加えているのですから、ピース・アロー作戦と比較して、アメリカ軍には北ベトナムに対してより一層強い攻撃遂行の意志があったと解釈できます。

※ただ、軍事作戦ということを考えれば、弓矢の矢とダーツの矢なのですから、強さという点では見劣りがします。だからだというわけではないのですが、北ベトナムが屈することはありませんでした。

なので、この作戦の直後に、アメリカ軍は地上部隊の第一陣(海兵隊3500名)を派遣しています。このようにして、アメリカはベトナム戦争への関わりを深めていったのです。

作戦名は、成果が伴わなければ単なる言葉遊びである。

※ピースアロー作戦でもフレーミングダート作戦でも、北ベトナムは屈しませんでした。なので、アメリカ軍は同年の3月から次の作戦を開始します。それが次に紹介する ”ローリングサンダー作戦” です。作戦名から受ける印象は、前の二つの作戦名より激しさを増しています。

その頃、北ベトナム軍はソ連の支援により対空ミサイルを整備しました。それに対して、アメリカ軍はレーダー網を一層強力に配置しました。そして、ローリングサンダー作戦では両軍初の空中戦が起こり、アメリカはさらにベトナム戦争へとのめり込んでいったのです。

ベトナム戦争

【ローリングサンダー作戦】

1965年3月~1968年9月

作戦名

ローリング・サンダー作戦

ろーりんぐ・さんだーさくせん

Operation Rolling Thunder

・この作戦は「北爆(ほくばく)」そのものと言ってもよいと思います。「北爆」とは、アメリカ軍の航空戦力による北ベトナムへの爆撃攻撃のことです。その爆撃をマスコミが「北爆」と表現したのを契機に、以降「北爆」という言葉が使われるようになりました。

<参考>ローリング・サンダー作戦:Wikipedia

1968年頃、私は小学生の高学年であり新聞を読むようになっていました。その頃、新聞の一面に「北爆」の大きな文字が、ジェット戦闘機や戦略爆撃機B52の写真と一緒に何度も載っていたのを覚えています。

・この作戦は3年を超えて続きました。ローリング・サンダーの名の通り、アメリカ軍は北ベトナムに雨あられのような大規模な爆撃攻撃を継続し、北ベトナムの空は一気に戦いの場となったのです。ジェット戦闘機による空中戦が行われたのもこの頃です。北ベトナム軍の戦闘機はソ連製のMiGでした。

・その間に、地上部隊も含めて戦闘は一気に激化します。1968年にはアメリカ軍の規模は最大まで膨らみました。(1968年 の在ベトナム/アメリカ兵士 52万人)

アメリカ国内では反戦運動が活発になり、徴兵忌避や厭戦気分も社会の大きな話題となった時期でもあります。

それでは、ローリング・サンダー作戦の中身を時系列で追ってみましょう

<ローリング・サンダー作戦の経緯>

・1965年 3月:アメリカ軍は艦上爆撃機による爆撃を本格化させた。

・同年 4月:両軍初の空中戦

・同年 7月:北ベトナム軍はソ連製の対空ミサイル配備

・同年12月:アメリカ軍はレーダー網を整備して、北ベトナムの北部を除く全域をレーダーで監視できるようにした。

・1966年 4月:アメリカ軍は戦略爆撃機B52を北爆に使用開始

・1966年 9月:アメリカ軍による北ベトナムへの最大規模の攻撃。参加機数は述べ12,673機、1日辺り400機が北ベトナム上空に出撃した。

・1967年 1月:最も激しい空中戦。アメリカ軍40機と北ベトナム軍20機が空中戦をおこなった。

・1967年:戦略爆撃機B52が恒常的かつ大量に、爆弾搭載量を増やして投入されるようになった。理由は、タイ、南ベトナムの航空基地が整備され、それまでのグアム基地発進より近距離で北ベトナム上空へ飛ぶことが可能になった為。

