※この頁では老人ホームでの出来事を、そこで働いている介護士が口語自由詩にてお伝えしています。
【車止めで一息 98】
介護されていても

(画僧はイメージです/出典:photoAC)

老人ホームで暮らす、お婆ちゃんお爺ちゃんのこと、
気になりませんか?
少しだけでも気にしてみて下さい。
そこには、人生最期の自分の姿があるかもしれません。

高齢者の生活支援をさせて頂いていると、中には「早く死にたい」「今のまま生きていてもしょうがない」と、生への否定を口にされる方が少なからずいらっしゃいます。
そのような発言にコミュニケーションを繋げることは難しいものです。返す言葉は、介護士の教科書通りの理解をベースに、その方のお人柄を考慮しながらさせていただいております。〔後述/詩境にて〕
ただ、私人として思うこともあります。
・・あなた様は経済的に恵まれているからここに入居されたけれども、世間には費用の比較的安い公的施設への入居しか当てがなく入居を順番待ちしていたり、在宅介護を余儀なくされている方もいらっしゃるのです。
・・そして、かかる費用は私費だけではありません。あなた様をケアする時には、介護保険制度により40歳以上の国民から徴収された準税金にも等しい公金が充てられているのです。
・・「早く死にたい」と思うのは勝手だけれども、世の中のいろいろな立場の方々のことを思うと、口にはしないでほしいなぁ…と。
否定を肯定に変えていくポイントは水平思考、解釈を変えることだと思います。口で言うのは簡単で実際は難しいことなのですが、変えようとしなければ変えるきっかけさえも掴めません。
【 介護されていても 】
車止めで一息 98
介護されていても
あなた様は、
介護されていても口にした。
こんなことになるのなら、
八十歳くらいのときに、
死んでおくんだった・・と。
あなた様は、
介護されていても口にした。
こんなことになるのなら、
百歳まで生きようなんて、
望むんじゃあなかった・・と。
あなた様は日々愚痴を並べた。
目は見えにくい耳は聞こえにくい。
ちょっと移動するのにも人様の手を借りる。
ウンコをしたら人様にお尻を拭いてもらっている。
もういいですよ。
私に価値なんかありません。
私の世話なんかもういいんです。
苦しまずに死ねる薬をください。
介護されていても、
心穏やかではいられないあなた様。
嘆いても変わりません。
愚痴を並べても変わりません。
変えようとするのなら、
解釈を変えるしかありません。
人生は解釈で出来ているのですから。
そして介護も解釈のひとつなのです。
*
<最後の一行の「介護も解釈」>について
介護への取り組み方については、社会情勢の変化に伴う考え方の変化や見直しにより、変遷の歴史があります。つまり、いろいろな解釈がされてきたということです。ということは、これからも、その解釈に見直しがあると思ってよいでしょう。
古くは…高齢者施設に親を預けることを「姥捨て」と揶揄された時代と現在との相違を考察してみるのもよいかと思います。
以下に、介護が社会の問題として捉えられるようになった頃からの、公的介護の解釈に関する変遷の歴史を大まかに列記いたします。
◆ 自立支援への移行:
今でこそ、介護の基本理念は「自立支援」であり、「残存能力を生かす介護」がなされていますが、2000年以前は「〇〇ができない=自立生活できない=外に出ないで下さい/寝ていて下さい」という理解がされていました。例えば、転倒リスクがあれば「転んだらいけないから」という理由で、寝かされていたのです。
でも、今は違います。残された機能で何ができるのかを考え、残された機能を生かすことが求められています。
この変化は、2001年世界保健機構により定められた”ICF/国際生活機能分類”により明確になりました。現在の公的な介護の基本的な考え方は、”ICF/国際生活機能分類”に則っています。
〔ICF=Internationa Classification of Functioning Disability〕〕
➡現在/これが2001年以降の介護。
例:脳疾患により片麻痺となってしまった。使える片方の腕と手と脚を使って”できることをして生活していきましょう”。介護はそのための支援をいたします。
➡過去/これは2000年以前の介護。
例:脳疾患により片麻痺となってしまった。歩行に難があり転倒のリスクが高いので”ベッドで寝ていてくださいね”。介護は食事と排泄と入浴だけでよろしいですよね。
◆ 介護保険法の推移:
施行は2000年4月1日から。3年毎に見直し改定されています。直近は2024年に一部改定されました。次回の改定は2027年、既にその議論は始まっています。
なぜ見直さないといけないのでしょうか? 社会で支えようとする公的介護は、社会環境の変化に合わせないと成り立たなくなるからです。その時、社会の変化に翻弄される人が出てしまう可能性は零ではありません。
