ああ、無常・・
人は生きている間に何度となく、人生に無常を感じ、人生を無常観でとらえる瞬間があります。
そんなとき、私たちは何を考え、どのように考え、どのようにその無常を乗り越えていったらよいのでしょうか。
実は、そのような壁に当たった時、役に立つ「生きるヒント」が日本の古典の中にあります。
日本の古典三大随筆(※)のひとつである「方丈記」です。
「方丈記」のテーマは「無常」であり、「方丈記は」は「無常」とどのように向き合っていけばよいのかについて書かれているからです。
【※日本古典三大随筆:成立年代順(作者)/枕草子(清少納言)、方丈記(鴨長明)、徒然草(兼好法師)】
前回は、方丈記の第一段・第二段・第三段を取り上げて、そこから「生きるヒント」を頂戴しました。
〔参考:前回の記事〕方丈記/無常観と無常感/人生の無常をどのように生きたらよいのか
今回はその二回目です。
第四段、第二十四段、第二十五段、三つの段を取り上げて「生きるヒント」を頂戴したいと思います。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
目 次
※〔語句の意味〕「角川 必携古語辞典 全訳版(平成 9年11月初版)」より引用しました。
※ 現代語訳は、より分かりやすくするために意訳をおこない、言外に含まれているであろう作者の意図も言葉にしました。
第四段
予、ものの心を知れりしより、
第四段(原文)
予、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋おくれる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。
第四段(現代語訳)
〔※より分かりやすくするために、言外に含まれるであろう事柄も推測して「意訳」をしました〕
私は、物事の判断ができるようになった年頃から、四十年くらいの年月を生きてきました。その間に、世の中の有りえないような出来事を目のあたりにしてきたことは、一回や二回ではありません。かなりの回数をこの目で見て体験してきたのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔解説〕
「世の不思議」とは
これは第四段ですが、方丈記はこの後の第五段から第二十三段に至るまで、鴨長明が体験した世の中の大事件(人災や天災の数々)の記述が続きます。
それらが全て、鴨長明が表記している「世の不思議」にあたります。
その前触れとして、この第四段が書かれています。
鴨長明としては、「無常」を単なる観念ではなく実際の体験の中から導くことで、その真贋や本気度を証明したかったのではないかと、私は思っています。
第五段以降に書かれている「世の不思議」の具体的な出来事は以下のとおりです。
(鴨長明の当時の年齢/出来事名/発生年)
・23歳/安元の大火/1177年
・26歳/治承の竜巻/1180年
・26歳/福原遷都/1180年
・27歳/養和の飢饉/1181~82年
・31歳/元暦の大地震/1185年
これらの出来事に共通しているのは「人の死」と「住居環境の消滅と変化」です。
鴨長明は、第一段の末尾に「世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」と書いていますが、この短い期間にこれだけの人災・天災による無常を経験していることを考えると、何故「人と住処ははかないもの」と書いたのか納得できます。
そしてさらに言えることは、これらの出来事を「世の不思議」と例えている鴨長明の認識の中には、「無常」もまた「世の不思議」だという思いがあったのかもしれないということです。
第二十四段
すべて、世の中のありにくく、
第二十四段(原文)
すべて、世の中はありにくく、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。
いはんや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ますことは、あげてかぞふべからず。
*
〔語句の意味〕
「すべて」:古語では、現代語の「全部」という意味の他に、下に打ち消しの表現を伴って「全然」とか「まったく」という意味があります。/ここでは「ありにくく」と否定語につながっているので、「まったく」と訳すのが妥当だと思います。
