【車止めで一息】
ペーシング

老人ホームで暮らしている、お爺ちゃん、お婆ちゃんのこと、気になりませんか?

たとえ混濁した記憶でも、その記憶はその人のもの。その人自身なのです。介護する者は目線を合わせ、呼吸を合わせ、そして話す内容にもペーシングをします。
私は、介護士として、老人ホームで働いています。
そして、年老いた人がこの世を去っていく、その様子の中に、様々な人生模様を見る機会を頂いております。
介護/老人ホーム
私は、そこで見て感じた様々な人生模様を、より多くの人たちに伝えたいと思いました。
なぜなら、「老人ホームではこんなことが起きているんだ」と知ることによって、介護に対する理解が深まり、さらに人生という時間軸への深慮遠謀を深める手助けになるだろうと思ったからです。
それは、おせっかいなことかもしれません。でも、老後の生き方を考える”ヒント”になるかもしれないのです。
伝える方法は、詩という文芸手段を使いました。
詩の形式は、口語自由詩。タイトルは「車止めで一息」です。これは将来的に詩集に編纂する時のタイトルを想定しています。
(画像はイメージです/出典:photoAC)

高齢者の、老人ホームでの息遣いと命の灯を、ご一読いただければ、幸いでございます。
【車止めで一息】
車止めで一息30
ペーシング
・・・起こさなきゃあ、入浴の時間だ。
入浴拒否を何日も続けている貴女様は今、
熟睡している。
・・・貴女様は夢の中。
穏やかで優しいその顔は、
きっと夢の中の心地よさ。
人は自分らしくあれば、
人はいつでもいい顔をする。
・・・今日こそは入浴してほしい午後四時〇分。
声をかけられて、
手をにぎられて、
体をさすられて、
貴女様は、
漸く薄目を開けてくれた。
貴女様の、
鍵を無くした心の窓が、
ゆっくりゆっくり開いていく。
次の瞬間・・・
貴女様の、
今味わっていたであろう・・・自分らしさが、
一語一語の言葉になって震える唇から発せられた。
貴女様は視界の中に私を見つけると、
横になったまま、私に訊いたのだ。
「せんせいは、なんの、キョウダンに、たつんですか?」
・・・せんせい? 先生?
・・・キョウダン? たつ? 立つ?
・・・思い出せ、プロフィールを!
私が返答を探していると、
貴女様は教えてくれた。
「わたしは、英語です」
・・・そうだ、〇〇様は教師だったんだ!
・・・教壇だ。黒板、チョーク、生徒たちの顔、顔!
・・・ここは今、職員室だ!
・・・私は、ペーシングを試みた。
「私は、社会ですよ。歴史を教えています」
口元が緩む貴女様。
「〇〇先生の英語の授業は分かりやすいって、評判いいですよ」
目じりが下がる貴女様。
「今度、〇〇先生の英語の授業を、見学させてくださいね」
微笑み揺れる口元から何かを発しようとされる貴女様。
嬉しそうな貴女様は楽しげに言った。
「わたしも、お願いします。歴史は、好きなんです」
今、貴女様は、
回り始めた記憶のメリーゴーランドに乗って、
変わっていく景色に授業の様子を映し出している。
貴女様が、
自分らしくいられる場所と時間。
それは・・・
教壇。
それは・・・
先生でいるとき。
人は自分らしくあれば、
人はいつでもいい顔をする。
〇〇様の記憶のメリーゴーランドは、
明るく和やかに回り続けた。
〇〇様、
九十八歳。
パーキンソン病。
その日、
〇〇様は、
三週間ぶりに、
入浴することができた。
入浴後の、その顔は、
教壇に立つ〇〇先生の、
実に〇〇先生らしい、
とてもいい顔だった。
(画像はイメージです/出典:photoAC)

詩境

「お風呂の時間ですよ」とお伝えしても、相手様はきょとんとしたまま、伝わりません。なんとかして、やっと分かって頂けたときには拒否される・・・介護の現場では、よくあることです。
この詩に登場された方は見当識障害が顕著でした。
なので私は、徹底してペーシングすることにしました。ペーシングとは、相手様のペースに合わせてコミュニケーションをより円滑にしていく会話のテクニックです。
そして、相手様に合わせることは、方便を使うことを意味していました。
介護する者は、普段から意識するしないに関わらずペーシングをしているのですが、意識してペーシングすることで、成果は計りやすくなるものです。
この詩では、ペーシングによって、その方の記憶の中の「ある場面」が、その方の口から少しずつ漏れ始めました。その時、その方の表情は、とても柔らかく、とても穏やかになりました。私は、その方の記憶の一場面を共有できているように感じて、とても嬉しく思いました。
私が介護士として働いている施設は「住宅型介護付有料老人ホーム」です。
自立の方、要支援1~2の方、要介護1~5の方が住まわれており、ターミナルケア(終末期の医療及び介護)も行っている施設です。
【参考】

以下は、作品一覧です:ご一読頂けましたら幸いです。
読んでくださり、ありがとうございます。