絶句/杜甫/絶句の英訳から学ぶ漢詩の鑑賞方法/悔しさと人生の重さ


(画像はイメージです。出典:photoAC)

・題材に取り上げた漢詩は、杜甫「絶句」です。

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・本文の出典は、”「教科書でおぼえた名詩」、発行:㈱文藝春秋、2008年7月25日 第7刷” に拠ります。

1.「絶句」の本文、及び書き下し文

【本文】※漢詩ですが、横書きにしておりますこと、ご了承下さいませ。

絶 句

江 碧 鳥 愈 白

山 青 花 欲 然

今 春 看 又 過

何 日 是 帰 年

【書き下し文】

江碧にして 鳥愈々白く

山青くして 花燃えんと欲す

今春看す看す又過ぐ

何れの日か 是れ帰る年

【読み下し文】

こうみどりにして とりいよいよしろく

やまあおくして はなもえんとほっす

こんしゅんみすみすまたすぐ

いずれのひか これかえるとしぞ

作者は中国の盛唐時代の詩人、杜甫です。

多くの人が、教科書で一度は目にして、一度は耳にしたことがある「国破山河在 城春草木深(国破れて 山河有り)~」で始まる「春望」の作者として有名です。

タイトルの「絶句」は、単に”短い詩”という意味です。

ちなみに、一句が五文字で綴られていて四行で構成されている漢詩は「五言絶句」、一句が七文字で綴られていて四行で構成されている漢詩は「七言絶句」と呼ばれています。

杜甫の「絶句」は、一句が五文字で読まれていて四行で構成されているので、漢詩の形式でいえば「五言絶句」にあたります。

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2.「絶句」を記事にした理由

(1)色を味わう

実は私、この漢詩の色使いについて別途記事にしております。漢詩の中の色/杜甫①〔絶句〕です。

第一句に碧と白、第二句に青と花(花の色を想像させます)、第三句には(春の鮮やかなな色を想像させます)というように、いろいろな色が散りばめられていて、青、白、赤、緑などの絵具でキャンバスに思い切りよく描いた色鮮やかな春の様子・・という表象を私は描いたからです。

それらの色は全部自然の色ですから、言葉を変えれば「自然の美しさ、自然の雄大さ」を伝えようとしているという解釈で、この詩を味わうという理解です。

(2)「悔しさ」という人生の重さ

何度も何度も読み込んでいると、最後の一句「何日是帰年」に「悔しさ」が凝縮されているように、私は感じてきました。

その連想は以下のとおりです。

絶句は「短い詩」という意味ですが、ただ短いから「絶句」というタイトルを付けたのではないように感じました。「絶句」という、その投げやりな感じさえ思わせるところに、この詩の本当のテーマがあるように、私は感じたのです。

なぜなら、「絶句」という語感からは、そこに ”切なさ” が連想できるからです。

そしてさらに、”切なさ” には、自分の力ではどうにもならない ”人生にふりかかってくる運命のような力” を連想させ、そこには「悔しさ」を感じずにはいられないからです。

「悔しい」と思えば、行為が投げやりになり「絶句」というタイトルを付けたことも、わからないではありません。

その「悔しさ」が、最後の一句「何日是帰年(何れの日か、是れ帰る年ぞ)」に読み取れるではありませんか!

「何日是帰年」は、「いったい、いつになったら帰れるんだろう」という意味ですが、ただ単にそう思うだけではなく「今年も帰れないじゃあないか!ちくしょう!」という悔しさがあるのではないか・・?と、私には思えるからです。

その思いを確かなものにするために、私はこの記事を書きました

(画像はイメージです。出典:photoAC)

この度は、この「絶句」について、英訳を見つけることができました。

詩は、その詩を書いた言語が、その意味を最も伝えていると思います。ただ、他の言語に翻訳することは、その詩のエキスをわかっていることです。

他の言語に訳された「絶句」を読むことによって、「絶句」という詩のエキスが、よりいっそう分かるのではないかと考えました。

訳者の感性が作者の感性に重なる部分を探し出せれば、なおいっそうの理解ができるのではないかと思います。

ここに紹介する英訳は、Herbert Allen Giles(ハーバード・ジャイルズ、1845~1935年、イギリスの外交官、中国学者)によるものです。

3.引用:英訳

White gleam the gulls across the darkling tide,
  On the green hills the red flower seem to burn;
Alas ! I see another spring has died . . . . .
When will it come ーthe day of my return !