「ありにくし」:(私が参照している古語辞典には、方丈記の該当の文章が例として記載されていました。漢字では「在り悪し」と書くそうです):生きていくのがむずかしい。住みにくい。
「あだ」:①一時的で、はかない。もろい。②いいかげんだ。おろそかだ。③誠実でない。気が移りやすい。浮気だ。気まぐれだ。④むだだ。無用だ。
(筆者:ここでは①の意味です。「はななく」「あだなるさま」と続けて類義語を繰り返しているところから、鴨長明は「はかなさ」をよほど強調したかったのだと思われます。)
*
「かくのごとし」:この「かく」が指しているのは、第四段で記した「世の不思議」のことで、第五段~第二十三段までを使って、その詳細を記述しています。
前段落でも書きましたが、それらの事象は以下のとおりです。
:安元の大火/ 1177年/第五段~に記述
:治承の竜巻/1180年4月/第八段~に記述。
:福原遷都/1180年6月/第十一段~に記述。
:養和の飢饉/1181~82年/第十五段~に記述。
:元暦の大地震/1185年/第二十一段~に記述。
・鴨長明が抱く無常観は、これらの人災や天災を体験したことによって形成されたのであろう….という推察が一般的な理解としてあります。
・各々の出来事の内容は「方丈記Wikipedia」に解説がありますので参考にして下さいませ。
*
「いはんや」:まして、そのうえに。
「べからず」:~ことができない。~てはならない。~ないに違いない。~はずがない。
「所」:(ところ)「場所」の他に、住んでいる場所、居所という意味があります。
第二十四段(現代語訳)
〔※より分かりやすくするために、言外に含まれるであろう事柄も推測して「意訳」をしました〕
まったく、この世の中というものは、生きていくのが難しく、住むことだってなかなか大変な苦労があるものです。私の人生とこの住処がはかなくて一時的なものであることは、これまで述べてきた天災や人災の事例からも、わかるというものです。
まして、そのうえに、住んでいる場所に応じて、身分や立場に則って生きていながらも、心を悩ます出来事は数限りなくあって、その数はとても数え上げることはできないほど多いのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔解説〕
心を悩ますことは、
あげてかぞふべからず。
「はかなく、あだなるさま、かくのごとし」は、第五段~第二十三段までに記述した「世の不思議」を一言で述べたものであります。
そして「心を悩ますことは、あげてかぞふべからず」(心を悩ますことは多すぎて数えられない)と述べているのですが、数えられないと言っても具体的な事例は必要だという判断があったのでしょう。次の第二十五段では、「心を悩ますこと」の具体例な記述に入ります。
※世の中の大きな出来事から、人間ひとり一人の個の出来事へと、視点を変えていくわけです。
つまり、世の中の大きな「無常」から、人間ひとり一人の個の「無常」へと、視点を変えていくのです。
そういう流れを考えると、
この第二十四段は、全三十七段の真ん中を過ぎた辺りにあって、世の中全体の「無常」から、人間ひとり一人の個の「無常」も記述することで、「無常」の普遍性を見出そうとしている、その「つなぎ」の役割を果たしていると思います。
それでは、次の第二十五段にはいりましょう。
第二十五段は長文です。
第二十五段
もし、おのれが身、数ならずして
※長文であること、また読みやすさを優先するため、以下の工夫をしたこと、ご了承下さいませ。
・三つのブロックに分けて記載しました。
・適時、原文には無い ”改行” をおこないました。
第二十五段-1(原文)
もし、おのれが身、数ならずして、権門のかたはらに居るものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。
嘆き切なる時も、声をあげて泣くことなし。
進退安からず、立ち居につけて、恐れをののくさま、たとえば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。
*
〔語句の意味〕
「数ならずして」:「数」は「数」の他に「数えるだけの価値かあるもの」の意味があります。「数ならず」は「数える価値が無い」⇒ 「(身分が)低い」という意味。
「権門」:位の高い、権力のある家柄。