◆ 介護福祉士の役割の見直し:
介護を専門的に担う者の必要性が社会的に求められ、1987年/昭和62年に誕生しました。その役割について当初は「”入浴、排せつ、食事その他の介護” などを行うことを業とする者」とされていました。
そして2007年/平成19年、法改正は人の心の問題にも目を向けるようになります。介護福祉士の役割は「”心身の状況に応じた介護” などを行うことを業とする者」に改められました。
さらに2017年/平成29年の見直しでは、「尊厳と自立を支えるケア」「QOL/生活の質の維持・向上の視点を持つこと」など、高い倫理性の保持が介護福祉士の責務として求められるようになりました。
<私の体験/公的資格習得の為の研修の講師が仰っていたこと/とても印象深く残っているのでここに記します>
「2000年以前は、排泄と食事と入浴だけやっておけば、あとは寝かせておけばよかったの。でも、今は違いますよ。一人ひとりの人としての尊厳を守り、ひとり一人のQOL/生活の質の向上を求めて、たとえ身体機能が衰えて一人で生活できなくても、たとえ認知症になって右も左も分からなくなっても、その方がその方らしく生活できるように支援してさしあげる・・・それが今の介護に求められていることなんです」
しかし、介護士も社会保障費も不足が想定されている今、現状の介護の維持が難しくなってきたときには次の変革の波が必ず来ると、私は肌で感じています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【 詩 境 】
詩 境
【二つの視点】
「早く死にたい」「生きていたってしょうがない」という発言に、周囲の者は以下の二つの視点での理解と考察が求められると思います。
◆ひとつは、その方の内面的な要因です。
「早く死にたい」「生きていたってしょうがない」というような発言を、その言葉通りに受け取るのではなく、その言葉の裏に、上手く表現できない又は言いたくはないメッセージが隠されているという推察が、介護者には必要だと思います。
たとえば・・
⇒今まで培ってきた親子の関係、夫婦の関係が崩れて/あるいは逆転して、家族の中での自分の存在意義が無くなってしまったと感じる不安、役割喪失、自信の喪失があるのかもしれません。
⇒そして、重要なことなのに、周囲が分かりずらいことがあります。それは、本人様が他者に頼らなければ生きていけない自分のことを、強い自己否定と解釈してしまっている場合です。その結果、自尊心が低下してしまっているのかもしれません。
私の現場体験ですが・・排泄介助をされながら「ああ、こんなになっちゃって…」と、便座に座ったまま状態を二つ折りにして泣き出してしまった方がいらっしゃいました。
本人様は必死に自尊心を取り戻そうとされますが、例えば排泄介助される現実の中にいる自分を思えば、自尊心は粉々になっていく場合もあるのです。
<私の現場での対応>
共感は”わかってもらえている”という気持ちになるので安心を生みます。でも「早く死にたい」「生きていたってしょうがない」に対して、そのまま共感はできません。なので、条件付きの共感を示します。そこから話題を変えていきます。
「人生長く生きていれば、そう思うこともありますよ。私だって、そういうことを思ったことはありますからね。まずはご飯を食べて、腹ごしらえしましょうよ。お腹いっぱいになると、そういうことは思わなくなりますよ」
後半の部分は、食事時以外だったら「おいしいお茶でも淹れましょうか?お話、お伺いいたしますよ」・・といように、私は返答しております。
*
◆もうひとつの視点は、死生観の構築です。
私達は、高齢になって他者からの支援を受けなくては生活できない状態になる前に、自分の人生の時間軸に責任を持ち「生きていたってしょうがない」というようなことを口にしない死生観を持つことが必要だと思います。
今は2025年。この先、高齢者の人口比率がさらに上昇し、介護士の不足はどんどん顕著になり、社会保障費も逼迫していく時、社会福祉の仕組みは大きな変革を迫られるでしょう。その時は、制度の改革だけでなく、私達の死生観そのものも考え直さざるおえないのかもしれないのです。たとえば・・・
ex:制度/介護保険料の徴収年齢の引き下げ。
ex:制度/安楽死の一定年齢以上の合法化。
ex:死生観/「人生100年時代」概念の見直し。
・・・その他にも、いろいろ。
人生の最期の覚悟を整えて、今この一瞬一瞬をより大事に、そして楽しく、自由に生きていく。そうありたいものです。
老人ホームで働いていて、そう思います。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
【今までの作品一覧】
以下にございます。
”介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子/「車止めで一息」/詩境”