*** プロローグ ***
方丈記の結末
(問答)
無常について考えることは、無常の対義である ”永遠” や ”常住” について意識することでもあると思います。
つまり、なんだかんだと言っても、やはり人は、”いつだって楽しくありたい” という欲求を満たそうとしているわけであって、そのためには ”無常とは何か” を明らかにしておく必要があるということなんですよね。
今日は、五十年前の、古文の授業を思い出しながら、書きました。
授業での記憶
(高校時代、古文の授業にて)
:先生は教壇に立ち、教科書を広げ、読み上げました。
「行く河の、流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶ、うたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」
(画像はイメージです/出典:photoAC)
:方丈記の冒頭を読み上げると、先生は教科書から目線を離し、教室のどこか遠くを見ながら、続けざまに解説を加えていきました。
「鎌倉時代の初め頃、京都に鴨長明という、仏道修行に勤しんだ人がいました。鴨長明は、京都の下鴨神社の神職を父親に持つ由緒正しい家柄の出身なのですが、いろいろ考えることがあったのでしょう。五十歳の春に出家して、俗世間との付き合いを絶ちました」
「そして、鴨長明は六十二歳で亡くなるのですが、その晩年に京都の郊外に建てた「方丈庵」という小さな小屋に独りで住み、その住み家で書き上げたのが、この”方丈記”です」
「つまり、方丈庵という住処で書いたので ”方丈記” なんですね」
(方丈庵:再現/出典:photoAC)
「ちなみに、方丈というのは広さを表しています。当時の長さの単位に一丈というのがありまして、一丈は現在国際的に使われているメートル法の約3メートルに相当します。方丈の方は四方の方ですから、四方が一丈ある広さ、つまり一丈かける一丈の広さを表しているんですね。ですから、方丈とはつまり、約3メートル四方の広さを意味しているんです」
:先生は黒板に計算式を書きながら、方丈庵の広さを説明してくれました。
「方丈庵が、おおよそ3メートル四方の広さだったということは、畳1枚の面積でいうと、約5.5畳位かな・・、鴨長明はそこで独り方丈記を書き綴っていたようです」
:そしてさらに、先生は、生徒一人ひとりの顔を、前から後ろへと順番に見ながら、各々の生徒に諭すように語り始めました。
「流れる河の水は、一瞬たりとも同じ所に留まってはいません。河はずっと同じ表情をしているけれども、流れている水は同じではないんですね。淀みにうかんでいる ”うたかた” というのは水の泡のことです。古語辞典で調べてみると、”消えやすいので、はかないもののたとえに用いることがある” とも書かれています」
「鴨長明は、流れ続ける河の水の流れを見て、”世の中の全てのものは変わっていく”と悟り、そこに無常を感じ取ったんですね。それが無常観です」
:先生はそう述べると、持参して教卓の上に置いておいた模造紙を広げました。そこには筆で「無常」と書かれていました。
「実をいうとね、先生は書道もするんです。これ、先生が書きました」
:そう云うと、先生は無常と書かれた模造紙を黒板に広げ、四隅を丸い磁石で留めました。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
:そして先生は正面を向くと、声を一段階大きくして、教室全体に響き渡るように言ったのです。
今日からは、”無常”ということを、方丈記を読みながら解釈し、そして味わっていきましょう。
「ちなみに方丈記は、兼好法師の”徒然草”、そして清少納言の”枕草子”とならんで、日本の古典三大随筆に数えられています。源氏物語のような物語ではありません。日記でも、論文でもありません。随筆なんですね」
「方丈記は随筆なので、筆者である鴨長明が体験したり見聞したりした事柄に、鴨長明自身の感想や意見などを交えた内容が書かれているというわけです。つまり、方丈記が書かれた時代は、平安時代の終わりから鎌倉時代の始まりにかけての頃なのですが、当時の実際にあった出来事が書かれているわけで、ノンフィクションなんです。そういう意味で、方丈記は歴史書としての価値も、そこに見出せるんですよ」
「たとえば、1177年に起きた京都での火災。平安京の3分の1に当たる面積が消失した「安元の大火」について詳しく綴っています」
「鎌倉幕府は、皆さん「いいくにつくろう」と暗記していると思うけど、1192年に源頼朝が征夷大将軍になった年ですね。鴨長明は1155年生まれなので37才の時です。出家したのは五十歳の春なので、まだまだ先なのですが、長き平安時代が終わるという時代の境目に生きていたわけで、鴨長明は世の中の諸行無常を敏感に感じ取っていたんですね」
:先生は話しながら、要点を黒板に箇条書きしていきました。
