百人一首には「月」を詠んだ和歌が十一首あります。
百首のうちの十一首なのですから、多いですね。選者である藤原定家が「月」を好んで選んだ結果なのか、元々「月」を題材にした和歌が多く存在していたから自ずからそうなったのか・・わかりませんが、ともかく万葉集が編纂された頃の時代から鎌倉時代の初め頃(百人一首に選ばれた和歌が詠まれた時期です)において、「月」は和歌の題材として恰好の的であったようです。
なので、これら十一首の歌を鑑賞すれば、万葉集が編纂された頃の時代から鎌倉時代の初め頃の日本において、当時の人々が月にどのような思いを抱いていたのかが分かります。
(画像はイメージです/出典:photoAC)
それら十一首の和歌を紐解けば・・・
「有明の月」は三首に登場し、
「夜半の月」は二首に詠われ、
その他には・・「故郷の月」「夏の月」「秋の月」「月を題材にした恋歌」が詠まれています。
「月」という自然の素材について、百人一首では「ああ綺麗だ」「ああ美しい」という感慨を運んでくれるだけではありません。
それぞれの和歌には、それぞれの ”人生の事情” というものが語られており、「月」はそれらを語るツールとして存在しています。
そしてまた、それぞれの”人生の事情から生み出される心象風景の象徴” として・・「月」があるのです。
そう考えると、これら百人一首に詠まれた「月」は、日本の精神文化史の部分を伝えるものであり、美意識的な視点とは異なった味わい方ができる、もうひとつの「日本の名月」なのかもしれません。
それでは、
それぞれの歌を鑑賞しながら、それぞれの「月」を味わっていきたいと思います。
鑑賞の要点
どのような月(情報)がインプットされて、どのような表象となってアウトプットされているのか・・という視点で鑑賞するのが分かりやすいと思います。
この場合の視座は、作者(詠み人)になったつもりの私です。空を眺めながら、その歌を詠んだ作者の気持ちになりきることが大切です。
そして視野については、”心理的には作者の人生事情”、”物理的には月の出ている空” になります。
*
※現代語訳については、私が【意訳/Free translation】をおこないました。
その理由は以下のとおりです。
①直訳は、ネット検索ですぐに手に入ります。なので、ここに記しても重複するだけだからです。
②詩歌の鑑賞について、私はそこにただひとつの正しい解釈を求めることが鑑賞だとは思っていません。詩歌の鑑賞は様々な解釈があってよいと思います。そこに鑑賞する楽しさがあります。
②意訳は、詩歌に接した時に受ける感慨の、その可能性を無限大に増やしてくれる優れた鑑賞方法だと私は思っているからです。
③意訳は、言外に想定される状況や作者に推定される心情を加味した創作物です。意訳をおこない意訳を楽しむことは、詩歌の鑑賞に多くの可能性をもたらしてくれるからです。
※各々の和歌には、各々詳細に解説したページがございます。
※実は以前にも同じテーマで記事を書いているのですが、その頃よりもさらに鑑賞と吟味が進み、今回の内容の方がより洗練されていると自己評価しております。
** 有明の月 **
まずは ”有明の月” を詠んだ三首です。
ありあけ【有り明け】
月が空に残ったまま、夜が明けること。また、その時分。また、朝まで残る月。/必ずしも明け方だけをさすとは限らず、陰暦十六日以降の夜更けに出て、翌朝まで残る月をいうこともある。
〔引用元/角川 必携 古語辞典 全訳版|平成9年11月初版〕
有明の月/第二十一番歌
恋歌:有明の月に感じたものは、”来ない人を待ち続けていた切ない私” への残念さです。
〔本文〕
今来むと いひしばかりに 長月の
有明の月を 待ち出でつるかな
〔読み〕
いまこむと いひしばかりに ながつきの
ありあけのつきを まちいでつるかな
(画像はイメージ、例です/出典:photoAC)
【意訳(Free translation】
ねえ、どうして来てくれないの!
ねえ、どうして私をほったらかしにしておくの!?
貴方は言ったのよ!
「直ぐに行くから、待っていてください」って。
だから、私は、毎日毎日、こうやって、
きちんとお風呂にも入って、
貴方が来るのを待っていたんじゃない!
なのに、貴方は来ない。
嗚呼~!
今、何月だと思っているの! もう長月よ!
夜は長いのよ!
