※この頁では老人ホームでの出来事を、そこで働いている介護士が口語自由詩にてお伝えしています。
【車止めで一息 100】
愛しのクレメンタイン

(画像はイメージです/出典:photoAC)

老人ホームで暮らす、お婆ちゃんお爺ちゃんのこと、
気になりませんか?
少しだけでも気にしてみて下さい。
そこには、人生最期の自分の姿があるかもしれません。

モーニングケアのとき。
排泄、更衣、洗面、整容を終え、身支度を整えて、さあダイニングへ朝ご飯を召しあがりに行きましょう・・というその時、車椅子のあなた様は突然、歌い出しました。心ここに有らずといった様子で、ぼんやりとした目線を床の少し先に落としながら。
私には、あなた様が歌ったその歌が、この世との”お別れ宣言”のように聞こえました。何故なら、そこには「街には住めないからに」という歌詞があったからです。
・・ああ、〇〇様、覚悟されたのですね。
【 愛しのクレメンタイン 】
車止めで一息 100
愛しのクレメンタイン
あなた様はきっと気づいていたのでしょう。
この世にいられるのはあとわずかだと。
あなた様はきっと伝えたかったのでしょう。
自分がこの世からいなくなることを。
十二月某日、朝のケア。
身支度を整えた車椅子のあなた様は突然歌い出しました。
ぼんやりとした目線を床の少し先に落としながら、
静かに歌い出しました。
♪オーマイダーリン
♪オーマイダーリン
♪オーマイダーリン クレメンタイン
♪俺たちゃ 街には 住めないからに・・
♪俺たちゃ 街には 住めないからに・・
それは、
自分はもうこの世には住むことができないという、
あなた様のメッセージだったのかもしれません。
歌い終わると、
安堵するように穏やかにゆっくりと、
あなた様は息を吐かれました。
あなた様の身体機能は駆け足で落ちていき、
春三月、
あなた様は逝ってしまいました。
あなた様はもう・・
ここには住んでいないのです。
*
<言葉>
「愛しのクレメンタイン」
・原曲は、19世紀のアメリカ、西部開拓時代に生まれたアメリカ民謡です。
・ネットで調べると「いとしのクレメンタイン」と、多くは平仮名で表現されていました。
・1946年のアメリカ映画「荒野の決闘」〔原題:My Darling Clementaine〕の主題歌として使われて世界的に広まりました。
〔参考〕いとしのクレメンタイン/youtubeより
➡ oh my darlig, oh my darlig, と繰り返す部分を耳にすれば、”ああ..この曲ね、聞いたことがある”と、思い出される方はいらっしゃると思います。
➡ 「oh my darlig, oh my darlig, oh my darlig Clementine」と、最初の方に歌われています。
➡ 日本では、そのメロディーに登山家たちの様子を替え歌にして歌った「雪山賛歌」として世間に広まりました。
➡ その一番で「俺たちゃ 街には住めないからに」と、歌われています。
〔参考〕雪山賛歌/歌/youtubeより
〔参考〕雪山賛歌/歌詞六番まで全部
*
「♪オーマイダーリン、オーマイダーリン、オーマイダーリン クレメンタイン♪ 俺たちゃ街には住めないからに♪」と歌ったこの詩の主人様は、西部劇の「荒野の決闘」も「雪山賛歌」も両方ともに知っているであろう世代です。おそらく、二つの歌詞の記憶が混じってしまっていたのだと思われます。

(画僧はイメージです/出典:photoAC)
【 詩 境 】
詩 境
上手に逝ったなぁ・・、ご家族の死への理解も明快だったなぁ・・というのが、この方〔以下A様〕の看取り介護にスタッフのひとりとして関わらせていただいた感想です。
最期の方まで割合としっかりしていて、周囲の手を煩わせることが少なくて、自分はもうすぐ死ぬんだと覚悟して死んでいく、その様子は私の理想です。なので、その様子を書き留めておきたいと思いました。
A様の年齢は90歳台後半。歩行は杖歩行。リハパンを履いていましたがトイレは自立していらっしゃいました。嚥下機能も維持されていて、食事は普通食を召しあがっていらっしゃいました。
11月に入り・・A様のADLの低下が顕著になりました。ベッド上での失禁、転倒が続いたのです。リハパンはオムツになり、杖は車椅子になりました。食事は普通食から”刻み食”へと変わりました。
この口語自由詩の出来事は、丁度その頃のことです。
それから3ヵ月と少し。A様はほとんど寝たきりになり、食事は既にミキサー食になっていたのですが、それすら食べれなくなりました。そしてA様が口に入れるものは介護用栄養ドリンクと飲み物だけとなりました。それも用意された量を全部飲まれれたわけではありませんでした。
A様は、しばらくその状態が続きました。それでもお元気な時は、ホームの庭を車椅子で散歩していました。もう最後になるかもしれない・・という情報はスタッフ皆で共有されていたので、皆で代わる代わる介助をおこない、一緒に外気に触れたり、写真を撮ったりしていました。
A様が亡くなられる3週間位前、点滴がおこなわれました。最初は主治医の判断です。でも、ご家族様は言いました「自然に逝かせてやってください」と。点滴は二日間二回で終わり。その後は、老死へ向かっての介護が続きました。
点滴をしたからといって、ずっと生きられるわけではありません。老死へ向かうと身体は点滴さへも受け付けなくなります。点滴を受け付けなくなった身体に点滴をすると身体は徒に浮腫みます。ご家族様の中には、点滴が万能のように思っていらっしゃる方がいらっしゃいますが、それは誤解です。浮腫めばご本人様が苦しむだけです。看取りに向かう時期の点滴は、家族として”一応は努力しました”というような、云わば「印」のようなものです。「印」ですから2~3回やって止めた方が賢明だと思います。
A様は歌が好きだったので、部屋にはCDプレーヤーが持ち込まれ、24時間何かしらの歌が流れていました。いわゆる”懐かしのメロディー”という類のものです。
A様が無くなられる5日前、私は、眠っているように目を閉じてベッドに仰臥されているA様の顔を覗き込み、A様の手を握り、そして今までの思い出について話しかけました。「いろいろなことを教えてくださり、ありがとうございました」と。すると、A様の目尻から一筋の涙が流れました。・・ああ、わかってくれているんだ。そう思うと、私も身体が熱くなりました。
顕著な死前喘鳴があると、すぐにご家族様が呼ばれるのですが、A様の場合にはそれがありませんでした。
私が最後に見守りさせていただいたのは午後4時頃。そして退社しました。
A様はそれから凡そ1時間後、5時頃にご逝去されました。ああ、もう少し残業して見守らせていただくんだった・・・。そういうことは、大抵の場合、後悔として残ります。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【今までの作品一覧】
以下にございます。
”介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子/「車止めで一息」/詩境”