・1968年 1月:地上では北ベトナム軍による大規模な反撃が行われた(テト攻勢

毎日のように空から大規模な空爆攻撃(ローリング・サンダー)を行なっているにも関わらず、北ベトナムによる組織的かつ大規模な反撃があったことに西側は驚愕した。

➡ 北爆について、その効果が疑問視され始めたまた、アメリカ国内での反戦運動が高まり、北爆停止の声が高くなっていった。そして北爆は徐々に縮小されていく。

・1968年10月:フランスのパリで和平交渉の予備会談が始まる。北爆は全面的に停止された。ローリング・サンダー作戦は終了した。

<参考>ローリング・サンダー作戦/Wikipedia

・でも、ベトナム戦争はまだまだ終わりません。北爆が停止されても、ベトナム戦争は1975年4月30日まで、さらに6年半もの間続きました。

<言葉から作戦名の意図を探る>

※「回転する」のですから、何度も繰り返し攻撃する作戦であることが分かります。そして、その様子は雷のように攻撃するのだと言っています。

※そして雷ですから、いつ何処に落ちるのか…予想がつきません。よけいに怖いですね。つまり雷の不意な「ゴロゴロゴロ、ドーン!」「ゴロゴロゴロ、ドーン!」というように、爆弾を予想がつかないくらいに、何度も何度も繰り返し落とし続けるという作戦なのです。

※ 前出の Pierce Arrow、Flaming Dart より一段と激しくなっていることが分かります。

※それらの攻撃に対して、中国からは食料、軽火器(小銃等)、ソ連からは燃料、重火器が北ベトナムに送られ、またソ連はMig戦闘機や対空ミサイルの他に、それを操作する技術スタッフも派遣していました。

ローリング・サンダー作戦に参加したアメリカ軍機は、一ヵ月平均のべ5,000機に達しました。爆弾は雨あられのように、北ベトナムの地に降り注いでいたのです。そして、北ベトナム軍は地上からも空から応戦し続けました。1967年の損失したアメリカ軍機は333機にのぼったそうです。

※同時に多数の人命が失われたこと、命は助かったもののその後の人生を狂わしてしまった人が沢山いたこと、戦争とは不条理なものであること、私達は決して忘れてはいけません。

◆作戦名に使う形容詞は分かりやすい言葉を使う。

比喩に自然現象を使うと、分かりやすくて共有しやすすくなる。

次にご紹介する「ラインバッカ―作戦」は、この記事で取り上げたベトナム戦争における四つの作戦名の最後になります。

少しだけ歴史を振り返ってから、本題に入りましょう。

歴史を振り返る:Ⅳ

アメリカ軍の撤退から和平交渉へ

アメリカ軍がいくら攻撃しても北ベトナムは屈しません。双方ともに、戦死者も戦傷者も増え続けました。アメリカ議会では、増大していく戦費、そしてベトナムへの派兵がアメリカの国益に繋がっていないことなどが問題視されるようになりました。そして何よりも、人々がどんどん死んでいく戦争という悲惨な現実そのものに対して、アメリカ国内では反戦運動が高まっていきました。

ついにアメリカは、北ベトナムとの戦闘を南ベトナム軍に任せるという方針を立てて、1969年8月から段階的な撤退を始めます。これは、同年7月にニクソン大統領が発表したベトナム化政策(Vietnamization」に基づいたアメリカ軍の行動でした。

そして、1972年8月には地上部隊を完全に撤退させました。その後の地上部隊については、南ベトナム軍だけで北ベトナム軍に立ち向かうことになったのです。

そんな中、当事者たちによる和平交渉の動きが出始めます。でも、戦争は続きました。

1972年3月末、北ベトナム軍は大攻勢を開始しました。これに対して同年5月~アメリカ軍がおこなったのがラインバッカ―Ⅰ作戦でした。この頃、アメリカ軍の地上部隊は手薄ですから使うのは航空戦力です。北爆を再開したのです。

<参考>ラインバッカ―作戦:Wikipedia

そのような状況だからなのでしょう。「ラインバッカ―作戦」という作戦名には、積極的な攻撃をしかけて攻勢に出ようという意図は表現されていません。なにしろ、ラインバッカ―というのは、アメリカンフットボールの守備的なポジションの名称なのです。