「たとえば、日本史でもう習ったかな…。平安京は福原遷都といって、都を京都から今の兵庫県に移したことがあるんですよね。確か1180年のことだったと思います。でも遷都した同じ年の冬には、天皇は京都へ帰ってしまい、もとの平安京が復活するんです。時の権力者は平清盛でした。鴨長明は、その辺りの街や人々の様子を、遷都を実行した平家に対する批判も含めて、方丈記に書き残しています」
「それから、京都では1185年に、”元暦の大地震” と呼ばれる大地震が起きて、京都の街並みは大きな被害に遭っているんですが、そのことについても、鴨長明は地震による被害の悲惨な状況を、克明に、絵を描くように書いているんですね」
(※元号の元暦は不吉だと判断されて、同年中に元号は「文治」に改められます。なので「元暦の大地震」は「文治地震」とも呼ばれています)
「・・” 地割れ裂く。羽なければ、空をも飛べず” ・・なんてことも書いているんですよ。地震で地割れが起きて、まともに歩けない。羽があれば空を飛んで逃げるところだけれども、羽がないから空は飛べない、って言っているんです。・・その辺りのことも、授業で取り上げましょうね」
:先生は黒板の前の教卓に戻ると、教卓の上に教科書を広げ、真ん中の折り目を指でなぞり、そして言いました。
「それでは、さっそく”行く河の流れは絶えずして” という冒頭部分から読み解いていきましょう」
(画像はイメージです/出典:photoAC)
*
そんなふうにして教わったはずの「方丈記」ですが・・・今となっては「ああ、あの川の流れは同じだけど同じじゃあない、世の中は無常だっていうやつね」という記憶が残っているだけです。
無常観というものにはニヒルな感覚を覚えて興味があったのですが・・。
みなさんは、いかがですか?
一体全体、方丈記の冒頭に示された無常観は、だからいったい何だったのでしょうか?
そう思うと・・・
「方丈記の結末は? そのラストシーンは? 冒頭で無常観を訴えているその意気込みは? いったいどんな結論へと導かれているのでしょうか!?」
・・・方丈記の最終回、知りたくは、ありませんか?
この記事では、方丈記の「冒頭」と「最終回」を載せ、そこに若干の考察を加えました。鴨長明が説く無常観に定義や結論というものがあるのなら、それを探ってみたいと思います。
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(画像はイメージです/出典:photoAC)
目 次
*** プロローグ ***
** * 本題 ***
*** エピローグ ***
*** 本題 ***
方丈記の結末を
探ってみましょう
・まずは冒頭部分、そして次に、結末部分の三つの段落の原文を以下に記します。
事前に、以下をご了承下さいませ。
・原文については、読みやすくするために改行を多用しました。一部の漢字に仮名を付けました。
・現代語訳については、意訳をおこないました。私のオリジナルです。
・引用、参考にした資料は以下の通りです。
「方丈記(全)」:角川文庫/発行:角川学芸出版/平成19年6月初版
角川必携 古語辞典 全訳版/発行:角川書店/平成9年11月初版
まずは人口に膾炙している
有名な冒頭部分です
冒頭/第一段
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
【語句の解説】
「うたかた〔泡沫〕」:水のあわ。消えやすいので、はかないもののたとえに用いることが多い。
「淀み(よどみ)」:水がよく流れずにたまっていること。また、たまっている所。
「栖(すみか)」:私の手元の古語辞典には載っておりません。現代語の国語辞典には常用漢字外として、”住処” “住み家”の意味で載っています。
【現代語訳/Free translation】
見てご覧なさい。河の流れというものは、一瞬たりとも休みなく常に流れ続けていて、しかも、同じ水ではありません。同じように見えているけれども、その中身は常に変わっていっているのです。
流れてはいないように見える淀みにおいても、実は水は流れています。そして、見え隠れする水の泡は決して同じ所に留まってはいません。みんな出来ては消えて、出来ては消えていっているのです。
世の中に暮らしている人々と、その人たちが住んでいる住み家もまた、見た目はいつもと変わらぬように暮らしているように見えるけれども、実は、出来ては消えていく水の泡と同じように、はかないものなのです。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
最後の段落へ飛ぶ前に、
この冒頭の後、最後の段落に至るまでの内容を要約しておきましょう。
1.有名な冒頭の記述の続きは・・・
世の中に起きた災害(自然災害/人災)を克明に書き連ねていきます。その記述内容は、現代の言葉を借りればレポーター鴨長明によるレポート、まるで新聞記事のようなのです。
