世阿弥「初心忘るべからず」の意味を知る、それは「時々の初心」


時々の初心(じじのしょしん)

初心とは、何かしらの目的と目標を持ち、その目的と目標に向かって取り組んだ「最初の志」を意味する言葉だと、私はずっと思っていました。

でも、日本の伝統芸能である「能」の世界には、そのような意味から離れた、もうひとつの「初心」があることを発見しました。そのひとつが「時々の初心」です。”ときどきのしょしん” ではなく、”じじのしょしん” と呼びます。

そして、「時々の初心」についての理解が進めば進むほどに、「時々の初心」は人生をもっと生きやすくしてくれるのではないか「時々の初心」は人生をもっとエンジョイできるようにしてくれるのではないかと、私は思いました。

人生を生きやすくしてくれて、人生をエンジョイしやすくしてくれる「時々の初心」を教えてくれたのは、この本です。

「能ー650年続いた仕掛けとは」、著者:安田登、発行:(株)新潮社 2018年3月25日4刷

この本の中で「時々(じじ)の初心」という、聞きなれない言葉が登場します。実は、これこそが、人生を生きやすく、そしてエンジョイできるようにしてくれるキーワードなのです。「時々の初心」を解説した、その一節をここに抜粋してみましょう。

そんなときに必要なのが「初心」です。古い自己イメージをバッサリ裁ち切り、次なるステージに上り、そして新しい身の丈に合った自分に立ち返る・・・世阿弥はこれを「時々の初心」と呼びました。(出典:「能ー650年続いた仕掛けとは」17頁より抜粋)

それでは、この「時々の初心」について探ってみましょう。まずは、「初心」という言葉を使った慣用句「初心忘るべからず」から解き明かしてみたいと思います。

1.「初心忘るべからず」を使うとき

「初心忘るべからず」という言葉はとても広く知られている日本の諺で、慣用句でもあります。英語に訳すと、例えば、Don’t  forget  your  original  intention. とか、Don’t  forget  your resolution. いうような訳になり、「最初に決めたことを忘れないように」という意味で理解されます。

もしも誰かが、学業でも、仕事でも、趣味でも、何か取り組んでいたことに行き詰ったり挫折をしたりすると、家族、先生、上司、友達などが「初心忘るべからず」を使って、その人を慰めたり励ましたりする場合が多々見られます。

たとえば、何かの資格試験に不合格で再挑戦するのかしないのか悩んでいる友人に対して、「初心忘るべからずって云うよね。その資格取得を目標とした時の真剣な気持ちを思い出して、また頑張ってみたらどうだろう」みたいな言い方です。

ほとんど、誰にでも通じる「初心忘るべからず」は、親や学校の先生が子供たちを励ます時に使うことによって広く浸透してきたのだと思われます。また、聞く方が、たとえ初めて耳にしたとしても「初心」の意味さえ分かれば、その言葉の意味はとてもわかりやすいものだといえるでしょう。何故なら「初心」はその言葉通り、事に取り組む時の「最初の気持ち(心)」と理解できるからです。

2.「初心忘るべからず」の出所

それでは「初心忘るべからず」は、元々誰がいつ言い出したのでしょうか。それは14世紀頃、日本史では室町時代(1336年~1573年)に遡ります。

「初心忘るべからず」の出所は、日本の代表的な芸能である「能」です。「能」を確立させた世阿弥が、その芸術論である「花鏡」の中で何度も使いました。次の一文は、Wikipedia掲載の「花鏡」について説明したものです。

花鏡は世阿弥が父と別れてから四十年の間に、彼が体得し、開拓し得た芸術論を集成したものといえる。とくに「奧段」と呼ばれる最後の段は、芸の奥義として「初心忘るべからず」と記され、世阿弥の芸能論の精髄と評されている。(出典:花鏡-Wikipedia

ちなみに「能」は14世紀の室町時代に生まれ、今日まで途絶えることなく上演され続けている日本の伝統芸能であり、2008年にユネスコの「無形文化遺産」に選ばれています(参考:無形文化遺産-文化庁)

3.「初心忘るべからず」の初心とは何か?

先に紹介した「能-650年続いた仕掛けとは」を読むと、「能」のことがよく分かると共に、「初心」についてとても意味深い発見をすることができます。

「初心」には、英語でいうところの original  intention. や、beginner’s  spirit.  または  go  back  to  the  basics.  というような意味があるのですが、「能」の世界では、そのような意味だけではないようです。著者の安田登さんは以下のように書いています。

「初心忘るべからず」これが、能を大成した観阿弥世阿弥父子が残したもっとも有名な言葉です。能に関連した言葉とは思わずに、私たちは「それを始めたときの初々しい気持ちを忘れてはいけない」という意味でこの言葉を使っています。しかし、実は世阿弥はこのような意味では使ってはいません。(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」13頁~14頁より抜粋)

それでは、いったい世阿弥はどのような意味で使っていたのでしょうか。

「能」における「初心」の意味を知ると、「初心」こそが、人生を活性化させて、生きる力を前向きにさせる、そのような力を生む原動力になるのではないかと、私は思いました。これはとても大きな発見です。

