「レモン哀歌」高村光太郎を例に「詩の鑑賞方法」を探求する


詩を素直に味わう

ということ

1.「素直に読む」ことと、「解説」「解釈」「解読」を考察する。

レモン哀歌(高村光太郎作)をもう一度素直に読んでみようと思います。

ワケはふたつ。

ひとつは、

光太郎と智恵子の愛の形というものを味わい直したら、心が純になれるような気がするから。

そして、もうひとつは、

詩を味わう心を忘れないため・・・です。

どちらかというと、二つ目のワケの方が重要です。

詩を味わうその瞬間瞬間・・・そこには、日常の煩雑や、時には殺伐とした冷たさ、そういう負の状態から逃れることができる、「やさしい心と、やさしい言葉を操ることができる言葉のオアシス」があるからです。

「レモン哀歌」

・・・この詩は、多くの国語の教科書にも取り上げられているようなので、教科書で知ったという方が多いかと思います。私もそうでした。

ここで

「素直に読む」というのは

解説を聞いたり読んだりせずに読む

という意味です。

詩というのは、とかく分かり難い時があり、その理解を助けるために「解説」や「解釈」なるものが存在します。さらに国語の授業では、詩を「解読」したりします。そして「解読」は言葉になり文字になっていきます。それらは、作者以外の人によって書かれます。評論家であったり、国語の先生であったり、もちろん一般の読者であったり・・・。

それらに出会うと、それらによって作品への理解と愛着が益々深まることがあります。それは、とてもいいことだと思います。

ただ、実は、それだけではありません。実は、その逆もあります。

悲しいかな、解説や解読は「素直に読む」ということから遠ざかるのです。

・・・詩って、読んだまま、感じたままではいけないの?

・・・詩っていちいち解説を読まないと分からないものなの?

・・・へーそうだったんだ、分からなかったわ、私の感性は鈍いのかしら、私には詩の鑑賞は無理なのかしら・・・

などのように、マイナスのベクトルが働いてしまう場合があるからです。そして、詩という自分以外の人の魂の有り様を味わうことも、自分の魂を詩という言葉に表すことも、どちらからも遠ざかっていってしまいます。

例えば、何かの料理をいただく時に、

いちいちその料理の素材とか、調理の方法とか、料理人のこととかに解説を求めたりしますでしょうか?

「美味しい!」と感じたその瞬間は、しませんよね。料理研究家ではないんだから。

もし解説を加えるとしたら、誰かに教えようとか、ブログに書くネタにしようとか・・・私、こんなに美味しい料理をみつけちゃったの・・と自慢したいとか・・・、何かしらの打算が働くときです。

美味しいとか不味いとか、ちょっと塩味が効いているねとか、柔らかいとか硬いとか、食べやすいとか食べにくいとか・・・、

もしも言葉にするのであれば感じたままを、言葉にするのではないでしょうか。

詩を味わうことも

「感じたまま」で

いいのではないでしょうか?

解説っているのでしょうか?

私は思います。

詩を解説/解釈/解読して文字にする人達は、それらがマイナスベクトルになる場合もあるということを知らないというか、慎重に思っていないのではないかと・・・。

実は、私の高校時代の国語の先生がそうでした。そしてそれは、とても悲しいことでした。

このことについては、私の記事「詩/自分の感受性くらい/で自分を鼓舞し自分を見つめる私の方法」の中で書きました。(参考)

◆「解説」「解釈」「解読」という存在は二つあります。

これらの解釈、二つとも評論家であったり国語の先生であったり、もちろん一般の読者であったり・・・の方々が「解説」「解釈」「解読」をおこなっています。

ひとつは・・・、

作品の文字や言葉に表れていない事実関係を「解説」して、それらと作品との繋がりや作品への影響などを「解釈」したりして「解読」することです。

例えば、作者の作品を創った時期のプライベートの内容をあれこれ詮索して「***という表現(作品)は、作者〇▽◇がその頃背負っていた□□□という心理的圧迫が関係している」とか、例えば「三行目の***は、作者〇▽◇の恋心を表しています。〇▽◇は△□▽を心底愛していたんですね」とか、まるで作者本人に聞いてきたみたいに・・・作品の文字や言葉に表現されていない事実関係を「解説」して、それらと作品との繋がりを「解釈」したり「解読」してくれています。

もうひとつは・・・、

作品の文字や言葉に表れていない事実関係は横においておいて、文字や言葉を作品全体の中で解釈しようとすることです。作品そのものだけを対象にして「解釈」し「解読」します。私はこれが、詩の味わい方の筆頭にくるべきものだと思っています。

ただ、これらの行為によって、

詩を味わうことが感覚ではなく作業になってしまう場合があります。

私は、それを詩の「課題」だと思っています。

そしてそれは、私が高校の時に、詩が国語の授業で取り上げられた時に顕著でした。

◆ 詩を「解説」「解釈」「解読」するときのマイナスベクトル 

課題は特に、「解説」「解釈」「解読」が国語の試験問題へとつながる場合に生まれます。なぜなら、得てして、国語の授業では ”鑑賞” や ”味わい” が「作者は、その時、何を感じていましたか? 次の中から選びなさい」なんていう問い(試験問題)に変換されるからです。

これに、私は閉口します。

「そんなことに正解があるの? 感じたままでいいじゃない! 次の中から選びなさいだって! もしの、そこに無かったら、私の感性が否定されるっていうこと?」 

こんなことを思うのは、おかしいですか?

