【車止めで一息11】
手のひらの上

老人ホームで暮らしている、お婆ちゃん、お爺ちゃんのこと、気になりませんか?

私は介助しているつもりなのに、実は貴女様の掌の上にいたのですね。
私は、老人ホームで介護士として働いています。
そして、人々が老いていく様子のその中に、様々な人生模様を見る機会をいただいております。
介護/老人ホーム
私は、そこで見て感じた様々な人生模様を、より多くの人たちに伝えたいと思いました。
なぜなら、「老人ホームではこんなことが起きているんだ」と知ることによって、介護に対する理解が深まり、さらに人生という時間軸への深慮遠謀を深める手助けになるだろうと思ったからです。
それは、おせっかいなことかもしれません。でも、老後の生き方を考える”ヒント”になるかもしれないのです。
伝える方法は、詩という文芸手段を使いました。
詩の形式は、口語自由詩。タイトルは「車止めで一息」です。これは将来的に詩集に編纂する時のタイトルを想定しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
高齢者の、老人ホームでの息遣いと命の灯を、ご一読いただければ、幸いでございます。
【車止めで一息】
車止めで一息 11
手のひらの上
貴女様は天真爛漫。
裸で廊下を歩く時もある。
裸のワケを尋ねれば、暑かったのだと言う。
今朝はチューリップの球根を植えたわけではあるまいし、
爪の中は黒っぽいもので、いっぱい汚れてた。
部屋の壁を見れば、そこには便が塗られていて、
貴女様は、ただニコニコしているだけだった。
「〇〇さん、お風呂のご用意ができましたよ」
「今日は爪を切らせて下さい。爪を綺麗にしましょう、〇〇さん」
貴女様は従順。
お風呂!と声をあげ、嬉々とするときもあれば、
お風呂は初めてなんです・・と尻込みするときもある。
そして自分から進んでお仕置きを受けるわけではあるまいし、
脱衣場では壁に向いて手すりを握りお尻を突き出してくれる。
それは、脱衣を介助しやすいようにしてくれる貴女様の心遣い。
その日も貴女様はお尻を突き出し、これでいいですか? と尋ねてくれた。
「〇〇さん、ありがとうございます」
「お洋服を脱ぎましょう。ズボンとパンツを降ろしますね、〇〇さん」
貴女様は従順。
入浴介助を拒否したことは一度もない。
シャワーの後、渡されたタオルを手にして、いそいそと湯舟に向き合う。
ただ、ここのお風呂が初めてというわけではあるまいし、
貴女様は振り向き、ニコニコッとして口を開き、
ここに入ればいいんですか? といつも確かめる。
私は、ここに入ればいいんですよ、といつもオーム返しで教えてさしげる。
その日も、同じだった。
「ここに入れば、いいんですか?」
「はい、ここに入れば、いいんですよ」
貴女様は表情を緩めてゆっくり頷き、慎重そうにそっとバスタブを跨いだ。
湯の中にゆっくり腰を降ろす貴女様。
「〇〇さん、しっかりと温まってくださいね」
私は脱衣場に戻り、着替えを確認して、時計に目をやった。
貴女様は湯舟の中、穏やかな顔で湯につかっている。
その日、貴女様の柔和で優しい黒目は、
湯舟の中から私の様子をじっと見ていた。
そして、私がバスタブの脇に腰を降ろし、貴女様に目線を合わせると、
貴女様は「はい」と言って、
右手を湯から出して私に差し出した。
差し出した掌の上に乗っていたのは、
一握りの便だった。
・・ふう、硬いのでよかった・・
「〇〇さん、教えてくれて、ありがとうございます」
私は、新聞紙の上に便を受け取り、
くるんで白いポリ袋に入れて、脱衣場の隅に、半ば投げた。
私は、ポケットの中の勤務予定表を広げてしばし確認し、
私は、白いバスタオルを広げて椅子に掛け、
私は、壁の時計に目をやり、ひとりで頷き、貴女様に向かって言った。
「〇〇さん、そろそろ出て、身体を洗いましょう」
でも、湯舟の中の貴女様は私の誘いに無頓着。
気持ち良さそうに肩まで湯につかったまま・・私を見ている。
そして言った。
「いそがしそうね」
そしてさらに、
表情を緩め、私をしっかり見て言った。
「寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働く」
ニコニコッと笑う貴女様。
貴女様は、
自身の時間軸の中にしっかりと自分を置き、
私を手のひらの上に乗せていた。

(画僧はイメージです/出典:photoAC)
詩境

これは詩というよりも、散文に近いものになってしまいました。
この作品の貴女様は、ひとつ前の作品「浮世の馬鹿は起きて働く」と同じ方です。認知症を患っていました。
「寝るより楽はなかりけり、浮世の馬鹿は起きて働く」のフレーズは、ある日の介助の中で、この方より発せられました。それからしばらくの間、この方は度々このフレーズを口にされていました。
そして、その度に、私は、この方にペーシングを試みました。
そして言葉では「私は浮世の馬鹿ですからね、働いてばっかりなんですよ」と返していました。すると、この方はニコニコ二コッと笑顔を見せて下さいました。
その時、ペーシングによって、この方の心の中の何かが動いていたのです。それがどのようなものかは分かりません。でも、なにかしらのコミュニケーションをとれていたことは事実です。その時わたしは、それで、よしとしていました。なぜなら、この方に笑顔が出ていたからです。
人様に直接接する仕事に携わるとき、相手様の笑顔にまさる成果がありません。これは、介護の仕事でも同じことです。相手様の笑顔こそが最高の成果だと、私は思っています。
*
この作品に書かれている事柄は、ほぼ事実をなぞって書いています。その中で、詩作へのモチベーションとなった出来事は以下の事柄です。
「入浴介助をおこなう介護スタッフが、実は、介助される高齢者の手のひらの上に居た」という発見。
つまり、介護する側は、もっともっと謙虚に、人生の大先輩である高齢者に敬意と感謝の心を持って取り組まないといけないという気づきを、この方は私に与えてくださいました。
私が介護士として働いている施設は「住宅型介護付有料老人ホーム」です。
自立の方、要支援1~2の方、要介護1~5の方が住まわれており、看取りも行っている施設です。
【作品一覧】
ご一読いただけましたら、幸いでございます。
介護の詩/老人ホームで暮らす高齢者の様子「車止めで一息」/詩境
読んでくださり、ありがとうございます。