Chinese Literature, P. 153

出典 ”「新唐詩選」/ 発行:㈱岩波書店 / 1984年12月20日 第54刷発行”

・一行目の tide、三行目の died が韻を踏んでいます。そして、burn と return もです。韻を踏むことによって、リズムが整い、聴覚的にも美しい音になっています。

・意味についていえば、原文と英訳の、その両方を読むことによって「絶句」のテーマがより見えやすくなってきます。以下は、テーマを探るための、私のメモ帳です。

4.「絶句」の英訳から読み取る【絶句のテーマに関する考察】

【英訳の解釈、そのメモ帳】

このように読み取れるであろう可能性として各行を解釈してみました。2行あるものは、解釈の可能性を広げたものです。日本語に訳しにくい部分は英語のままで記しました。

<1行目>

・the darking tide を渡っていくwhite gleam the gulls(白く輝いているカモメたち)

・輝くばかりの白いカモメたちが、the darking tideを渡っていく。

<2行目>

・緑色した丘陵には赤い花が咲いて、まるで燃えているようだ。

・赤い花が咲き乱れていて、緑の丘はまるで燃えているようだ。

<3行目>

・ああ、分かったよ。another spring は来なかったね。

・私が望んでいる春(another spring)は、今年も来なかった。なんということだ!

<4行目>

私が帰ることができる春は、いつになったら来るんだ!(来ないじゃあないか!)

【可能性としての日本語訳、メモ帳】

原文と英訳の両方を読みながら、もしも日本語に訳すとしたら・・という視点で日本語訳にしてみました。

 深い碧の大河を渡っていくカモメは白く輝く。

 緑の丘は赤い花が燃えるように咲き誇ってる。

 なのに私が望む春は今年も又過ぎ去っていく。

 私はいつ帰れるんだ?帰れないじゃあないか!

このように理解したところで「絶句」のエキスのような、この詩のテーマが見えてきました。

【テーマ:「自然」対「わたし」、メモ帳】

<視座> 物理的には、大河を見渡せる丘の上。精神的には、本意ではない環境にいる自分。

<視点> 大自然、雄大な大自然、自然の摂理のような思い通りにならないもの。

<テーマ>思い通りにはならない人生の悲哀。美しい大自然の中のちっぽけな自分。

最大の興味は、作者が帰りたがっていた所は、いったい何処なのか?・・・ですね。

私は、故郷のような気がします。あるいは、作者の気持ちが休まり安心できる場所。

作者はそこに帰りたいと、毎年毎年ずーっと思い続けているようです。

・・・でも、思うようにはならない・・悔しい、残念だ。自然は毎年毎年こんなに輝いているのに・・私は、ちっとも輝けないじゃあないか・・あああああ。このような感嘆でしょうか。

このように、漢詩を鑑賞する場合、いいえ漢詩だけでなく詩を鑑賞する場合に、他言語で訳されたものを詠み込むことによって、その詩が持っているテーマがより明確になってくる場合があります。

詩は言葉によって創られていますが、その言葉を発する「心の在りどころ」というものは、言葉を変えても変わらないものだからです。言葉だけに囚われることなく、その詩が内包している「心」というものを探しにいきたい、詩の鑑賞とはそういうものだと私は思っています。

原文だけなく、他言語に訳されたものも併せ読むこと、それはひとつの鑑賞方法なのです。

<以下は、私の日本語訳、再度掲出いたします>

 深い碧の大河を渡っていくカモメは白く輝く。

 緑の丘は赤い花が燃えるように咲き誇ってる。

 なのに私が望む春は今年も又過ぎ去っていく。

 私はいつ帰れるんだ?帰れないじゃあないか!

かとうあきら

ご一読いただければ、幸いです。

「教科書で学んだ懐かしい詩歌」

読んでくださり、ありがとうございました。