私は思います。

”作者が何を感じていたか” に正解を求めるのはナンセンスです。詩がそれを読んだ瞬間から読者の心に染みわたり、読者の心身を魅了するのであれば、その染みわたり方、その魅了の仕方は十人十色、千差万別であってしかるべきものだと、私は思っています。

なので、例えば国語の授業で「レモン哀歌を解読してみよう」、それはそれでいいのですが、もしもそこに「正解」を求めるのであれば、その授業は  ”詩を味わうということが人々の心の中により多く浸透していく” のを堰き止めてしまっているように思います。

・・・私は思います。

詩を読む

その時の感じ方に

その解釈に

 正解なんていう価値基準は

 関係ないんです

詩は、そこから感じられる思いが、読む人の心を最終的に勇気づけ、

読む人の人生に、生きる礎の欠片のひとつになっていく、

詩はそこに意味があるのだと思います。

・・・そう考えると、歌/音楽は、そこ(詩)に旋律を加えることによって、心の中に浸透しやすくした芸術のひとつであることが分かります。

 詩が

 それを読む人の

 人生の礎の欠片なっていく

 それがいいんです

それが

 詩を素直に読むということだと

 私は思います

「解説」や「解釈」や「解読」は、それはそれで理解を深めてはくれますが、それらはいったんは横に置いておいておいて、「素直に読む」ことが詩の味わいを”最も楽しく” ”最も豊かにする” 方法だと思います。

2.「レモン哀歌」を「素直に読む」読んでみました(事例)

レモン哀歌・・・

「高村光太郎/レモン哀歌」で検索すると、沢山の方がいろいろな「解説」「解釈」「解読」を書かれているのを読むことができます。どれも素晴らしい内容で「ウンウン、そうなのか」「なるほど」と、とても参考になります。

ただ、私の読んだその限りの中で、私の「素直に読む」という内容は見当たりませんでした。そして、私が「レモン哀歌」について、ずーっと抱いてきた「疑問」に応えてくれている「解説」も「解釈」も「解読」見当たりませんでした。

なので、ここに、高村光太郎「レモン哀歌」を素直に読んで、その「感想」を述べたいと思います。これは決して解説ではありません。一読者の私が、「レモン哀歌」を、”こんなふうに読んで”  ”こんなふうにわかったつもりでいる” という例です。

ただ、私も人の子。私の味わい方に共感していただける友を見つけたい、そう思うのです。なので、傲慢かもしれませんが、次のようなことも思います。

この素直な読み方で読んでいただけたら、今まで詩というものに縁遠かった方でも、詩を味わうということへの心理的な距離を短くしてくれるのではないかと思います。すると、詩を味わうことの楽しみが増えて、人生がより楽しく、人生がより豊かになっていくと思うのです。

そういうことを思いながら、以下に「レモン哀歌」を素直に読んでみたいと思います。

高村光太郎と智恵子に関する知識は、高校時代に戻します。

・・・高村光太郎は、あの「道程」で有名な詩人です。国語の教科書の年譜には彫刻家であることも書かれています。

・・・中学生の頃、国語の夏休みの宿題で好きな詩をひとつ探して暗唱できるようにしてきなさい、というのがありました。その時、私の選んだ詩が「道程」です。その後もずっと覚えていたので、「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」というフレーズは、大学受験の頃もよく諳んじていたものです。

・・・それから、光太郎と智恵子、二人はとても愛し合っていたけど、後に智恵子は心を患ってしまったらしい。その時、光太郎が作った詩に「智恵子は東京に空が無いという、本当の空が見たいという~」というのがある。でも私は、詩のその先の文言は覚えていなくて、本当の空はどうも智恵子の故郷にあるらしいけど・・・、それがどこだかは、僕は知らない。

その程度が私の知識です。あえて言いますが、私は詩の評論家でも、国語の先生でもありません。ただ、詩の心が好きな読者のひとりです。

※18行ある作品の掲出元は、㈱文藝春秋から発行されている「教科書でおぼえた名詩」からです。(2008年7月25日 第7刷)以下に写します。

レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待っていた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとった一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓でしたような深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなりに止まった

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

【わたしの感想】

1.何故「そんなにも」って書いたのだろう・・・?

私は、冒頭の「そんなにも」から、こう思いました。

光太郎は智恵子を、本当に愛していたのだろうか・・・?