但し、作戦名に過激さは無いのですが、作戦の中身は最大限の効果を求めた精力的なものでした。

ラインバッカ―Ⅰ作戦は10月に一旦終えますが、12月に入るとラインバッカ―Ⅱ作戦として再度大々的な北爆を実施したのです。

何故なら、アメリカには外交による政治的解決を図るべく、北ベトナムを和平交渉の場につかせたいという思惑があったからです。つまり、アメリカは戦局を有利にしておけば北ベトナムは和平交渉の場に出るだろう、そして和平交渉において交渉を有利に進められるだろうと考えていたのです。そして、その結果、北ベトナムは和平交渉に応じ、和平交渉は進展していきました。

※この和平交渉はフランスのパリで行われたので、交渉は「パリ和平交渉」、結ばれた協定は「パリ和平協定」と呼ばれました。

ベトナム戦争

【ラインバッカ―Ⅰ作戦】

1972年5月9日~同年10月23日

【ラインバッカ―Ⅱ作戦】

1972年12月18日~同年12月30日

作戦名

ラインバッカ―作戦

らいんばっかーさくせん

Operation Linebacker

・この作戦の要点はアメリカ軍の北爆再開です。何故なら、北爆は前出のローリング・サンダー作戦でその効果が疑問視されていたという評価があったからです。

・だからでしょうか、ラインバッカ―Ⅰ作戦では、北爆の他に戦局を左右するとても効果的な行動に出ています。北ベトナムの多くの港湾に5,000個に及ぶ機雷を投下し、港湾の機能を封鎖したのです。これはとても効果があり、ソ連と中国から北ベトナムへの物資海上輸送は使用不能になりました。

・そして、ラインバッカ―Ⅱ作戦では、短い期間に物量にものをいわせた過去最大規模の北爆をおこないました。さらに、それまでは北ベトナムの市街地への爆撃はおこなっていませんでしたが、この作戦では市街地へも爆弾を落としたのです。

・その結果、北ベトナムは和平交渉に応じることを発表。それによりアメリカ軍は北爆を停止し、ラインバッカー作戦は終了しました。

<参考>ラインバッカ―作戦:Wikipedia

<言葉から作戦名の意図を探る>

ラインバッカ―はアメリカンフットボールのポジションの名称です。通常は3人一組で行動します。守備的な役割を持ち、ディフェンスの司令塔です。試合全体の流れを把握し、ディフェンスに指示を出すリーダーシップ的な存在です。

<参考>ラインバッカ―:Wikipedia

※「戦闘をゲームにみたて、兵士たちの役割をスポーツ競技の役割にみたてた」という理解は戦争ですからしてはいけないと思います。ただ、意図は、「我々は冷静な作戦計画の元に行動している」ということを「きちんと世界に知らしめる」ところにあったのだという理解はできると思います。

<考察1>

この作戦の開始の頃は、アメリカ陸上部隊の撤退がどんどん進んでいる時期です。和平交渉もしなければいけません。なのに、こんなに爆弾を落としてよいのだろうか? なのに、こんなに機雷を落として海上封鎖してもよいのだろうか? なのに、こんなに空中戦をしてもよいのだろうか? そんな兵士たちの疑問に、この作戦名は冷静に働きかけています。

「この攻撃はラインバッカ―の役割なのだ。状況を冷静に判断すれば、この攻撃は正当であり、攻撃することが守ることになるのだ」と。

兵士たちは、爆弾を落としたり、空中戦をおこなったりする重責を、そのような思いで乗り越えていったのかもしれません。また、攻撃的な作戦名を避けることにより、国際社会の目を少しでも柔らかくする意図があったのかもしれません。

<考察2>

戦争という行為は不条理なものです。

なにしろ、人を殺しても、その人が敵であるのならば罪には問われません。むしろ褒められるのです。敵の飛行機や戦車を沢山破壊し、敵を沢山殺したら、勲章までもらえて誉められるのです。

そして戦争は、その不条理さの中にあって、殺し方には”人道的な殺し方など決して無い”はずなのに、”殺し方”によっては非人道的だと非難したりされたりする、さらなる不条理な側面も持っています。戦争は不条理と不幸の塊です。

