【車止めで一息26】
梅干しが食べたい

老人ホームで暮らしている、お爺ちゃん、お婆ちゃんのこと、気になりませんか?

“胃ろう”のお婆ちゃん、自分が”胃ろう”であることを忘れて「梅干しが食べたい」と訴えました。その時、私は、その方に寄り添うことができませんでした。
私は、老人ホームで介護士として働いています。
そして、人々が老いていく様子のその中に、様々な人生模様を見る機会を頂いております。
介護/老人ホーム
私は、そこで見て感じた様々な人生模様を、より多くの人たちに伝えたいと思いました。
なぜなら、「老人ホームではこんなことが起きているんだ」と知ることによって、介護に対する理解が深まり、さらに人生という時間軸への深慮遠謀を深める手助けになるだろうと思ったからです。
それは、おせっかいなことかもしれません。でも、老後の生き方を考える”ヒント”になるかもしれないのです。
伝える方法は、詩という文芸手段を使いました。
詩の形式は、口語自由詩。タイトルは「車止めで一息」です。これは将来的に詩集に編纂する時のタイトルを想定しています。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
高齢者の、老人ホームでの息遣いと命の灯を、ご一読いただければ、幸いでございます。
【車止めで一息】
車止めで一息26
梅干しが食べたい
〔私が介護職を続けるきかっけになった出来事〕
庭のテラスにつながる大きな窓。
咲き始めた向日葵が青空を仰いでいる。
そして窓の内側にひとり。
斜め四十五度に倒したリクライニングの大きな背中。
その車椅子の主は・・◇◇様。
貴女様の、
目線の先にあるのは、青空だろうか・・。
貴女様は、
何を見て、何を思っているのだろうか・・。
青い空には真っ白い綿雲が、
ひとつ・・ふたつ・・
形を変えながら、
ゆっくりゆっくり流れていた。
私は思い切って声をかけた。
「いい天気ですね」
私にきづいて少し顔を傾け、
目で微笑んでくれた◇◇様。
貴女様は私の目を見て、頼み込むように言った。
「梅干しが食べたい・・。あたし毎年、梅干しを作っていたの」
「こんなにいい天気の日は、梅を干すのにもってこいだわ」
「思い出したら、口の中が酸っぱくなってきちゃった・・」
私はすかさず頷き、厨房にきいてみますね、と伝えた。
食べたいものを食べたいときに食べる。
それは何事にも代えがたい万人の幸せだ。
・・・・・
でも、先輩は、
私を突き放すように言った。
「〇〇さんは、胃ろうだよ」
「えっ?!」
私は貴女様の前に腰を降ろして謝るしかなかった。
「いいのよ、わたしが忘れていただけだから・・」
貴女様はそう言うと、
私に向けていた顔をまた窓の外へ向けた。
窓の外には青い空。
青い空には白い雲。
世界は輝く陽光でいっぱいだった。
貴女様の、
青い空が映っている二つの瞳。
希望を見つめるその二つの瞳が潤んでいく。
うるうる・・と。
貴女様の、
気丈な性格を思わせる凛とした口元。
心に決めていたのであろう力強い口元が緩んでいく。
わなわな・・・と。
貴女様の手。
アームレストに乗せた手の甲に浮き出ていた血管は、
うねうねと、さらに浮き上がった。
貴女様はアームレストをギュッと握ったのだ。
緊張と無力が同時に起きているような困惑と混沌が、
ひとつの大きな空気の塊となって、
その場を覆ってしまった。
目の先には青い空が広がっているのに。
目の先には陽光に照らされた白い雲がのんびりと泳いでいるのに。
どのようないきさつで今があるのか、私は知らない。
知らないけれども、今目の前に、
口から食べれない貴女様がいる。
そして貴女様は・・叶わないのだけれども、
食べることを、欲した。
私は貴女様に、トイレ介助をすることができる。
私は貴女様に、入浴介助をすることができる。
でも、そうじゃあない。
その時、私は、
貴女様に言葉をかける言葉が欲しかった。
貴女様の心の、
困惑と混沌の中に入り込める言葉。
貴女様の心に、
なにかしらの希望を持ち込める言葉。
でも、
私の口は、
何の言葉も発することはできなかった。
それは、
無念と狼狽。
誰かが私に何かの頼み事をして、
私にその場を離れる口実ができるまで、
私は膝を突いたままそこにいるしかなかった。
私は無知蒙昧、
私は役立たずな介護士。
私は自分の手を、
アームレストの上の貴女様の手にそっと重ねた。
貴女様の心を抱きしめるつもりで。
・ ・ ・
青空を眺めたままの貴女様。
私は、
介護職を辞めるわけにはいかないと、
そのとき、思った。
*
〔注〕胃ろう:お腹に穴をあけてチューブを通し、どろどろした栄養食をチューブから胃に流し込む医療措置のこと。

(画像はイメージです/出典:photoAC)
詩境

これは、介護職に就いてから数か月、私はこの仕事をこのまま続けられるのだろうか…..不安を感じていた頃の出来事です。
この方が私の目を見て「梅干しが食べたい」とおっしゃったとき、私は〔梅干しを用意したら、この方は喜んでくださるに違いない〕と思い、私は嬉々として厨房へと足を運びました。
まだ介護職新人の私は、この方が ”胃ろう” の処置をされていることを、すっかり忘れていたのです。”胃ろう”による食事介助は常駐の看護師が、そして主な介助は先輩方が担っていました。
言い訳になりますが、私は”胃ろう”の重大性を認識できず、忘却していたのです。
〔”胃ろう”は経管栄養医療措置のひとつです。介護職が胃ろうによる栄養補給をおこなう場合には条件があります。介護福祉士の資格を有し、かつ所定の実務研修をおこない、かつ所定の届け出と手続きをすることによって可能となります。この詩作品の頃の私は、介護福祉士の資格はなく、ましてやそのような知識もない介護職駆け出しの時期でした。〕
私が気まずい顔をして、この方にお謝りしたとき、この方は「いいのよ、私が忘れていただけだから・・」と優しくおっしゃってくださいました。
なんという優しさでしょうか。私は、心苦しくなりました。
でも、この方にかける言葉は、私の口から、何も出なかったのです。私は、何をどう伝えたらいいのか、わかりませんでした。その時の私は、介護職失格でした。
介護の仕事は、排泄介助とか、更衣介助とか、食事介助とか、ADLの維持と向上に力を発揮するだけでなく、QOLの維持と向上にも取り組むことが、その職責なのであると、後になって認識できた次第です。
そのとき、言葉が出なかった私です。でも、そのとき思いました。どのような状況でも狼狽することなく相手様にかける言葉を見つけるまで、この仕事を辞めるわけにはいかないと。
私が介護士として働いている施設は「住宅型介護付有料老人ホーム」です。
自立の方、要支援1~2の方、要介護1~5の方が住まわれており、看取りも行っている施設です。
【作品一覧】

ご一読いただけましたら、幸いでございます。
読んでくださり、ありがとうございます。