漢詩は、
とても豊かな情景に、
溢れています。
そして、
そこには色があります。
この頁では、漢詩の中に見える、そして漢詩の中に感じる、綺麗な色の数々について書きたいと思います。
詩は、その多くがいろいろな感情や情念や情景を言葉に託した「心の発露」なのですが、漢詩にはまるで言葉を絵の具にして絵を描いたように、その感情や情景を謳っているものが少なくありません。
そしてそれらの漢詩は、その時々の感情を、情景の中の色に託しています。さらに、直接的に色の表現をせずに色を感じさせ、そこから生まれる表象に、その詩の命を吹き込んでいるものがあるのです。
この頁では、それらの漢詩について私なりの解釈を、色彩の豊かさを主題にして、書いていきたいと思います。
なぜなら、言葉を、そして語句を、まるで絵の具のように使っていることに、ひとつの美しさを私は感じているからです。そしてさらに、それらから生まれる表象に、詩というものの人の心を動かす可能性の広がりを追求できるのではないかと、私は感じているからです。
取り上げる漢詩は、私達が主に学校の教科書で一度は接したことのあるものです。少しでもなじみがあれば、読みやすいですからね。
そして、作者が置かれていた環境とか、作者はどんな仕事についていたとか・・・、そういうことは一切見ずに、表現された漢詩のみから考察したいと思います。なので、様々な解説書とは異なる解釈もあるかもしれませんが、ご了解くださいませ。
私は、詩は解説書と共に味わうものではない、そこにある言葉だけから味わうものだ。言葉が伝える力を信じて味わう、それが詩の本来の味わい方だと思っているからです。この記事は、云わば、詩の味わい方の一例です。
・・・まずは、杜甫です。
〔 杜甫 : 盛唐の詩人。712年~770年。李白と並んで李杜と呼ばれています。〕
【 絶 句 】
「国破れて山河在り、城春にして草木深し」で始まる「春望」で有名な杜甫の詩に「絶句」があります。
この「絶句」、原色をドバーッとキャンバスにぶちまけたような色の使い方をしています。
(漢詩ですが横書きにしています。左から読んで下さいませ)
(読み下し文について、その出典は「教科書で覚えた名詩」/ 発行:㈱文藝春秋 / 2008年7月25日 第7刷、に拠ります)
江 碧 鳥 愈 白
山 青 花 欲 然
今 春 看 又 過
何 日 是 帰 年
江碧にして 鳥愈々白く
山青くして 花燃えんと欲す
今春看す看す又過ぐ
何れの日か 是れ帰る年ぞ
【解説:意訳&色について】
江碧にして・・・。まず青です。
ここでは「碧」を使っています。Blueではなく、青緑に近いプランクトンたっぷりの肥沃な河の色なのではないかと思われます。
大河はゆっくりとして、青青とした大地の恵みである水を運んでいる。その様子は、昔も今も変わらない。ここでいう昔とは、杜甫が生まれ育ち、今年も帰れない故郷もしくは馴染みのある土地(3~4行目から想定される)で生活していた頃のことです。
その碧とは、例えば・・・
両側にこんなに建物はなくて、河はもっともっと広くて、対岸が米粒のように見えるくらいの幅だと思えます。そして、2行目にあるように・・・”両側の山々には赤い花が燃えるように咲き誇っている” のだと思います。
そして、
鳥愈々白く・・・ 白です。
その碧い大河に、さっそうと飛んでいく白い鳥、白鷺あたりを想像させます。
さっそうと飛んでいく白い鳥が、大河の碧を背景にして、ますます白く輝いているように見える。その様子は、杜甫が本来、その地で獲得するべき姿であったのかもしれません。つまり、出世とか成功とかです。
杜甫は、何かの目標を持って、その地へ来た。でもかなえられないまま、そして今年も故郷/または馴染みのある土地に帰れずにいて、今大河を眺めている・・・。
この地で、思いはかなっていない・・・。なので、思い通りに悠々と碧い大河を飛んでいく姿は、まさしく羨望であり、落胆の裏返しなのかもしれません。
山青くして・・・。もう一度、青です。
そして、青青をした大河の両側を眺めれば、そこにある山々もまた青く、その青さは遠くまでずっとつづいている。青は希望であり、その青さを表現することは、杜甫の心はまだまだ希望の中にいると考えてよいかと思います。
山の青さはこのような感じを、私はイメージしました。
そして、山の裾野か中腹あたりには、赤々とした花が群れて咲き誇っている。
花燃えんと欲す・・・。赤です。
燃えているのだから、ここは赤い花が咲き乱れていると思われます。
これは山つつじが咲いている様子です。
このような感じの赤が、碧い大河を挟む両側の山々の裾野から中腹あたりに、まるで燃えるように咲いている・・・、そういうイメージでよいかと思います。
そして、「燃えている赤」は、かつて自分が成功を夢見てこの地に来た時の希望、意欲、情熱の象徴ではないかと思います。
杜甫は、その燃えるような赤い花の群れを見ながら、
この地へ来た時の希望と情熱に溢れた自分、そして今日まで頑張ってきた自分、さらに、まだまだこの先も、この花のように燃えていかなければいけないな、と思っている今の自分、そういった自分の心を見ていたのかもしれません。
今春看す看す又過ぐ・・・。春の色・・・新緑の青青とした緑、青い空etc.
この句は、単に「この春も故郷/又は馴染みのある土地に帰ることができなかったよ・・」という状況と落胆を表したものと理解してかまわないと思うのですが、「春」としたことで「看す看す又過ぐ」の、その落胆の程度が強調されていると思います。
なぜなら、「春」は「希望の色」です。希望を看す看す又やり過ごしてしまったのです。
今年看又過 では、看又過 は強調されないのです。
そして、4行目、最後の句。
何れの日か 是れ帰る年ぞ・・・。目の前の全ての色を想像させます。
いったいいつになったら、故郷に/又は馴染みのある土地に、帰れるのだろう。目の前の青青とした元気の良さ、赤々とした燃えるような情熱、そこに悠然として白く映えた自分が飛んでいたい・・・
ああ、でも、それはいったいつになることやら・・・。
この青さ(心の元気)、この燃える赤(情熱)を、まだまだ続けることができるだろうか・・・。
そうやって、杜甫は、この景色を眺めていたのだと思います。
このように、この「絶句」は、青、白、赤、そして隠喩としての春・・・を、ドバーッ、ドバーッと、投げつけるようにしてこの詩を書き上げています。
色が直接飛び込んでくるところに、言葉使いのダイナミックさがあるように思えます。
漢詩の色、味わっていただくことができたでしょうか・・・。
次は、同じ杜甫の、教科書の定番「春望」を取り上げてみたいと思います。「春望」にも、「絶句」ほど直接的ではないけれども、色が散りばめられています。
明日もいい日でありますように。
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【教科書で学んだ懐かしい詩歌】の総合目次は、以下にございます。
ご一読いただければ、幸いです。
読んでくださり、ありがとうございました。