ラインバッカ―というスポーツ団体競技のポジションを作戦名にすることで、ラインバッカ―が作戦内容の象徴にとって代わっています。

そして、このような作戦名の付け方により、兵士の心理的負担は軽減して任務遂行はしやすくなったと思われますが、一方で戦争の不条理さはうやむやにされていると感じます。

そういう意味で、ラインバッカ―作戦という作戦名は、とても欺瞞に満ちた作戦名だと思います。

「作戦名にスポーツ競技の役割を使うこと」の是非を考えさせてくれます。

平和時に使うことは、とても効果的だと思います。なぜなら、構成員の役割と使命が分かりやすいからです。

 ex:例えば会社で、営業などの直接部門を支援しながら事務などの間接部門も支援する役割のポジションやチームを作ったとしたら・・。

 そのポジションやチームが標榜する作戦名はサッカーからとって「ミッドフィルダー作戦」というのはいかがでしょうか。きっとメンバーの意識はまとまり、働きやすくなると思います。

・一方で、軍事作戦名に使うことは、国際的に事の重大さを曖昧にしてしまうという意味において、欺瞞でしかないと思います。批判の矛先を避ける効果はあるかもしれません。

「作戦名に”象徴”を使う場合の難しさ」を考えさせてくれます。

・象徴は象徴であるがゆえに、選択する言葉によっては、現実の多面的な厳しさが伝わらないからです。

◆作戦名は内部だけでなく、外部にも影響を与えるものであることを考えさせてくれます。

・次に紹介する作戦名は、外部の協力を得ることを念頭におき、それが実現できた事例です。

時代は今世紀に入ります。2001年9月11日、アメリカで衝撃的な事件が起こりました。

イスラム原理主義過激派であるアルカーイダのメンバーがアメリカの旅客機を乗っ取り、ニューヨークのワールドトレードセンターとバージニア州にあるペンタゴン(アメリカ国防総省庁舎)に乗っ取った旅客機を激突させたのです。

この衝撃的な事件は、“アメリカ同時多発テロ事件” 呼ばれています。

<参考>アメリカ同時多発テロ事件:Wikipedia

このテロに対する報復として行われた作戦が、アメリカとイギリスの両国により開始された「不朽の自由作戦です」

多数の国がこの作戦に協力しました。そして日本も、海上自衛隊の補給艦と護衛艦を派遣してこの作戦に参加、作戦の遂行に協力しました。

<参考>自衛隊インド洋派遣:Wikipedia

対テロ軍事行動

【不朽の自由作戦】

2001年10月7日~2014年12月28日

作戦名

不朽の自由作戦

ふきゅうのじゆうさくせん

Operation Enduring Freedom

アメリカ同時多発テロの首謀者は、国際テロ組織のアルカーイダであると断定されました。そして、アルカーイダを隠匿しているのはアフガンスタンのターリバーン政権であると疑いがもたれました。

アメリカとイギリスの両国は協力して、ターリバーン政権に対し軍事行動を起こします。その作戦名が「不朽の自由作戦」です。

この作戦の実行には、日本も含めて世界の多数の国が協力しました。

<参考>不朽の自由作戦/Wikipedia

<言葉から作戦の意図を探る>

※この軍事作戦の実行について、アメリカは国連へ報告しています。そこには集団的自衛権の行使が謳われていました。つまりこの作戦はアメリカの正義に基づく軍事行動なのです。そして、”正義も自由も誰もが望むものである” という誰もが疑わない事実に基づいた行動として、この作戦名が成り立っているところに目を向けることが、この作戦の意図を探るときに必要だと思います。

つまり、この作戦名は、アメリカが自国の利益だけを求めているものではないこと、そして永続する自由を求めていることから、国際的に他国は協力しやすい作戦名であったといえるでしょう。