「進退」:「しんだい」①現代語の進退の意味以外に ②「立ち振る舞い。動作」の意味があります。
第二十五段-1(現代語訳)
〔※より分かりやすくするために、言外に含まれるであろう事柄も推測して「意訳」をしました〕
もしも、こういう場合があったときの話です。
身分が低くて取るに足らない者が居て、権力者のお屋敷のそばに住んでいるとしましょう。
その者は、たとえとても嬉しいことがあった時でも、権力者に遠慮して、素直に喜び楽しむことができません。
また、嘆き悲しむような辛いことがあった時でも、権力者に遠慮して、声をあげて泣くことができません。
その者の日々の生活、その立ち振る舞いは、権力者に遠慮するあまり、たとえば、か弱い雀が力強い鷹の巣に恐る恐る近づくかのようです。
なんと生きにくいことでしょうか。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
第二十五段-2(原文)
もし、貧しくて、富める家の隣に居るものは、朝夕、すぼき姿を恥じて、へつらひつつ出で居る。妻子・とう僕の羨めるさまを見るにも、福家の人のないがしろなる気色を聞くにも、心念々に動きて、時としてやすからず。
もし、狭き地に居れば、近く炎上ある時、その災を逃るることなし。
もし、辺地にあれば、住反わづらい多く、盗賊の難はなはだし。
*
〔語句の意味〕
「すぼき姿」:「すぼし」①すぼんで狭い、細い ②肩身が狭い。みすぼらしい。
「とう僕」:使用人。
「気色」:様々な意味があります。ここでは「人の様子」「ありさま」の意味です。
「心念々に動きて」:「念々」は「一瞬一瞬」「その時その時」。「心が念々に動く」とは、心が一瞬一瞬動いて落ち着かない ⇒ 「いらいらしている」という意味に通じます。
「時として」:後に打ち消しの表現を伴って「ちょっとの間も」「常に」という意味です。
第二十五段-2(現代語訳)
〔※より分かりやすくするために、言外に含まれるであろう事柄も推測して「意訳」をしました〕
もしも、こういう場合があったときの話です。
裕福ではない生活を送っている者が、裕福な大屋敷の隣に住んでいたとしましょう。
その者は、毎日毎日、朝に晩に、自分のみすぼらしい姿を見られるのが恥ずかしくて、隣の家の人に気に入られるように振る舞いながら、自分の家を出入りするようになります。
自分の妻や子供、そして使用人が、隣の家の様子を羨ましく見ている様子を目にしたり、裕福な彼らが自分たちのことをないがしろにしている様子を耳にしたりするにつけて、心はワナワナと動きイライラして、いつも心は休まりません。
もしも、家々が所狭しと並んでいる所に住んでいたならば、近所に火事が遭った時には、延焼を免れることはできずに、家は焼失してしまうでしょう。
もしも、田舎に住んでいたとしたら、行き来することだけでも大変な苦労です。それに、盗賊に狙われ災難に遭う危険は増えるでしょう。
なんと生きにくいことでしょうか。
人は住む環境によって、その人生の良し悪しが大きく左右されるものなのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
第二十五段-3(原文)
※〔表記の変更〕この部分、原文は書き連ねていますが、その内容は対句になっています。
なので、以下のように改行してわかりやすく表記しました。
*
また、いきほひあるものは、貪欲深く、
独身なるものは、人に軽めらる。
財あれば、恐れ多く、
貧しければ、恨み切なり。
人を頼めば、身、他の有なり。
人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。
世にしたがえば、身苦し。
したがはねば、狂せるに似たり。
いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心休むべき。
*
〔語句の意味〕
「はぐくむ」:①「育てる、いつくしみ育てる」の他に、②「大切に世話をする、面倒を見る」の意味があります。
「恩愛」:(おんあい)親子、夫婦などの間に恩を感じ、愛におぼれる感情。
「たまゆら」:しばらく。わずかの間。
「心休むべき」:この「べき」は「べし(推量の助動詞)」の連体形です。
現代語では「当然・義務」の意味ですがが、古語には多くの意味があります。①推量 ②予定 ③当然・義務 ④適当 ⑤勧誘・命令 ⑥意志・決定 ⑦可能