光太郎は智恵子を愛していたらしいけど、本当? 愛しているのなら病床に毎日通っていて「そんなにも」なんていう言葉は出てこないのではないかしらん・・・。

「そんなにも欲しかったんだ。ごめんね、気が付かなくて」・・・、

そう、光太郎は、気が付かなかったのだ。

愛する人が欲しがっているものに、気が付かなかった。

・・・もしも毎日のように通っていたら、「レモンが欲しい」という智恵子の気持ちは、もうとっくの昔に汲み取ることはできたのではないだろうか・・・? だとしたら「そんなにも」という言葉は出てこない。

「そんなにも」という言葉を選んだということは、

光太郎は”気が付かなかった” = 頻繁に通っていなかったのかもしれない。

これは、私の仮説です。この仮説を思うと、

だとしたら、光太郎の智恵子への愛はどのような愛だったのだろうか・・・?

ということを考えたくなってしまいます。

「そんなにも」と書いたことは、光太郎は智恵子の元へ頻繁に通っていなかった”印”なのかもしれません。 愛する妻が病床にいる時、”病床に通う頻度=愛の深さ” だとするならば、光太郎は智恵子の病魔からの回復に”必死”ではなかった・・・半ば諦めがあったのかも・・・。

以上のことから、私の感想は、

◆〔私の素直に読んだ感想〕・・・光太郎は ”ひさしぶりに” 妻の病床へきたのだな・・・。

2.「~した」の連続で、その目線が冷静すぎるなあ・・・

この18行の中には頻繁に「智恵子は~した」という言い方が沢山書かれています。愛する妻が病床で、しかも死に際にいるのに、随分と冷静に見ていたんだなあ・・・。作者は彫刻家でもあったらしいから、美術家としての対象を見る目がそうさせたのかしらん・・・。

「・・・待っていた(主語:智恵子)

「・・・わたしの手からとった(主語:智恵子)

「・・・がりりと噛んだ(主語:智恵子)

「・・・正常にした」(ここだけは、主語は”レモン”ですが、「智恵子は正常になった」という理解ができます)

「・・・かすかに笑う」(主語:智恵子。「笑った」と理解できます)

「・・・手を握る」(主語:智恵子。「手を握った」と理解できます))

「・・・もとの智恵子となり」(主語:智恵子。「もとの智恵子になった」と理解できます)

「・・・一瞬にかたむけた(主語:智恵子)

「・・・それなりに止まった(主語:智恵子)

『智恵子抄』という詩集に載せてあって、智恵子のことを詩にしているのだから当然だよ、という思い方もあると思ったのですが、それにしても、「~した」智恵子に対する作者の気持ちは、最後の1行「すずしく光るレモンを今日も置かう」にしかありません。

もう少し、自分の気持ちを織り込んでもいいのになあ・・・、

智恵子をスケッチブックにスケッチしているようで、なんか冷静だなあ・・・、

光太郎は智恵子のことを本当に愛していたのかしらん・・・、

そんなことを思ってしまいました。

何度も読み返すと、この「~した」は、この詩の全体のリズムを作る力になっているように思います。詩は紙に書かれて、世に出る時は印刷されていますが、その詩を発する瞬間は心の中で”口語”です。口語なので、リズムは大切です。

・・・それにしても・・・

◆〔私の素直に読んだ感想〕・・・愛する妻が死に至る瞬間だというのに、冷静だなぁ・・・

3.何故、レモンは「すずしく」光っているのだろう?

最後の1行に「すずしく光るレモン」というレモンが出てきます。

智恵子の写真が(仏壇? アトリエの作業台かなんかの上?)、その前に桜の花が飾ってあって、その桜の花影にレモンをひとつ置く光太郎。桜の桃色とレモンの黄色が、2行目の「白い死の床」との対比によって、”今となってしまっては、智恵子は、もう光太郎の胸の中に生きている智恵子” であることを想像させてくれるのですが・・・。

何故レモンの光り方が「すずしい」のでしょうか?

これは、未だに、私の中でそのワケが思い当たりません。わからないままです。

「すずしい」=「涼しい」=「冷静」=「冷たい」感じ。

もう二度と生き返らない、そういう現実を分かっている冷静さ。

なんだか、寂しいなあ・・・

愛する妻が、その死に際にがりりと噛んで、愛する妻の目を見開かせたレモンなのだから、そして生涯の愛を一瞬にかたむける、その原動力となったレモンなのに、何故「すずしく光る」のか・・・?

◆〔私の素直に読んだ感想〕・・・愛する妻が、かじって、一瞬だけども正気を取り戻したレモンなのでから、ここは「せつなく光る」と書きたくなるのになあ・・・。何故レモンは「すずしいく光る」のだろうか? ・・・未だに分からないままです。

以上が私の感じたままです。世間一般の解説には無い感想です。

このように、

詩に解説は求めず、感じるままに読んでみる、詩の味わい方をご紹介させていただきました。

詩の鑑賞方法のひとつだと思います。

*

【教科書で学んだ懐かしい詩歌】の記事一覧(目次)は、以下にございます。

ご一読いただけましたら、幸いです。

「教科書で学んだ懐かしい詩歌」

読んでくださり、ありがとうございます。