2007年4月時点で、75カ国がなんらかの協力をおこなっていたそうです。

そして日本は「テロ対策特別措置法」(この作戦への参加協力の為に用意した時限立法)を適用して、自衛隊を派遣しました。

<参考>自衛隊インド洋派遣:Wikipedia

<考察>

この作戦名には次の二つの意図があったと推測できます。

他国の協力を得て、アフガニスタンへの包囲網を作ろうとした。

②なので、他国が協力しやすくなるように、作戦名には誰もが求める真理を標榜した。

◆作戦名には外部からの共感を得やすい作戦名がある。

◆共感を得やすい作戦名には、大きなメリットがある。

共感を得やすい作戦名にすれば、他者の協力を得やすくなり、目的を達成しやすくなります。

ex:会社で例えるのなら、他部署の賛同や協力を得やすい作戦名にすることが大事です。また、企業の役割と使命は社会貢献ですから、社会からも認められ応援される作戦名であることは、企業の存続と発展という意味においても、従業員の士気高揚にとっても、重要であると考えられます。

(イラストはイメージです/出典:photoAC)

<まとめ/〇〇作戦とは…>

作戦名から得られる作戦名作成のヒント

まとめ/〇〇作戦とは…

<作戦名から得られる作戦名作成のヒント

EX:【真夜中の鉄槌作戦】

 ⇒ 進捗を管理しやすい。

 ⇒ 皆の気持ちをひとつにしやすくなる。

 ➡ 士気高揚につながる。

 ⇒ 曖昧さが心に振幅を持たせ、緊張を和らげてくれる。

 ⇒ 取り組みしやすく、行動しやすくなる。

 ⇒ 皆の気持ちがひとつになりやすい。

 ➡ 士気高揚につながる。

EX:【飢餓作戦】

EX:【ダウンフォール作戦】

 ⇒ 目的を共有しやすくなる。

 ⇒ 皆の意識はひとつにまとまりやすくなる。

 ⇒ 戦術の周知徹底に集中でき、実行力は上がりやすくなる。

 ➡ 士気高揚につながる。

 ⇒ 戦術にも作戦名をつける。

 ⇒ その作戦名には、作戦達成後の明るい未来を想像させる言葉を選ぶ。

 ➡ 士気高揚につながる。

EX:【ピース・アロー作戦】

EX:【フレーミング・ダート作戦】

EX:【ローリングサンダー作戦】

 ⇒ 形容詞は分かりやすく共有しやすい言葉を選ぶ。

 ⇒ 自然現象は分かりやすので共有しやすい。

 ⇒ 成果が伴わなければ、ただの言葉遊びに終わる。

 ➡ 士気高揚のON/OFFを左右する要素を内包している。

EX:【ラインバッカ―作戦】

 ⇒ 厳しく重責な内容でも、心理的には立ち向かいやすくなる。

 ⇒ 事の重大さがあっても、対外的にはそれを隠すことができる。

 ⇒ 作戦内容への批判があっても、それを避けやすくしてくれる。

 ➡ 士気高揚のON/OFFを左右する要素を内包している。

EX:【不朽の自由作戦】

他者が賛同を示し協力してくれれば、士気高揚は益々向上する。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

<作戦とは何か?>

「作戦」という言葉を考察する

ここまでは、作戦名の作戦部分について考察してきました。

実は、作戦名にはもうひとつ、重要な言葉が含まれています。

それは「作戦」という言葉です。

「作戦」という言葉にはどのような意味があり、「〇〇作戦」としたときに「作戦」は「〇〇」にどのような意味を持たせているのでしょうか。

「作戦」という言葉を考察して、この記事の最終章としたいと思います。

私の手元にある国語辞典には以下の説明がされていました。引用いたします。

〔出典〕明鏡国語辞典 第二版/2010年12月/ 発行:大修館書店

”以下、引用開始”

①戦闘や試合をうまく運ぶための方法・策略。また、ある目的を達成するための方法・策略。「~を立てる」

②軍隊が計画に沿って一定期間行う一連の対戦闘行動。「陽動~」

*比喩的に戦闘以外にも使う「ゴミ減量~」

”以上、引用おわり”