ここでは「心を休めることができるでしょうか?(いいえ、できそうにありませんよね)」という意味に解釈するのが妥当だと思われます。
第二十五段-3(現代語訳)
※ 〔重ねてお断り〕
各々の現代語訳では、より分かりやすくするために、作者の言外に含まれているであろう意図も、前後の文脈から想像して言葉にしております。
※このように訳する方法を「意訳 free translation」といい、直訳よりも味わい深く鑑賞できます。基本は辞書を引きながらの直訳ですが、意訳はそこに肉付けをしていく楽しみがあります。意訳すると作者の心に近づけるような気がします。私のお薦めです。
*
〔※より分かりやすくするために、言外に含まれるであろう事柄も推測して「意訳」をしました〕
権力を持ち勢力を誇っている者は、欲が深くさらに欲を満たそうとするから、それを妨げようとする敵が現れたりして苦労を強いられます。
逆に、独り身で孤独な身よりのない者は、財産も地位もなく住処も貧弱な場合が多いので、周りから軽く見られてしまいます。
財産が有る者は、財産があって良さそうなものですが、散財してしまう場合もあれば、泥棒に遭うリスクも多く、心配事は多いようです。
一方で、貧しければ、食べたいものは食べれず、住みたい家には住めず、悲しんだり嘆いたりするばかりです。
そして、人様に頼ってばかりいると、終にはその相手の言いなりになってしまう場合もあるるので注意が必要です。
逆に、人様を世話して面倒をみるのが甚だしくなると、愛情におぼれてしまい、かえって自分自身の自由な心を失ってしまがちです。
さらに、世間の決まり事や慣習をきちんと守り、生真面目に自分を合わしていこうとすると、心は圧迫されて生きづらくなってしまいます。
でも、まったく合わせないで生きていこうとすると、「あいつは頭がおかしい」と変人扱いされてしまいます。
一体全体、人は、どのような場所を住処にして、どのような仕事に就いて暮らしたら、ほんのわすかな間だけでも、心静かに安らいで生活していくことができるのでしょうか。
この無常な世の中で、それはとても難しいことのように思えます。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔解説〕
たまゆらも心休むべき
最後の一行「いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心休むべき」に、鴨長明の思いは凝縮されているように思います。
この結論へ導くために、鴨長明は人の日常生活に視点を持っていき、生活のいろいろな場面におけるストレス要因を書き並べていきます。
冒頭から途中まででは「人間関係」「住む環境」を問題にしました。(冒頭より「もし、辺地にあれば~盗賊の難はなはだし」まで)
そして、”人は、いかなる環境に住んでも置かれた環境に左右されて、生きづらい思いをするものだ” と言い切りました。
そしてさらに、後半の三分の一辺りからは(「また、いきほひあるものは~」から)、人が置かれた「境遇」、そして「生活の姿勢」を視点にして、各々のいずれの条件においても上手くいかない事例を列挙しました。
そして最後の一行で「たまゆらも心休むべき」(わすかな間だけでも、心静かに安らいで生活していくことができるのでしょうか)と締めくくりました。
この後には、言外に「この無常な世の中で、それはとても難しいことのように思えます。」という鴨長明の思いが見えています。
まとめると、
第二十四段では、人災と天災によって人も住処もあっけなく消えていくから、世の中も人生も「はかない」「無常だ」~「心を悩ますことばかり」つまり「心はやすまらない」…と述べて、
この二十五段では、だったら、どんな所に住んで、どんな仕事に就いて、どんな生活態度をとれば「心休まるのだろうか」~「無常の世の中に、そんな安住を見つけることはできそうもない」と、云っているのです。
*
ならば、いったいどうしたらいいのでしょうか?
その答えを求めて、方丈記は第二十六段へと進みます。
第二十六段からは、鴨長明個人の「無常」に言及していきます。
方丈記全体の流れを見れば、
◆人災や天災の中に「無常」を感じ、
↓
◆人々の生活の難しさへ目線を向けて、
↓
◆鴨長明自身の「無常」を語る。
視点を、全体から個へ移していくことによって「無常」の普遍性を説いていきます。
*
以下は、今までに書き連ねた、他の記事の一覧です。