主な記述内容は以下に記したとおりです。その内容は鴨長明が直接その目で見たもの、人づてに聞いたもの、両方あると思われますが、まことに細かい状況描写がされています。史実の描写であることから、そこに方丈記の歴史資料としての価値が認められるというわけです。
ここでは、それらの記載をいたしませんが、項目だけは以下に記しておきます。
:安元の大火/ 1177年/第五段~に記述
:治承の竜巻/1180年4月/第八段~に記述。
:福原遷都/1180年6月/第十一段~に記述。
:養和の飢饉/1181~82年/第十五段~に記述。
:元暦の大地震/1185年/第二十一段~に記述。
これらの自然災害や人災(福原遷都による京都の町の荒廃と人心の乱れを、鴨長明は ”人災”と捉えています)によって、人々がそれまで築き上げてきたものは一瞬にて無と化しました。
”安元の大火” の記述では、第五段で以下のように書き綴っています。
「去安元三年四月廿日八日かとよ。風激しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より、火出で来て、西北に至る。はてには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵芥となりにき。」
平安京は、京都の町は・・その3分の1ほどの面積が火災にて、一瞬のうちに灰となってしまいました。
鴨長明は、そこに”無常”を感じていたようです。
2.それらの出来事の列挙を終えると、今度は自身の人生を振りかえっていきます。方丈庵に住むまでの自身の足取り、そして方丈庵での生活の様子です。
そして、最後の三十五段、三十六段、三十七段へと続いていくんですね。
(方丈庵:再現/出典:photoAC)
方丈記を締めくくる
最後の三段です
第三十五段
そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。
たちまちに三途の闇に向かはんとす。
何の業をかかこたんとする。
仏の教へ給ふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。
今、草庵を愛するも、とがとす。
閑寂に着するも、障りなるべし。
いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん。
【語句の解説】
「一期(いちご)」:生まれてから死ぬまで。一生。
「余算(よさん)」:残りの寿命。余命。
「三途の闇(さんづのやみ)」:冥土。または死。
「かこたん」:「かこつ」(不満を述べる)+「ん」(「む」を「ん」と表記している)と思われます。
「おもむき」:心がけている方向。趣旨。
「とがとす」:「とが」は過ち。なので「とがとす」は「罪なことである」というような意味。
「障り(さはり)」:都合の悪いこと。差支え。妨げ。支障。邪魔。
【現代語訳/Free translation】
さて、山際に見えている月は、もうすぐ沈んでいく。東の空に昇り、西の山へと沈んでいく月。それは、私の一生と同じだ。今、山の向こうに沈もうとしている月の姿は、私の余命幾ばくもない姿と同じなのだ。
ひとたび沈めば、私のこの身は冥土の闇の中。もうこの世には戻らない、いいや戻れない。
今まで、ここに、いろいろと書き連ねてきたけれども、私は、いったい何の不満を言いたかったのだろう。もう、わからなくなってしまった。
仏の教えを紐解けば、何事においても執着してはいけない、無心になりなさいと教えている。
今、私はこの方丈庵を大事している。この住処が好きだ。でも、その思いというものも、ひとつの執着なのだから・・実は、いけないこと、罪なことなのだ。
誰も尋ねて来ず、独り静かな佇まいの中に悠々と暮らしていることを、私はとても気に入っている。ただ、それさえも執着であり、仏の教えに則れば、差し障りのあることなのだ。
こうやって、誰が必要とするわけでもない事柄を、ただ自分の楽しみのためだけに書き連ねてきた。私のこの行いに、いったいどんな意味があるというのだろうか。ただ徒に時間を過ごしていくだけではないだろうか・・。そろそろ止めにしてもいいのかもしれない・・。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
第三十六段
静かなる暁、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひて曰はく、世を遁(のが)れて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はんとなり。
しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。
栖(すみか)は、すなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特が行ひにだに及ばず。
もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。
はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。
その時、心さらに答ふることなし。
ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して、やみぬ。
【語句の解説】
「このことわり」:直前の第三十五段で考え巡らした理屈の事(「仏の教へ給ふおもむき」そしてそれに対する自身の思索。その両方のこと)を指していると考えるのが妥当だと思います。
「しかるを」:「しかり(然り)」の連体形+接続助詞「を」/①そうであるのに。ところが。②そういう事情で。そういう状態で。
「浄名居士(じょうみょうこじ)」:釈迦の弟子。広さ3m四方の石室に住んだといわれています。つまり、それも方丈です。〔鴨長明は、方丈庵について釈迦の弟子の行動を真似たのだと、恥じているのです〕
「周利槃特(しゅりはんどく)」:釈迦の弟子。弟子の中で最も愚鈍であったが、努力して悟りを開いたとされます。〔鴨長明は、自分は愚鈍とされていた釈迦の弟子よりも劣っていると言いたかったのです。この辺りの記述は、自虐的ですね〕
「かたはらに」:傍ら・側 / 「近く・そば」という意味。文脈からは「自分でない誰か他に」という意味が妥当だと思われます。
「舌根(ぜっこん)」:仏教で言うところの「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」のひとつ。感覚や意識を生じさせるので、煩悩を生み出すものとして理解されています。
「不請(ふしょう)」:①〔仏教語〕請い望まれなくとも、救いの手をさしのべること。仏・菩薩の慈悲の生活を表す。②心から望むのではないこと。不本意。
※不請について:上記の解説は古語辞典によるものですが、方丈記に書かれた「不請」については多くの解釈があるようで、この記事の参考に使用している「方丈記(全)/角川ソフィア文庫/平成19年6月初版/154頁」には、以下のように書かれていました。
以下引用:
”「不請」についての解釈は『方丈記』最大の関門として諸説が集中・乱立している。”
引用終わり
解釈に諸説あるといういうことは、鑑賞する者の楽しみを増やしてくれます。
それでは、この段を現代語訳してみましょう。
【現代語訳/Free translation】
東の空が真っ赤に染まった。夜は静かに明けていく。
とうとう朝まで考え続けてしまった。仏教の教え、そして自分が今日までしてきた行い、それらの意味を考え続け、そして今、私は自分の心に問い質してみた。
出家して山中で隠遁生活をしてきた、その理由は心を正しく持ち、仏道修行をするためだった。
そのはずだったのに、姿形は聖人でありながら、心は”ああしたい””こうしたい”という欲にまみれて濁っていた。
つまり、住処は浄名居士が住んだ様子を真似て修行に励んでみたけれども、その修行は周利槃特の足元にも及ばなかったのだ。
もしかしたら、私のご先祖様の因縁で、心貧しく卑しい人間に生まれついていたのかもしれない。
もしくは、いろいろ考えあぐねているうちに、心は妄想に囚われて狂ってしまったのだろうか。
いろいろ考えては自問自答してみたが、心は何も返事をしなかった。
ただ、心は、自分の代わりに煩悩を生む舌に喋らせ、阿弥陀仏への言葉を発したのだった。
そしてそれは、私の心が望むとか望まないとかに関わらず、ごく自然に発せられた。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。
全ての意志は、その念仏で終わった。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
そして、最後の最後は、短く以下のように締めくくられます。
最後/第三十七段
時に、建暦の二年、弥生のつごもりごろ、桑門の漣胤、外山の庵にして、これを記す。
【語句の解説】
「建暦二年」:1212年
「つごもり(晦)」:①月末。下旬。②月の最終日。みそか。
「桑門」:「沙門(しゃもん)」と同じ。出家して仏道の修行をする人のこと。
「漣胤(れんいん)」:鴨長明の出家後に授けられた僧としての名前。
「外山(とやま)」:人里に近い所にある山のこと。
「外山の庵」:鴨長明の住処である”方丈庵”のことです。
【現代語訳】
時は、建暦の二年(1212年)、三月の下旬。僧である漣胤は、外山にある庵にて、これを書き記した。
*
つまり、こういうことなんですね。
** 超簡略版「方丈記」 **
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。
・・・・・
仏の教へ給ふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
冒頭で世の中の無常を訴えた、その結末は・・・
「無常への望ましい姿勢は・・無欲になって、ただ静かに祈ること」だと述べているのです。
読んでくださり、ありがとうございました。