「作戦」という言葉には、国語辞典の説明以外に、考察してきた8件の「〇〇作戦」から以下の意味を導くことができます。

1.「作戦」という言葉が「〇〇」と結びつくことによって「〇〇」が持っている意味や目的が強調されます。

➡ つまり、作戦を実行するメンバーに、ただ目的を伝えるだけよりも、「〇〇作戦」として伝えた方がより強く強調されて、皆の心に目的が浸透しやすくなります。

2.「作戦」という言葉が「〇〇」と結びつくことによって、「〇〇」という目的を共有する仲間の存在を明確に認識できます。

➡構成員は 同じ認識を持った仲間同士となり、お互いが心理的に近づきやすくなります。

➡ 戦術により個々の行動が異なっても、「〇〇作戦」が皆をひとつにしている安心安定があります。

➡ つまり「〇〇作戦」とした方がチームはひとつにまとまりやすくなります。

3.同じ目的を持った仲間がいるということは、社会的所属欲求を満たせることなので、心の安定につながります。(所属欲求:マズローの五段階欲求説の下から三つ目)

➡ つまり、「〇〇作戦」とすれば、人間としての基本的欲求は満たされやすくなるのです。

➡ なので、安心が増えて心理的な余裕が生まれます。そして、生まれた心の余裕が、「頑張ろう!」という士気高揚を生むエネルギーになると思われます。

4.組織の行動にも、個人の行動にも、必ず目的があります。上記三つの「作戦」という言葉の効能から、以下の事柄を導くことができます。

➡ 「作戦」という言葉は、目的に向かって心を奮い立たせるカンフル剤である。

➡ 「作戦」という言葉には、目的に向かっていく気持ちを持続させるエネルギー効果がある。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

「〇〇作戦」に宿る力

検 証 >

トモダチ作戦

・2011年3月、日本に東北地方を中心とした大地震が起きました。東日本大震災です。

・アメリカ政府は、その日のうちに日本政府へ災害援助や復興支援を申し出しました。

・その時のアメリカ軍が日本に対しておこなった災害援助・復興支援活動が「トモダチ作戦」です。

・「トモダチ」とは「友達」のことです。

<参照>トモダチ作戦 :Wikipedia

➡ 「トモダチ」に「作戦」を繋げて「トモダチ作戦」とすることにより、両国間の友好関係を象徴する「トモダチ」という言葉がキラキラと光り出し、強調されました。

Q:もしもこの作戦名が「災害援助作戦」とか「復興支援作戦」であったとしたら、わきあがるエネルギーは「トモダチ作戦」ほど多くあったでしょうか?

Q:災害援助も復興支援も目的なのですから、「目的語+作戦」に倣って「災害援助作戦」や「復興支援作戦」でもよさそうに思うのですが、「作戦名」としての力強さはありません。それは何故でしょうか?

➡ この問いは、作成する作戦名において”何を強調することが大事なのか?”を考えさせてくれます。

➡ また、”帰納法という論理的推論の方法には例外が付きものである”ということを教えてくれています。

〔記憶の窓〕

・「私達は友達なのだから援助や支援は当然なことです」と伝えてきたアメリカ軍。

・「トモダチ作戦」という作戦名に「私達は友達だ」という再発見が感動的に湧き上がってきました。

・そして「そうだ、私達は友達なのだ!」「友達というのはなんて素晴らしいものなんだろう!」という感動が日本人の心に湧き上がりました。

➡ 日本中の皆の心が「友達だという気持ち」で繋がり、災害援助と復興支援に前を向いて進む一助となったのです。

「トモダチ作戦」は、とても素晴らしい作戦名だったと思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

読んでくださり、どうもありがとうございました。

〔参考図書〕

・「ベトナム戦争」

 発行:2017年9月第8版/著者:松岡 完/発行処:中央公論新社

・「わかりやすいベトナム戦争」

 発行:2008年9月/著者:三野正洋/発行所:㈱光人社

・「ベトナム戦争に抗した人々」

 発行:2017年8月/著者:油井大三郎/発行所:㈱山川出版社

・「わかりやすい朝鮮戦争」

 発行:2020年9月/著者:三野正洋/発行所:㈱潮書房光人新社

※上記以外は、私が有している知識を元に記述し、他はネットのWikipedia を参照しました。