介護の詩/両親とわたし/老人ホームでの息遣いと命の灯36/詩境


【車止めで一息】

両親とわたし

老人ホームで暮らしている、お爺ちゃん、お婆ちゃんのこと、気になりませんか? 

老人ホームで暮らす認知症の妻を見舞う夫と娘。妻の症状は進んでいる。途方に暮れる夫。その両親の様子を見つめる娘。それを見守るスタッフ。ある日の一場面です。

私は、介護士として、老人ホームで働いています。

そして、年老いた人がこの世を去っていく、その様子の中に、様々な人生模様を見る機会を頂いております。

介護/老人ホーム

私は、そこで見て感じた様々な人生模様を、より多くの人たちに伝えたいと思いました。

なぜなら、「老人ホームではこんなことが起きているんだ」と知ることによって、介護に対する理解が深まり、さらに人生という時間軸への深慮遠謀を深める手助けになるだろうと思ったからです。

それは、おせっかいなことかもしれません。でも、老後の生き方を考える”ヒント”になるかもしれないのです。

伝える方法は、詩という文芸手段を使いました。

詩の形式は、口語自由詩。タイトルは「車止めで一息」です。これは将来的に詩集に編纂する時のタイトルを想定しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)

高齢者の、老人ホームでの息遣いと命の灯を、ご一読いただければ、幸いでございます。

【車止めで一息】

〔口語自由詩〕

車止めで一息36

両親とわたし

ロビーの大きな窓からは暖かい陽射し。

窓際の丸テーブルに向き合って座り、

二人は、きっとドキンドキンしている。

きっとその昔・・・六十数年位前にも、

喫茶店の窓際の丸テーブルに向き合って座り、

二人は、ドキンドキンしていたことだろう・・・そして、

わたしは、あなたたちの子供。

わたしは、あなたたちが愛し合った証。

わたしに、命を授けてくれた二人は今、

デートをしている。

老人ホームで。

六十数年にも続く、熱いデートをしている・・・でも、

目線をテーブルに落としたままの母に言葉は無い。

母を見つめる父にも、今はもう言葉が無い。

父の心の中の言葉にならない言葉だけが、

ズルズルズルズル・・・ウ~ンウン。

父の全部を覆っている。

母は目をそらしている・・・けれども、

そこから動かない。

そこから離れない。

母の心には、

そこを動いてはいけないという思いが、

ドキンドキンと響いているように見える。

遥か遠い記憶の・・・それが何かは分からないけれども、

その心地よい感覚だけが、

その幸せだった感覚だけが、

母の心を支配しているように見える。

〇〇〇もこっちに来て何か飲んだら?

わたしに、

声をかけてくれる母は、

もう、いない。

母は、

愛し合った証を、

もう知らない。

窓から差し込む陽光の中、

認知症の重くなっていた妻に、

父は、

かける言葉が見つからなかった。

父は、

途方に暮れて、

涙に包まれている。

わたしは、

どうしていいのか、

わからない。

画像はイメージです/出典:photoAC)

あきら

この詩の視座は「わたし」にあります。「わたし」とは、老人ホームで暮らす母の娘さんのことです。

その日、老人ホームで暮らす認知症の母を、夫は娘と一緒に見舞いました。そして、認知症の症状が進んでいる妻に、夫も娘さんも茫然自失します。

娘さんが事務的な用事を済ませてロビーに戻ると、両親はテーブルを挟んで、黙って座っていました。

その二人の様子を少し遠目にみている娘さんが「わたし」です。

帰りがけ「わたしひとりでは、どうしていいのか、わかりません。母を、どうぞよろしくお願いいたします」と娘さん。〔娘さんといっても、もう50歳台です〕

私が介護士として働いている施設は「住宅型介護付有料老人ホーム」です。

自立の方、要支援1~2の方、要介護1~5の方が住まわれており、ターミナルケア(終末期の医療及び介護)も行っている施設です。

【参考】

介護の詩/車止めで一息/老人ホームでの息遣いと命の灯

読んでくださり、ありがとうございます。