なのに、気が付いたら、もう有明の月が出ていたわ。
こんなに長い夜に、私を独りにさせるなんて、
貴方のことは、もう信じられません。
(さようなら・・・)
*
〔もう少し詳細な解説〕
*
次の歌では、有明の月だけでなく ”ほととぎす” も鳴き声で登場します。視覚に感じる有明の月、聴覚に感じる鳥の鳴き声、五感に響く美しい和歌です。
ほととぎす
※「ほととぎす」は次の八十一番歌を鑑賞するときのキーワードになります。なので、ここに記しておきたいと思います。以下、古語辞典〔角川 必携 古語辞典 全訳版|平成 9年11月初版〕からの引用です。
” ほととぎす/渡り鳥の名。初夏に夜昼ともに鳴く。初夏を知らせる鳥として人々に心待ちにされた。懐古・恋慕の情を起こさせる鳥とされ、また冥土に通う鳥ともいい、「死出の田長(しでのたおさ)」の異称がある。”
有明の月/第八十一番歌
夏の訪れ:朝の透き通った空気、ほととぎすの鳴き声、空には有明の月。一瞬、時間が止まります。
〔本文〕
ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば
ただ有明の 月ぞ残れる
〔読み〕
ほととぎす なきつるかたを ながむれば
ただありあけの つきぞのこれる
(画僧はイメージです/出典:photoAC)
【意訳/Free translation】
東の空が・・明るくなってきた。
辺りは、朝の静寂に包まれている。
・・・・・
おやっ? あの鳴き声は?
おっ! また鳴いた!
あの鳴き声は・・・ほととぎすだ!
夏が来たんだ!
何処にいるんだろう、ほととぎすは・・
あっちだ、西の方だ。
・・・・・
おかしいなぁ….
ほととぎすの、鳴き声はしたのに、
ほととぎすの、姿は見えないぞ。
・・・・・
明るくなった西の空には、
お月様が何事もなかったかのように、
落ち着いた姿で浮かんでいる。
ああ、有明の月だ。
・・・・・
耳を澄ましてみても、
空に有明の月が残っているだけだ。
もう、鳴き声はしない。
空には、ただ、ひとつ・・・
有明の月が浮かんでいる・・
・・・耳の奥には、
ほととぎすの鳴き声・・・
*
〔もう少し詳細な解説〕
次の歌では、実際に有明の月は輝いていません。でも、”それは有明の月みたい” なのです。当時(平安時代)有明の月が生活の中でどのような役割をしていたのかがわかります。
有明の月/第三十一番歌
吉野の里:伝えたいのはお月様ではなく、吉野の里に積もった白雪の美しさです。
〔本文〕
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに
吉野の里に 降れる白雪
〔読み方〕
あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに
よしののさとに ふれるしらゆき
(画像はイメージです/出典:photoAC)
この歌に難しい古語は使わず、目の前に起きている事象をそのまま歌にしています。この歌は、各々の語句の意味を直截的に感じ取ることが大事な歌なのです。なので、この歌は意訳しようにも意訳できない歌だと思います。
それでも、もしも意訳するのであれば、
以下のようになり、なんだか陳腐な雰囲気が漂ってしまいます。
三十一文字、各々の言葉と意味が連なる関係性、それらだけを素直に味わった方がよいのかもしれません。
【意訳(Free translation)】
障子の外は明るくなってきた。
そろそろ朝だ。
・・・
それにしても外は明るいなあ。
有明の月が照らしているのかな・・・
・・・
うわぁ! 有明の月だと思って開けてみたら、
雪が積もっているじゃあないか!
そうだ、ここは吉野の里なんだ。
吉野の里に降る雪は白くて綺麗だなぁ・・・
*
〔もう少し詳細な解説〕
** 夜半の月 **
次は ”夜半の月” を詠んだ二首です。
「夜半」:現代語では「やはん」と読んで「よなか」のことを指します。
古語でも「夜半」は「よなか」を意味しますが、読み方は「よは」です。
「夜半の月」の音は、「やはんのつき」ではなく「よはのつき」なのです。
ここで想像したいのは、「夜半」は普通眠っている時間帯だということです。
作者は普通なら床についてスヤスヤと眠っている時間帯に起きていて、お月様を眺めている、又は眺めていたのです。そして「夜半の月」に対して”ある印象や感慨” を持ったからこそ、歌の題材に活用したと思われます。
それでは、それらはいったい、どのような ”印象や感慨” だったのでしょうか・・?
そこにこそ、これらの歌の鑑賞の要点があると、私は思っています。
夜半の月/第五十七番歌
孤独感:めぐり逢えたのに「雲隠れ」してしまったのね・・ああ、孤独な私、私は独り。
〔本文〕
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな
〔読み〕
めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに
くもがくれにし よはのつきかな
(画像はイメージです/出典:photoAC)
【意訳(Free translation)】
久しぶりに会えたのに、もう帰っちゃったのね?