以下に安田登さんが書いている「初心」の意味を抜粋いたします。

初心の「初」という漢字は、「衣」編と「刀」からできており、もとの意味は「衣(布地)を刀(鋏)で裁つ」。すなわち「初」とは、まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れることを示し、「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自分を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なのです。(出典:「能ー650年続いた仕掛けとは」14頁より抜粋)

「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自分を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なんですね。

これを読んで、私は思いました。古い自分を裁ち切るには「覚悟」が必要、新たな自己として生まれ変わるにも「覚悟」が必要。もしも、その「覚悟」が脆弱だと、納得できるいいものは決して生まれないのだと。

さらに、「初心」の意味を単なる、orijinal  intention. や beginner’s  spirit. ではなく、漢字の成り立ちからその語源を探っていくところは、日本語である漢字ならではの探求だと思います。

安田登さんの云っていることを整理すると、

① 初心の「初」という漢字は、「衣」編と「刀」からできています。

② 「初」とは、まっさらな生地(衣)に、はじめて鋏(刃)を入れることです。

③ つまり「初」は、古い自分を断ち切り、新たな自己として生まれることでなのです。

確かに、たとえば着物でも洋服でも、衣服を作るためには生地を裁つことから始めるわけですから、その様子を想像してみれば「生まれ変わる」という理解はわかりやすいです。なぜなら、生地は服という機能と機能美に生まれ変わるわけですから。

そして、服を作るために生地に鋏を入れたら、もう二度と、その生地は元には戻せません。生地から服へと向かって、突き進んでいくしかありません。生地とは、さよならをしなければいけません。新しく服として生まれ変わるように努力していかなければいけません。つまり、そこには、強い覚悟が必要です。

わたしは、「初心」をこのように理解することによって、「初心」とは「新しく生まれ変わる覚悟」なのだと改めて思いました。

それでは、「初心」を画像でイメージしてみましょう。

まず、生地(衣)があります。これが現在、又は過去の自分です。

その生地に、衣に鋏(刀)を入れます。つまり、潔く捨て去ります。

これが、今の、又は古い自分を裁ち切り、新しい自分として生まれ変わる、つまり「初心」なのです。

その生まれ変わった先々の姿が、この事例だと着物です。潔く生地(衣)に鋏(刀)を入れることによって、この美しい着物が出来上がるのですね。

新しく生まれ変わるためには、古いものをきちんと断ち切らないといけない。そのことを忘れてはいけない。「初心忘るべからず」は、そのような意味なのです。

4.時々の初心(じじのしょしん)

さて、世阿弥「花鏡」で述べている「時々の初心」の意味について、先に紹介した「能ー650年続いた仕掛けとは」の中で、安田登さんは次のように分かりやすく説明しています。

古い自己イメージをバッサリ裁ち切り、次なるステージに上り、そして新しい身の丈にあった自分に立ち返る・・世阿弥はこれを「時々の初心」とも呼びました。(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」17頁)

これはつまり、人生の節目毎に思う事なのではないかと、私は思いました。例えば、入学とか卒業とか、就職とか、昇進とか、結婚とか、別離とか・・です。でも「能」では、それらも含まれるかもしれませんが、少し違うようです。「能」では、そのような外部環境にも左右されやすい節目ではなく、自己の変革や成長という節目について云っているようです。なぜなら、安田登さんは本の中で次のように説明しているからです。

私たちの身体の細胞は死と再生を繰り返し、それにつれて私たち自身もまた刻々と変化をしているものの、ふだんは自分が変化しているとは感じません。それは「自分はこんな人間だ」と考えている「自己イメージ」がほとんど変化しないからです。変化は成長でもあるのに、日々の変化に気がつかない、あるいは気づきたくないのが人間です。(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」17頁)

人は、生きている間に変わっていくものなのだから、変わっていっていく時々に、自分が変わっていっていることに気が付かないといけない、ということを暗に述べています。そして、安田登さんは、次のように説明を続けています。

とはいえ、固定化された自己イメージをそのまま放っておくと、「自己」と「自己イメージ」との間にはギャップが生じます。現状の「自己」と、過去のままにあり続けようとする「自己イメージによる自分」との差は広がり、ついにはそのギャップの中で毎日がつまらなく、息苦しいものになる。そうすると好奇心もうすれ、成長も止まってしまいます。人生も、その人間もつまらないものになっていくのです。(出典:「能-650年続いた仕掛けとは」17頁)

自分の変化に気が付くことで、その時までの自分は過去のものになります。でも、その過去にすがりつくのではなく、過去は過去として鋏で生地を裁ち切るようにバッサリ捨てて、新しい自分を成長させていきましょう・・と、私は理解しました。

そのようなときに必要なのが「初心」であり、その「初心」は人生のいたるところで何度も起こりえる「初心」なのだから、それを「時々の初心」と呼びましょう・・と云うわけです。

5.老後の初心

「能ー650年続いた仕掛けとは」を読むと、世阿弥は「時々の初心」だけではなく「老後の初心」ということにも言及していると教えてくれています。

壮年から熟年へと歳を経て、高齢者になっていくとき、どのような年齢でも、どのような自分の状態でも、次の新しいステージにいくためには「初心」が必要であり、その「初心」を「老後の初心」と呼ぶのだそうです。

この「老後の初心」については、私が介護現場での実体験から考察したことを、次の記事で書きたいと思います。