黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る/李白/色彩を楽しめる漢詩の鑑賞方法


漢詩に詠み込まれている色

前頁に続いて、漢詩の中に詠み込まれている「色」について解釈をし、詩の味わい方を広げていきたいと思います。

今回も李白を題材にしました。よく教科書に載っている漢詩です。

【黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る】

(漢詩ですが横書きにしました。左から読んで下さいませ)

故人西辞黄鶴楼

煙花三月下揚州

孤帆遠影碧空尽

唯見長江天際流

故人西のかた 黄鶴楼を辞し

煙花三月揚州に下る

孤帆遠影 碧空に尽き

唯だ見る 長江の天際に流るるを

(タイトルに登場する孟浩然は、あの有名な「春眠暁を覚えず」で始まる〔春暁〕の作者のようです。孟浩然:盛唐の詩人/689~740年。李白が701~762年を生きているので、年齢を追うと、孟浩然は李白の先輩だったようですね。)

【解説:意訳】

旧知の友人である孟浩然先輩が、黄鶴楼を去って、揚州へと向かっていった。

今は三月。長江の対岸の山肌には、色とりどりの花が咲き始め、その花たちが、ぼやっとした綺麗な色の煙のように山肌を飾っている。

その綺麗な花の色と色の間に流れる、碧豊かな長江の流れに乗って、孟浩然先輩を乗せた一艘の帆かけ船は、揚州へと向かっていった。その周囲に、他の船はいない。広くて碧い長江の流れの中、孟浩然先輩を乗せた、たった一艘の船は、どんどんどんどん、小さくなっていった。

私は、黄鶴楼に登り、小さくなっていく孟浩然先輩の船を、ずーっと目で追っていった・・・、さようなら、お気をつけて、またお会いいたしましょう・・・。

心の中で語りかけているうちに、船はとうとう、碧い空と長江とがくっつく水平線の彼方まで行ってしまい、そして見えなくなってしまった。

さようなら、お元気で・・・、孟浩然先輩・・・。

今はただ、まるで天の彼方まで流れていっているかのような長江の流れを、静かに見入るだけだ。

※黄鶴楼がどこにあって、揚州とはどれくらい離れていて、長江はどんな河で、弧帆とはどれくらいの大きさの船で、そして、どうして孟浩然は広陵へ行くのか。広陵とは、揚州の先にあるのか・・・、色々疑問はあるかと思います。ただ、詩というのは、一読して感じるものだと私は思っています。なので、そのような解説はここでは除きます。

※よって、先に解説した孟浩然が「春暁」の作者である云々という情報も本来は必要ありません。この七言絶句から読み取れるのは、作者にとって孟浩然という人物が、いつもまでも見送っていたい、それくらいに大切な人であるということだと思います。

【解説:色】

「黄鶴楼」・・・黄色

パッと飛び込んでくる色は、黄鶴楼の「黄」だと思います。この黄鶴楼は文脈から建物の名前だと分かります。建物が黄色だったのか否かはわかりませんが、「黄」という文字が視覚に与える影響は少なからずあるように思えます。

試しに、「白鶴楼」とか、「緑鶴楼」とか、「赤鶴楼」とかに置き換えてみると、視覚が与える影響度の違いが分かります。

なぜなら、この後に続く「煙花」、「孤帆」、「碧空」、「長江」、「長江の天際」に各々の色が見え、これらの色との調和に関わることだからです。黄鶴楼と、それらの色との調和を考えると、「黄鶴楼」というのは、強く主張せず、例えば「白鶴楼」のように寒々しくなく、例えば「赤鶴楼」のように強い印象を与えることなく、この詩の中で調和していると思います。

実際の建物の名前が「黄鶴楼」だったら、そんなの関係ないと思われるかもしれません。だとしたら、李白は「黄」を意識していたと、私は思いたいです。詩全体の色調を考えた時に、ちょうど良かったと。

もしも、建物の名前が「白鶴楼」だったら、故人西辞□□□として、□□□にそこの地名を充てていたかもしれません。もしも地名が二文字だったなら、故人朝西辞□□として、例えば「朝」というように時刻を挿入していたかもしれません。

「煙花」・・・薄桃色

「煙花」この一語で、河の両側の山肌には一面に花が咲いていて、その花がかすんで見えて美しい景色であると、李白は書いています。花ですから、赤もあれば、黄色もある。白もあれば、紫もある・・・、読む人の想像によるわけですが、大河の両岸、大河の両側の山肌に見える花で、さらに三月という季節を考えると「早咲きの山桜の桃色がかすんで見える」というイメージはいかがでしょうか。

つまり、碧い長江の両側は、薄桃色の「煙花」で覆われている、という景色。その真ん中を、孟浩然先輩を乗せた、一艘の帆かけ船(帆ですから、色は無漂白の生成りだと思います)が、ゆっくりと進んで、黄鶴楼を離れていく・・・という情景です。

長江の碧、山桜の薄桃色、帆かけ船の生成り・・・、きれいですね。

「孤帆」・・・生成り

ここでは船の色は分かりませんが、孤帆という文字からは、小さめの帆かけ船のようです。白い帆を想像してもかまいません。白い方が、作者の思いはより純情に近づくような気がします。ただ、私はより自然に近い色としての「生成り」を想像してみました。

「碧空」・・・真っ青

ここが美しいですね。生成り色の帆を揚げた一艘の船は、遠くに去っていくに従ってだんだん見えなくなって、そして碧空に消えていくのです。

「長江」「長江の天際」・・・蒼色/青

船が通るのですから、大河です。青青とした大河がゆったりと流れていく・・・、そんなイメージですね。色は青緑に近い蒼色。そして、その蒼色が地平線で、真っ青な碧空とくっつくのです。大地と天とが一体になる悠然とした自然の情景が目に浮かびます。

このように、「色」を追っていくと、この詩がひとつの絵画に見えてきませんか?

言葉は絵の具。言葉という絵の具を使って、詩を書く、そういう感性を探ることもまた、詩の楽しみなのかもしれません。

【教科書で学んだ懐かしい詩歌】の総合目次は、以下にございます。

ご一読いただければ、幸いです。

「教科書で学んだ懐かしい詩歌」

読んでくださり、ありがとうございました。

明日もいい日でありますように。