楽しかったのに、さみしい・・。
まるで、
輝いていても、
さーっと雲の中に隠れてしまう、
真夜中の月のようだわ。
あ~あ、これでまた、私はひとりぼっち・・、
闇の中。
*
〔もう少し詳細な解説〕
次の歌は、人生という長い時間軸を意識して鑑賞することをお勧めします。
未来に行って、辛かった過去(現在のこと)を恋しく思い出す私。
その私を想像することによって、今を生き抜く力にしようとしている私。
なので、この時・・月は「希望の月」
人生という時間軸を想像の中で行ったり来たりしながら、今辛い自分に勇気を与えることは、ひとつの処世術なのかもしれません。
夜半の月/第六十八番歌
希望の月:未来に立ち、今日の夜半の月を思い、そして自分を慰める私。
〔本文〕
心にも あらで憂き世に ながらえば
恋しかるべき 夜半の月かな
〔読み方〕
こころにも あらで うきよにながらへば
こひしかるべき よはのつきかな
〔画像はイメージです/出典:photoAC〕
【意訳(Free translation)】
辛い・・、辛いなぁ・・。
いっそのこと、死んでしまおうか・・・
・・・・・
・・・それにしても、
真夜中の月は何の悩みも何の迷いもなく、煌々と輝いて空に居るなぁ・・
私もあの月のように泰然自若でいられたらいいのになぁ・・
そうだ! そうかもしれない!
今私の身に降りかかっている、この難局を、
もしも、
私が乗り越えることができたのなら、
その時には、
真夜中に見た、この月のことを懐かしく、
そして恋しく思うかもしれない。
だとしたら、あともう少し、
頑張って生きなきゃあ。
そして、
幸せな未来を迎えた時には、
この夜半の月を思い出すんだ。
そして誉めよう。
挫けないで頑張ってきた私自身のことを。
*
〔もう少し詳細な解説〕
** 望郷の月 **
望郷の月/第七番歌
天の原 :大空のこと
〔本文〕
天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に いでし月かも
〔読み方〕
あまのはら ふりさけみれば かずがなる
みかさのやまに いでしつきかも
(画像はイメージです/出典:photoAC)
【意訳(Free translation)】
大空を見渡せば、
ああ、月が昇っている。きれいな月だ・・
・・・
故郷の、春日の三笠山に昇ってくる月を思い出すなぁ・・
この異国の地へ来て、もう何年になるのだろう。
ああ、帰りたい・・でも、帰れない。
今日も、心は望郷の念でいっぱいだ・・
*
〔もう少し詳しい解説〕
** 夏の月 **
夏の月/第三十六番歌
月の擬人化:「月が雲に宿る」という表現を選んだ作者は、自然の中に自身の心を溶け込ませていたのでしょう。
〔本文〕
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿るらむ
〔読み方〕
なつのよは まだよひながら あけぬるを
くものいづこに つきやどるらむ
(画像はイメージです/出典:photoAC)
【意訳(Free translation)】
夏、夜になる。
夜空には煌々と輝くお月様。
なんとか世渡りをして、
頑張って生きている私だけれども、
心の中では、いつもひとりぼっちだ。
でも、今だけは違う。
私は夜空の月を相手に話をしている。
人生のこと、仕事のこと、恋愛のこと、家族のこと・・・。
ああ、気が付けば、
さっき夜になったばかりだと思っていたのに、
まだまだお月様と話をしたいと思っていたのに・・
・・・もう朝だ。
夏のよるは、なんて短いんだ。
ああ、気が付けば・・・
ああ、お月様がいない・・・
月は、いったいどこの雲に隠れて宿をとっているのだろう。
お月様、また今夜お話をしようね。
それまで、おやすみさない。
枕草子の内容を鑑みれば、作者が上記のような意味を持たせてこの和歌を詠んだとは私は思っていません。ただ、作者が誰であるとかを除いて、この和歌の三十一文字だけを想像したとき、このような意訳があってもの面白いのではないかと思う次第でございます。
それが、意訳の楽しさであり、詩歌を自由に鑑賞する面白さなのです。鑑賞すべきはひとつの正解ではなく、作品の三十一文字から得られる鑑賞者それぞれの感慨です。
〔もう少し詳しい解説〕
** 秋の月 **
夏の月の次は「秋の月」・・二首あります。
ちなみに、春の月、冬の月は、百人一首の歌に詠まれていません。
百人一首/第二十三番歌
陳腐な悲しさ:独り善がりの思いを秋の月にかこつけた、楽しくも美しくもない歌です・・と、実は私は思っています。
いろいろな資料を読むと、この歌は白楽天の漢詩を土台にしているようです。
「月」と「わが身」、「千々」と「ひとつ」は対句です。
人様の作品を下敷きにすることで、自分本来の秋の月への感慨というものを表現することが後回しになってしまったのかもしれません。
〔本文〕
月見れば 千々にものこそ 悲しけれ
わが身ひとつの 秋にはあらねど
〔読み〕
つきみれば ちぢにものこそ かなしけれ
わがみひとつの あきにはあらねど
月見れば・・
(画像はイメージです/出典:photoAC)
【意訳(Free translation)】
ああ、月が出ている。
寒々とした真っ暗な夜空に、一生懸命に輝いているお月様。
月は一年中、晴れた日にはいつだって眺めているはずなのに、
秋の月は、どうしてこうも悲しいんだろう。
・・・・・
秋の月を見ると、いろいろな事がいろいろ頭に浮かんできて、
ほんと、悲しい気持ちになってしまう。
ただ・・・よくよく考えてみれば、
この秋は、万人のところにやってきていて、
みんな、この秋の月を眺めているんだよね。
決して、私一人だけの秋ではないんだよね。
・・・・・
でもさ、
この寂しさは、きっと私だけのものかもしれないよ。
私には私の、悲しい人生というものが、あるからね。
それは、誰にも分らないこと、
私だけが知っていれば、それで、いいことさ。
*
〔もう少し詳しい解説〕
もうひとつの「秋の月」は、
キラキラ輝いていて、美しい「秋の月」を感じます。
秋の月/第七十九番歌
自然の造形美:「たなびく雲」と「輝く月」、秋の夜空に共演しています。
〔本文〕
秋風に たなびく雲の 絶え間より
もれ出づる月の 影のさやけさ
〔読み方〕
あきかぜに たなびくくもの たえまより
もれいづるつきの かげのさやけさ
(画像はイメージです/出典:photoAC)
意訳〔free translation〕
ほら、夜の空に秋の風がふいている。
少し肌寒い・・もう秋になってしまったんだね。
見てごらん。
雲が、輝くお月様に照らされて、ゆっくり流れていくよ。
たなびく雲の間から、時折もれる月の光のその輝きは、
なんて清々しくてきれいなんだろう。
こんなに綺麗な月を観ることは、そうそうないと思うよ。
きれいだね、秋の月・・・
*
〔もう少し詳しい解説〕
** 月を題材にした恋歌 **
百人一首には恋歌が四十三首あるとされています。
その中にあって、月を題材にした恋歌には、冒頭に紹介しました第二十一番歌(今来むと~)、そして、以下の二首があります。
月を題材にした恋歌/第五十九番歌
時間の経過:この歌では、月が時間の経過を物語っています。そして、西の空に傾く月は失恋を告げているのです。恨めしい月です。
〔本文〕
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて
かたぶくまでの 月を見しかな
〔読み方〕
やすらはで ねなましものを さよふけて
かたぶくまでの つきをみしかな
(画像はイメージです/出典:photoAC)
〔意訳〕Free translation
嗚呼あ・・・、月があんなに傾いている。
夜はすっかり更けちゃったわねぇ・・・
やっぱり・・あの人は、来なかったわ。
この恋は、もう終わりなのかもしれないわねぇ・・・
来ないと分かっていたら、
迷わないで寝ていたのになぁ・・・
起きて待っていて、損しちゃった。
それにしても、月のきれいなこと・・・。
恨めしいかぎりだわ・・・
*
〔もう少し詳しい解説〕
もうひとつの月を題材にした恋歌は、
恋の歌らしくない、その心持はとても控え目です。
月を題材にした恋歌/第八十六番歌
月を見て思う:この歌から、平安時代の月は物思いをさせる象徴であったことが伺えます。そしてまた、そのような感慨は今も私達の心に眠っていると思われます。
〔本文〕
嘆けとて 月やはものを 思はする
かこち顔なる わが涙かな
〔読み方〕
なげけとて つきやはものを おもはする
かこちがほなる わがなみだかな
(画像はイメージです/出典:photoAC)
【意訳(Free translation)】
あ~あ、恋なんていうものは、なかなか上手くはいかないものなんだなぁ…。
上手くいかないから、悲しくなって涙が出てきたよ。
私のそんな弱気な気持ちに比べて、月のなんと立派なことだろう。
夜空を見上げれば、月は煌々と輝きながら大地を照らしている,,,美しいなぁ…。
月をじーっと見ていると、
月は、まるで、わたしに、
「辛いなら嘆いてみれば? 嘆いていいんだよ。さあ、嘆きなさい!」って、言っているようだ。月は、それくらい、煌々と自信を持って輝いている。いいなあ~、月は。
・・・・・
そうだ、この涙は、恋が上手くいかないという辛さから流れた涙じゃあない、
月があんまりにも美しいから感動して流れてきた・・・そういうことにしよう。
*
〔もう少し詳しい解説〕
以上、百人一首から、月を詠んだ和歌十一首でした。
読んでくださり、ありがとうございます。
(画像はイメージです/出典:phtotoAC)